滝川一積
滝川 一積(たきがわ かずあつ)[注釈 1]は、江戸時代前期の旗本。通称は三九郎。滝川一益の孫[2]。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 天正13年(1585年)? |
死没 | 明暦元年5月26日(1655年6月30日) |
別名 | 通称:三九郎 |
戒名 | 洞雲院空生無丿居士 |
墓所 | 京都花園妙心寺の塔頭瑞松院 |
幕府 | 江戸幕府 書院番、使番 |
主君 | 中村一忠、徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 滝川氏 |
父母 | 滝川一忠 |
妻 | 真田昌幸の娘(趙州院) |
子 |
一明 養女:宇田頼次の娘(小山田之知室)、真田信繁の娘(片倉重長室、阿梅)、真田信繁の娘(蒲生郷喜もしくはその息子の室、あくり) |
経歴
編集滝川一益の長男滝川一忠の長男[2]。祖父一益と父一忠は天正14年(1584年)に小牧・長久手の戦いの中で行われた蟹江城合戦に敗れて没落しており[4]、この頃に生まれた一積の生い立ちについては定かではない[注釈 2]。時期は不明であるが、真田昌幸の娘で石田三成の父正継の猶子石田刑部少輔(宇多頼次)の妻だった趙州院と結婚した[5][注釈 3]。
慶長年間に伯耆米子藩主中村一忠に仕えた[2][注釈 4]。慶長8年(1603年)、一忠が家老の横田村詮を手打ちにし、その屋敷に立て籠った一族や村詮恩顧の者たちと合戦になった際に、攻め手に加わって柳生宗章(柳生宗厳の四男)と戦い、負傷した[7][注釈 5]。
同年、徳川家康から2000石を拝領して旗本となっていた叔父(滝川一益の次男)滝川一時が若くして死去し、子の滝川一乗が2歳だったため、翌9年(1604年)、幕命で中村一忠の下から呼び返され、一乗が15歳になるまでの名代として2000石を継ぐように命じられた。一積は一乗とその母および祖母のために250石を分与して合計1750石を知行する旗本となり、書院番の番士となった[2][3][10][注釈 6]。
慶長19・20年(1614年・1615年)の両度の大坂の陣に参陣し[2]、京都を守衛した[3]。軍功により元和元年(1615年)末に300石の加増を受けた[11]。元和2年(1616年)、15歳になった一乗が名代である一積が所領を返還しないとして訴え出て、将軍徳川秀忠の裁定により一積から一乗に750石を分与した[10]。寛永3年(1626年)、秀忠の上洛に供奉し、参内の列に加わった[12]。
幕府における役職は最終的に使番に昇った[13]一方、妻の前夫である石田刑部少輔の娘を養女に迎えて義兄である松代藩主真田信之の家老小山田之知に嫁がせるなど、妻の実家である真田家と重縁を結んでいた[5]。また、義兄で大坂夏の陣で幕府と敵対して戦死した真田信繁の娘を本多正純の許可を得て引き取っており[13]、仙台藩の家老片倉重長と結婚した信繁の娘阿梅は一積の養女として片倉家に嫁いだとする説もある[14]。もう一人の信繁の娘あくり(あぐり)は蒲生家の重臣で三春城代(のち伊予松山藩家老)の蒲生郷喜の息子に嫁がせた[2][5][13][注釈 7]。
ところが、寛永9年(1632年)、松山藩主蒲生忠知の家中で郷喜と対立する福西宗長と関元吉(一利)が、郷喜が幕府に敵意を抱いていると訴え出て、その理由の一つとして息子の嫁に真田信繁の娘を迎えたことを挙げた(寛永蒲生騒動)。7月10日、将軍徳川家光の御前における両者の対決に証人として召喚された一積は、信繁の縁者であることからその妻子が窮乏するのを見るに忍びず、許可を得て娘を養育したことを証言し、これにより一積の娘として嫁に迎えたという郷喜の主張が認められたが、一積は信繁の娘を養女として蒲生家の家臣に嫁がせたこと、巡見使として豊後国に派遣された帰路に私用で伊予国に立ち寄り蒲生家から饗応を受けたことが審議の過程で発覚したことで家光の勘気を被り、7月16日、追放の処分が下されて改易された[2][15]。
浪人となった一積は妻の趙州院とともに京都に居住し、明暦元年(1655年)に同地で没した[5]。享年は滝川家呈譜によれば71[3][注釈 8]。
関連作品
編集- 小説
- テレビドラマ
脚注
編集注釈
編集- ^ 池波正太郎の小説『真田太平記』は「滝川三九郎一績」と表記するが[1]、『寛政重修諸家譜』およびその編纂に当たって滝川家から江戸幕府に提出された家譜によれば「一積」が正しい[2][3]。
- ^ 池波正太郎の小説『真田太平記』では作中の設定として、父一忠とともに関ヶ原の戦いの10年ほど前から江戸郊外の小石川指ヶ谷(現在の東京都文京区白山)に隠宅を構え、父の没後に諸国を巡回していたとする[1]。
- ^ 松代藩の史料『仰応貴録』は関ヶ原の戦いの後、石田三成の縁者から妹の趙州院を引き取った真田信之が申し開きの難しい立場に困っていたところ、一積が1万石か数千石かの領地を返上するのと引き換えに趙州院を自分の妻として引き取ってくれたために真田家はお咎めなく10万石の領地を与えられたという逸話を載せるが、松代藩編纂の歴史書である『真田家御事蹟稿』で不正確と考証されている[6]。
- ^ 『諸家系譜』収載の滝川家呈譜では浪人として中村一忠の下に逗留していただけで、米子藩に出仕していなかったことになっている[3]。
- ^ 『伯耆志』および『中村一忠治世記』は一積が柳生宗章と戦って討ち死にしたと誤っている[8][9]。
- ^ 滝川家呈譜では滝川一時が慶長8年(1603年)6月に病没してからすぐに老中が連署で中村一忠に一積を江戸に差し出すように伝達し、7月に江戸に参府して8月に2000石を与えられて旗本として召し抱えられたことになっている。この説を取れば、11月の米子横田騒動に参戦していなかったことになる[3]。
- ^ 信繁の娘の夫を蒲生郷喜とする史料もある[14]。
- ^ 生年は逆算すると天正13年(1585年)となる。池波正太郎の小説では享年80歳に設定されている[16]ので、生年は天正4年(1576年)となる。
- ^ 「武士の紋章」では滝川三九郎が柳生宗章の弟子だったことになっているが[16]、『中村一氏記』および『中村一忠治世記』によれば、師である宗章と戦った弟子は、滝川三九郎の前に宗章と打ち合って戦死した中村一忠の小姓今井次郎七という者である[7][9]。
出典
編集- ^ a b c 池波正太郎『真田太平記』 第6巻(家康東下)(第41刷改版)、新潮社〈新潮文庫〉、2005年、494-503頁。
- ^ a b c d e f g h i 『寛政重脩諸家譜』 第4輯、國民圖書、1923年、446頁 。
- ^ a b c d e f 『諸家系譜』 滝川・滝・滝野・滝村・立花 。(国立公文書館デジタルアーカイブ)76-77コマ。
- ^ 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 第9巻 (たかーて)、吉川弘文館、1988年、93頁。
- ^ a b c d 『新編信濃史料叢書』 第15巻 (真田家御事蹟稿)、信濃史料刊行会、1977年、150-151頁 。
- ^ 『新編信濃史料叢書』 第15巻 (真田家御事蹟稿)、信濃史料刊行会、1977年、148頁 。
- ^ a b 『続群書類従』 第20輯ノ下 合戦部、続群書類従完成会、1923年、465頁 。
- ^ 『伯耆志』 巻7、因伯叢書発行所、1916年、13頁 。
- ^ a b 『中村記』 2巻、稲葉書房、1974年、14頁 。
- ^ a b 『寛政重脩諸家譜』 第4輯、國民圖書、1923年、443頁 。
- ^ 『徳川実紀』 第壹編、経済雑誌社、811頁 。
- ^ 『徳川実紀』 第貳編、経済雑誌社、85頁 。
- ^ a b c 『徳川実紀』 第貳編、経済雑誌社、249-250頁 。
- ^ a b 『新編信濃史料叢書』 第18巻 (真田家御事蹟稿)、信濃史料刊行会、1978年、56頁 。
- ^ 尾下成敏 著「蒲生氏と徳川政権」、谷徹也 編『シリーズ・織豊大名の研究』 第九巻 蒲生氏郷、戒光祥出版、2021年、274-277頁。(初出:日野町史編さん委員会 編『近江日野の歴史』 第2巻 中世編、日野町、2009年。)
- ^ a b 池波正太郎『武士の紋章』(第24刷改版)新潮社〈新潮文庫〉、2008年、36-82頁。
- ^ “『武士(おとこ)の紋章』 池波正太郎/著”. 新潮社. 2025年10月10日閲覧。
- ^ 池波正太郎『真田太平記』 第7巻(関ヶ原)(第41刷改版)、新潮社〈新潮文庫〉、2005年、127-139頁。