「ノート:エホバの証人」の版間の差分
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:ですから、エホバの証人は論破などをやる必要はないのです。目的は「音信」を伝えることです。
:さらに気になったのですが、「エホバの証人の見解は~」、「部外者の見解は~」と言っておられますが、そもそもWikipediaは「百科事典」だと言うことをご理解いただいているのでしょうか?百科事典は見解を書くところではないと思いますが、いかがでしょう?[[利用者:125.195.29.225|125.195.29.225]] 2007年6月22日 (金) 13:49 (UTC)
>「新世界訳聖書を絶対基準としている」と言う点は間違いないようです。
あなたの発言からは、あなたがエホバの証人のようにも、そうでないようにも見えるのですが、いったいどちらなのでしょう?。そんな事実はどこにもありませんよ?(理由については下の方の説明を参照してください)。
Siyajkak さんは管理者ではありません([[特別:Listusers]]にてグループを「管理者」に指定すると吉)。まぁ、それはそれでおいといて、家庭訪問の目的は説得ではありません。一般に「証言」と呼ばれるこうした活動は、マタイ24章14節、他類似の聖句に示される預言を成就するための活動です。
そして,王国のこの良いたよりは,
あらゆる国民に対する'''証しのため'''に,
人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。
それから終わりが来るのです。 - マタイ24章14節(新世界訳)
イザヤ6章8節から12節もこれにやや似ていますが、イザヤの預言がイエスの時代に成就した(マタイ13:14-15参照)のに対し、マタイの聖句はイエス自身が語った「臨在(再臨)のしるし」(マタイ24:3)のうちの一つ、つまりはさらに将来の出来事であるという違いがあります。
で、エホバの証人というのは、こうした未だ成就したとはいえない預言のうちの幾つかを、単なる「将来成就するであろう出来事の説明」であるとは考えず、「自分達で成就させるべき預言」であると捉えます。ですから、イザヤ2章の「剣をすきの刃に…」を今日に当てはめた結果、兵役拒否や武道の授業を拒否することに繋がり、ローマ10章13-15節等を根拠に上記のマタイの聖句を今日に当てはめた結果、宣教に勤しむことに繋がるのです。
ところで、上記の Siyajkak さんの説明によれば、「説得」するためには「教理問答の訓練」が必要であるとのことですが、目的は「説得」ではありませんので「教理問答の訓練」というのは必要不可欠ではないようです。「教理問答」に該当しそうなものですぐに思いつくのは、初めて伝道者になる際、その資格があるかどうかを確かめるための一連の質問あたりです。伝道者の資格云々について知識を試されるのは、「訪問先で誤った証言をしないために」という理由だったと思うのですが、これがいわゆる「教理問答」なのでしょうか?。もしそうだとしても、たった一度きりですので「訓練」とは呼べないでしょう。また、「神権宣教学校」における訓練とは会話技術の訓練であって、教理の訓練ではありません(例として、「し」の音は語尾がかすれる傾向があるので発音の際には注意すべし、など)。そこでは、男性信者は公演者となるための訓練を受け、女性信者は様々な場面を想定しての証言シミュレーションを行うのですが、どちらも筋書きなどが用意されているわけではなく、実際に扱われる内容は、割り当てを受けた者による創作です。
そういった意味では、むしろ「ものみの塔研究」や「書籍研究」の方が「教理問答」に近いのでしょうけれども、これらの書籍は一般配布されていますし、内容も「教理」に留まらず多岐に及んでいるはずです。ですので実際に「教理問答」に該当しそうなのは「家庭聖書研究」のみになりますが、これが行われるのはバプテスマまでであり、「教理問答の訓練」と称する'''繰り返し受ける訓練'''とは違う気がします。教理を教わるのは研究生である期間のみであり、その後は知識を取り入れることよりもむしろ教理の実践こそが求められます(つまりは教理を深く学ぶことよりも宣教に赴くことが尊ばれる)。ですから、基礎的な知識から一歩進んでさらに深い教理を学ぶには、「ものみの塔研究」等で扱われるのを待つか、個人研究によって知識を増し加えるかの2つしかありません。それを裏付けるように、「バプテスマ以降のその人の成長は、その人自身の努力にかかっている」というような説明もあちらこちらに存在するはずです。
また、「繰り返し」というのは、「カルト」←「マインドコントロール」←「繰り返し」、という事柄から頭が離れない人たちによって量産された妄想の産物に過ぎませんので、情報源をきちんと選んだ方がよろしいかと(まぁ、それに限らず「絶対」などの強い表現からも、その出典の種類がどんなものか明白なのですが…)。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2007年6月22日 (金) 14:36 (UTC)
== 現在の記事に対するコメント ==
長文になりますので、独立した節として投稿します。
;「教義」の項
「教義」に対応する英語は、doctrine の他、dogma も含まれるようなので、「教義」よりも「教理」(doctrine のみ)の方が良さそうです。ちなみに、『新世界約聖書』本文には「教理」の語が5回出現しますが、「教義」は0回です。
また、「特徴的な教義」とある割には、教理が何でもかんでも列挙されすぎているような気がします。「特徴的」であるならば、他のキリスト教と異なる部分だけを記述すればよいのでは?。「終わりの日」の推定等の年代計算、つまりダニエル書4章の「七つの時」、9章の「70週」、12章の「1290日」「1335日」といったあたりの解釈は、再臨派系において先行して研究が進められていた(過去形、現在は不明)はずですし、道徳上の記述に関しても、[[ピューリタン|清教徒]]的性質を色濃く受け継ぐ教派ではごく当たり前の事柄のはずです(エホバの証人以外のキリスト教徒はすべて不道徳であると皆が考えているならば、あえて記述することに反対はしませんが)。また、「原罪」に類する説明にしても、エホバの証人のオリジナルではないのでは?。
概説すると、主要な教義と呼べるものは、(1)聖書の真実性を唱えること、(2)三位一体の否定、(3)不滅の魂の否定、といったあたりであり、その他、特徴的な教義が(4)偶像崇拝を徹底的に避ける、(5)政治的中立、(6)非暴力、(7)輸血拒否。関連して、(1)創造論の支持、(2)父、子、聖霊について、(3)天国と地獄、復活について、(4)十字架、国歌斉唱・国旗敬礼、(5)法律の可能な限りな遵守、(6)兵役拒否、格闘技・護身術に対する見解、となり、その他ざっと見渡した感じ、クリスマスに関して、浸礼式のバプテスマ、簡単な臨在の説明(1914年の説明もここで)、称号を用いないこと … 記述するのはこれくらいで十分でしょう。
以下、個別のコメント:
*''神は愛である''
*:う~ん、こうしたものが本当に「特徴的な教義」なのか?。
*''新約聖書をギリシャ語聖書と呼ぶ''
*:不正確。「ギリシャ語聖書」では『七十人訳』等、他のギリシャ語訳聖書との区別がつかないため、書籍中では必ず「クリスチャン・ギリシャ語聖書」という長い呼称を用いているはず。が、この呼び名を強要しているわけでもなければ教理でもなく、不要な情報。
*''エホバと翻訳して用いている''
*:これも教理ではない。が、別項にて言語毎に異なる点を解説しても良いかも(ヤハウェである言語も存在する/『ふれ告げる人々』のどこかに一覧あり)。
*''「年長者(長老)」と呼ばれる。彼らは「監督」とも呼ばれ''
*:「兄弟」としか呼ばないので説明が変。立場を説明するために長老であることを'''紹介'''することはあるが、「長老」と'''呼びかけることはない'''。「年長者」、「監督」も同様で、この語を用いているのは、雑誌・書籍の記事中において、対応する聖句と共に説明するような場合のみ。そもそも教理ではないし、[[エホバの証人の組織構造]]という別記事が存在するので不要な説明。
*''バプテスマを受けることにより、正式なエホバの証人となり、男性は「兄弟」、女性は「姉妹」と呼ばれる。''
*:現在、「兄弟・姉妹」と呼ばれることとバプテスマとの間には関連性がなく、10年以上前の古い情報(「王国宣教」96年4月号の質問箱)。また、全文にわたって教理とは呼べない内容。
*''黙示録の大いなるバビロンはキリスト教世界 … 異端的教派と扱われている。''
*:不正確。「大いなるバビロン」は仏教、イスラム教など他の全ての宗教を包含していると解説しているはず。ただし、『聖書』という知識(真理)を授けられたが故に、その意味をねじ曲げて伝えてきたキリスト教系宗教の功罪が最も大きいと解説する。また、「異端的教派と扱われている」ではかなり変(要出典、公文書において「扱われている」事の証明)で、「伝統的キリスト教からは異端視される事が多い」くらいの表現であれば問題を感じない(実際問題として、エホバの証人に友好的に接する伝統的キリスト教の神父・牧師クラスの人物も少なからず存在するので)。もっとも、「異端」という言葉をこのようして無理やり「教義」に付け加えるのではなく、別項にて(POVに気をつけながら)堂々と記述すれば良いものと思われる。
;「慣習」の項
:「''新しい参加者は歓迎される。''」の一文は不要でしょう。記述が禁止されている「宣伝」に該当する畏れあり。また、「''最低月に一回は宣教活動に参加することが求められている''」も多分嘘。英語版の古い版(今は記述が存在しない模様)によれば、毎月の「王国宣教」に掲載される伝道者としてカウントされるためには、毎月?時間の奉仕時間が求められる、との記述があったと記憶しています(つまり求められるのは回数ではなく時間であり、「カウント」というところもミソ)。「''近年、宣教奉仕ではなるべく新世界訳聖書から証言することが強く勧められている。''」の部分については聞いたことがありません(要出典、『新世界訳』ではなく「相手の望む訳」のはずだったのですが、いつの間に方針が正反対に変わってしまったのか?)。「交わり」への言及も不要でしょう。[[王国会館]]の記事と被る部分も多く、項目全体が不要と思われる。
;「起源と歴史」の項
*''「エホバの証人…」 … という名称を採択した。''
*:「オハイオ州シーダーポイントの大会において会場の満場一致で採択され、その後、世界各国で開かれた他の大会もこれに追随…」というのが定説だと思うのですが、現在の文面ではラザフォードの独断で採択されたという意味に受け取れます(要修正)。
*''フレデリック・ウイリアム・フランズ … 組織内の粛正に努めた。''
*:で、その「粛清」とやらでいったい何十人の犠牲者が出たのですか?。たった一人が排斥されただけでも「粛正に努めた」という表現が妥当なのでしょうか?。もしくは、広島会衆の「粛清」は同会長の指示によるのでしょうか?。そもそも「排斥」との説明が正しいならば、普通は「粛清」とは呼ばないでしょう。この表現はPOVかと思われますし、広島会衆の記述についても地域POV以外の何物でもないでしょう。
*''ヘンシェルが5代会長に就任する … 文字通り一「世代」のうちにハルマゲドンが来るとの教義に変更が加えられた。''
*:それは1985年ではなく、1992年から2003年の間のことなのでしょうか?。
*''ドン・A・アダムズが会長に就任し、今に至る。''
*:(CEOではなく)「会長」なのでしょうか?。
*''信徒数は650万人ほどである。''
*:そもそも「信徒」とは、どこからどの段階までの人のことなのでしょう?。「バプテスマを受けていない伝道者」は信徒でしょうか?。伝道者ではないものの「エホバの証人を自認する者」は信徒でしょうか?。私の感覚では両者とも「信徒」になるのですが、650万人という数には後者は含まれていません。表現としては「伝道者数」が適切です。
;「日本での活動」の項
*''(キリスト教系の団体ではカトリックに次いで第2位と公称)''
*:「第2位と公称」していたとは知りませんでした(要出典)。また、全体的な内容としても、「エホバの証人」ではなく「[[ものみの塔聖書冊子協会]]」側で扱うべき話題かと。
;「社会的側面」の項
全体的に地域POV(日本偏向)的要素が目立ち、内容もゴシップ的なものが多いようなので、編集よりも項目の取捨選択に関する協議をまず優先させるべきかと。過去ログ化されてしまいましたが、「社会との摩擦」という表記を再度推します。その際、もし『パーフェクトワールド』等の記述が必要であるならば、「(仮)エホバの証人が扱われている作品」等の別項目へ移設すると良いでしょう。
*''特に宗教を理由として、非信者の家族から離婚請求訴訟を起こされることがある。(信者側は原則離婚を認めていない)。''
*:嘘。裁判で争われるというその状況こそが異常であるといえます。以前にも説明したので繰り返しになりますが、未信者の配偶者から離婚を迫られた場合、その求めに応じるのが普通なのです(コリント第一 7:15)。ですので、エホバの証人の特徴である、集会に参加すること、伝道活動を行うこと等に代表される活動を原因として「家庭を顧みない」と言われるのは仕方の無いことですし、そのことから離婚を要求するような過激な反応を示す未信者も存在するのも事実です。さらには一部、聖書の原則というものをよく知らないがために、離婚に反対するという無知な信者もいることでしょう。しかし、こうした裁判の原因がエホバの証人の教理にあるかのような、この書き方はいただけません。そもそも、離婚を突きつけられた当事者である証人が教理をきちんと理解していたならば、唯々諾々と相手の求めに応じるはずであり、離婚請求訴訟など起こりようはずもないのですから。それでも、これはエホバの証人の社会的側面と呼ぶべきものなのでしょうか?。
*''伝道活動(布教)に専念するため、''
*:地域POV。あくまで日本の傾向であり、海外では事情が異なる。日本における開拓奉仕への参加動向(全伝道者の1/3~1/4ほど)というのは、世界的な傾向と比べるとかなり高い数値であると言われます。そのあたりの歪みから生まれたのであろう日本独自の傾向もまた、当然ながら地域POVです。
*''フランスにおいては、''
*:これも「ものみの塔聖書冊子協会」側で扱った方が良い話題かと。
前回はあえて書かなかったのですが、「エホバの証人」とは信者一人ひとりを表す言葉です(ですので、例えば「エホバの証人の信者」という表現には違和感を覚えます)。ローマ・カトリックに例えるなら、「ものみの塔聖書冊子協会」に対応するのが「カトリック教会」で、「エホバの証人」に対応するのが「カトリック教徒」になります(加えると、「統治体」が「ローマ教皇庁」といった感じ)。なので、エホバの証人は新約聖書のヘブライ人への手紙11章に名前が挙げられている人物すべてを「エホバの証人」であるとするのみならず、イエス・キリストでさえも「エホバの証人」の一人であると主張しています。こちらの記事では教義に関する内容を、「ものみの塔聖書冊子協会」の記事では組織に関する内容を、と分離することを前回提案した背景には、こうした理由があるのです。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2007年6月22日 (金) 14:36 (UTC)
== 提案というか… ==
なぜ編集合戦が起こるのか、その点を認識していない人が多すぎるように感じます。もう一年以上前、削除された編集履歴のうちの出来事なのですが、中立性のかけらもない記述を多く書き加えながら、その記述を削除して回る者のことを「荒らし」と呼ぶ人がいました。結局両者の編集は短期間のうちに無意味な履歴を量産したのですが、私に言わせれば「荒らし」という点ではどちらも同じです。
エホバの証人の現役信者の方々に言っておきます。編集合戦に参加することはあなた方の益にはなりません。編集合戦とは無価値な編集の積み重ねの履歴に過ぎず、ウィキペディアという編集空間を善意で提供して下さる財団に対する背信行為以外の何物でもありません。つまりそれは、あなた方を「道理をわきまえない者」とみなす根拠になりこそすれ、「道理をわきまえた者」であることを立証することはならないからです。
どうしても編集したいのであれば、それは週一回程度に留めておくと良いでしょう。反対者による無秩序ぶりがいよいよ酷くなれば、中立の第三者が立ち上がってくれるかも知れません。が、あなた方が編集合戦に参加している現状ではそれは望むべくもないでしょう。
ちなみに、英語版にはかなり以前よりエホバの証人のプロジェクトが存在する([[:en:Wikipedia:WikiProject Jehovah's Witnesses]])のですが、まだ参加者が10人にも満たなかった当時、そのノートでの議論をざっと見たところ、プロジェクトの初期参加者達は、皆エホバの証人ではないらしいということだけは分かりました。[[利用者:Rigel|Rigel]] 2007年6月22日 (金) 14:36 (UTC)
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