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|name = Egon Schiele<br />エゴン・シーレ
|image = Egon-schiele.jpg
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|caption =
|birth_name = Egon Schiele
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|nationality = [[チェコ人|チェコ]]系[[オーストリア人]]
|field = [[絵画]]
|training = {{仮リンク|ウィーン工芸学校|de|Kunstgewerbeschule}}<br>[[ウィーン美術アカデミー学校]]
|movement = [[象徴派]]<br />[[ウィーン分離派]]<br />[[表現主義]]
|patrons = [[グスタフ・クリムト]]
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[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア・ハンガリー]]の首都[[ウィーン]]近郊にある{{仮リンク|トゥルン・アン・デア・ドナウ|de|Tulln an der Donau}}に生まれる。父アドルフ・シーレは[[オーストリア連邦鉄道|帝国鉄道]]の鉄道員として働き、後には駅長を務めている。母マリア・ソウクップ・シーレは[[チェスキー・クルムロフ|クルマウ・アン・デア・モルダウ]]市出身の[[チェコ人|チェコ系オーストリア人]]であった。シーレ家は北ドイツ出身で[[ルター派教会]]牧師、官吏、軍人、医者を輩出した中産階級の家系である。鉄道技師だった祖父ルートヴィヒ・シーレ(1817-1862)が[[オーストリア北西部鉄道]]の敷設に関わり、初代監督官に就任したことによって[[オーストリア=ハンガリー帝国]]に住むようになった。[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]が圧倒的なオーストリアにあって、少数派の[[ルター派]][[オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派]]に属していた<ref>ヴォルフガンク・ゲオルグ・フィッシャー『エゴン・シーレ』 タッシェン・ジャパン〈コンパクト・ミディシリーズ〉、2005年、7頁。</ref>。なお、オーストリアでは19世紀後半以降、芸術、文学、建築等で新教徒の活躍が目立ち、彼もその集団の一人でもあった<ref>http://magazine.orf.at/alpha/programm/2008/081217_ori.htm</ref>。
 
幼少期にシーレは初等教育を受ける為にクロスターノイブルク市へ移住、そこで美術担当の教員から早熟な才能を認められている。教師からの推薦を受けたことはシーレにとって大きな後押しとなった。15歳の時に父が梅毒で病没すると叔父レオポルドに引き取られた。叔父はシーレが学業に励まないことに悩んだが、同時に芸術への強い興味に理解を示すなどシーレに愛情を持って接している。翌年にシーレは[[ギムナジウム]]ではなく職人としての訓練を受ける許可を得て、16歳の時に[[グスタフ・クリムト]]と同じ{{仮リンク|ウィーン工芸美術学校|de|Kunstgewerbeschule}}に学んだ。ただ異なったのはクリムトがそのまま[[職工]]として開業したのに対し、より[[アカデミック]]色が強く[[純粋芸術]]を追求する場であった[[ウィーン美術アカデミー学校]]へ更に進学した点であった。
 
ちなみにシーレが同アカデミー美術学校に入学した1906年の翌年と翌々年には、[[アドルフ・ヒトラー]]が同アカデミー美術学校を受験して不合格になっている。
 
=== クリムトとの出会い ===