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[[ファイル:Yoshitoshi The Ghost.jpg|thumb|230px|[[月岡芳年]]の大判[[錦絵]][[連作 (作品)|揃物]]『[[月百姿]]』の内「源氏夕顔巻」
[[ファイル:Funazu - Yoshitoshi ryakuga - Walters 95350.jpg|thumb|300px|[[月岡芳年]]の中判錦絵揃物『芳年略画』の内「応挙の幽霊」
'''幽霊'''(ゆうれい)とは、
* 死んだ者が[[成仏]]できず姿をあらわしたもの<ref>広辞苑第五版「死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの。」</ref>
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== 概要 ==
幽霊というのは、[[小学館]]『[[日本大百科全書]]』でも、[[平凡社]]『[[世界大百科事典]]』でも「幽霊」の項目に、[[日本]]の幽霊と[[西洋]]の幽霊が並置する形で扱われている<ref name="Nihon_pedia">{{Cite book|和書|year=1994|title=日本大百科全書【幽霊】|publisher=小学館|pages=p.391}}</ref><ref name="Sekai_pedia">{{Cite book|和書|year=1988|title=世界大百科事典【幽霊】|publisher=平凡社|edition=初版|pages=p.623}}</ref>。このように、洋の東西を問わず世界に広く
▲<ref name="Sekai_pedia">{{Cite book|和書|year=1988|title=世界大百科事典【幽霊】|publisher=平凡社|edition=初版|pages=p.623}}</ref>。このように、洋の東西を問わず世界に広く、類似の記載はあり、[[中世]]の[[ヨーロッパ]]にも<ref>[[ジャン=クロード・シュミット]]『中世の幽霊――西欧社会における生者と死者』みすず書房、2010、 ISBN 4622075164</ref>、日本の隣の国、[[中国]]にも<ref>竹田晃『中国の幽霊―怪異を語る伝統』東京大学出版会、1980、ISBN 4130830139</ref>、また陸上だけでなく、世界の海にもいるとする記載がある<ref>クリエイティブ・スイート『世界の海賊 伝説と謎』PHP文庫、2010</ref> 。
西洋でも、(日本同様に)人間の肉体が死んでも[[魂
== 日本 ==
古くは{{いつ|date=2018年2月}}、何かを告知したり要求するために出現するとされていた<ref name="Sekai_pedia" />。しかしその後{{いつ|date=2018年2月}}、次第に[[怨恨]]にもとづく[[復讐]]や[[執着]]のために出現していると考えられるようになり、「幽霊は凄惨なもの」という印象が強められていった<ref name="Sekai_pedia" /><!--※「何時」2つ付けました。元資料からして曖昧表現なのでしょうが、他資料の援用なのどで何とかもう少し時代が絞れまいか。「古く」「その後」では千年以上の幅があり、何時だか全然判りませんよね。-->。「[[戦死者|いくさ死に]]は化けて出ない」との[[伝承|言い伝え]]もあるが、凄惨な最期の姿を留めて出没する戦死者の[[亡霊]]の話は多く、[[伊勢平氏|平家]][[武者]]の亡霊<ref group="*">ここでいう「平家武者」は、[[落武者]]に限らない。また、[[平家の落人]]は武者とは限らない。ここで言及しているのは、戦死した平家武者のみである。</ref>はその典型であろう。幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを真摯に聴いてやり、執着を解消して安心させてやれば、姿を消すという<ref name="Sekai_pedia" />。なお、[[仏教]]的見地でこういった状態になった幽霊を「[[成仏]]した」と称するが、日本の幽霊は仏教の伝来以前から“居た”のであり、そもそもは[[古神道]]ないし[[神道]]の影響下にあって、成仏ではなく[[鎮魂]]されていた。
日本
▲日本で[[葬式]]の際に[[願戻し]]、死後の[[口寄せ]]、あるいは[[施餓鬼]]供養などを行うのは、ある意味で死者たちが成仏しやすくしてやり、幽霊化するのを防ぐことだといえる<ref name="Sekai_pedia" />。
=== 歴史 ===
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[[昔話]]には「[[子育て幽霊]]」や「[[幽霊女房]]」、「幽霊松」(切られると血を流す松)などの話がある<ref name="Sekai_pedia" />。
▲[[File:Funayurei.jpg|thumb|150px|男女の船幽霊(『[[諸国因果物語]]』より)<ref>『西鶴と浮世草子研究 第二号 特集[怪異]』付録(1)怪異物挿絵大全 近藤瑞木・佐伯孝弘編 笠間書院</ref>]]
日本は[[島国]]であるためなのか、[[船幽霊]]など、[[海]]の幽霊の話も多い。その内容とは例えば、[[幽霊船]]が現れて、幽霊が「[[柄杓]]<sup>(ひしゃく)</sup>を貸してくれ」というが、それを渡すとその柄杓で水を汲んで水船(水没してゆく船)にされてしまうといい、幽霊には柄杓の底を抜いてから渡さなければならない、とする<ref name="Nihon_pedia" />。[[紀伊国|紀州]]に伝わる話では、幽霊船が出たら、かまわずぶつかってゆけば消えてしまうとされる<ref name="Nihon_pedia" />。
[[室町時代]]以降、幽霊は[[歌謡]]や[[歌舞伎]]のテーマとしても扱われるようになった<ref name="Nihon_pedia" />。
[[江戸時代]]後期の[[国学者]]・[[津村淙庵]]が[[寛政]]7年([[1795年]])に語ったところでは、[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]<ref group="*">元資料は言及していないが、「7月13日」は[[旧暦]]に基づく日付であると常識的に解釈し、そのように記載した。ただ、旧暦と[[新暦]]の混用は専門家の文にすら散見される誤表記であり、新暦に換算された日付である可能性が、非常識ながら存在する。</ref>にかならず、[[難破船]]の[[船乗り]]の幽霊が、[[相模国]](現・[[神奈川県]])にある[[灯明台]]に参集したという<ref name="Nihon_pedia" />。
出遭った時点では幽霊と気づかず、実はすでに亡くなった人物であったと後になって気づくという話も、古今の別なく様々に語られている。[[古代]]においては、『[[日本書紀]]』[[雄略天皇]]9年条(西暦[[465年]]の条)の記述を、[[近世]]においては、『[[耳嚢]]』巻之五([[寛政]]7年〈[[1795年]]〉)の、亡くなった小侍の話を、そして、20世紀においては、[[1997年]](平成9年)に公開された[[日本映画]]『[[学校の怪談 (映画)|学校の怪談2]]』の___<!--※タイトルのみで具体的内容を例として示さないのでは閲覧者に何も伝わりません。執筆を。-->を、例として挙げておく。
==== 伝承される文化・芸術として ====
[[ファイル:SekienHitodama.jpg|thumb|
[[ファイル:Yoshitoshi Ogiku.jpg|thumb|
[[江戸時代]]以前から[[怪談]]という形で[[伝承]]され、江戸時代には[[怪談噺]]などが大流行し、[[雨月物語]]、[[牡丹灯籠|牡丹燈籠]]、[[四谷怪談]]などの名作が作られ、また[[講談]]・[[落語]]や[[草双紙]]・[[浮世絵]]で描かれ花開き、現在も題材として新作から古典の[[笑話]]・[[小説]]・[[劇]]などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。▼
▲幽霊は、[[江戸時代]]以前から[[怪談]]という形で[[伝承]]され、江戸時代には[[怪談噺]]などが大流行し
[[文政]]8年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]<ref group="*">「幽霊の日」の根拠となっている日付([[和暦]]を[[グレゴリオ暦]]換算した日付)「1825年7月26日」から[[旧暦]]の日付を逆算した。</ref>([[1825年]][[7月26日]])に[[江戸]]の[[芝居小屋]]「[[中村座]]」で[[四谷怪談#『東海道四谷怪談』|『東海道四谷怪談』]]が初公演されたことに因んで、[[7月26日]]は「幽霊の日」となっている。
=== 幽霊の姿かたち、現れる場所、時刻 ===
日本では幽霊は古くは生前の姿で現れることになっていた<ref name="Sekai_pedia" />。歌謡などの中でそうされていた<ref name="Sekai_pedia" />。[[江戸時代]]ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の[[額烏帽子]]<sup>(ぬかえぼし)</sup>を着け、[[白装束]]をまとっているとされることが多くなった<ref name="Sekai_pedia" />。
[[元禄]]年間([[1688年|1688]]-[[1704年]]間)に刊行された『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっていた<ref name="Sekai_pedia" />。しかし、[[享保]]17年([[1732年]])刊行の『[[太平百物語]]』では、幽霊の腰から下が細く描かれている。享保年間(1716-36年間)のうちに下半身を朦朧とした姿で描くようになっており、さらに時代を経ると肘を曲げつつ手先を力なく垂れる姿で描くようになってゆく<ref name="Sekai_pedia" />。こうように、江戸時代前期から中期を迎えるまでの間に、今日定型化されている日本の幽霊の造形([[ステレオタイプ]])が形成されていったと考えられる。もっとも、[[大田南畝]]が[[編纂]]した[[横井也有]]の俳文集『[[鶉衣]]』([[天明]]7-8年〈[[1787年|1787]]-[[1788年|88年]]〉刊行)に「腰から下のあるものもないものもある」と書かれている<ref name="Sekai_pedia" />ことから窺えるように、江戸時代後期に差し掛かってもまだ完全には定着しきっていなかったと思われる。
また、日本の幽霊は、[[墓地]]や川べりの柳の下などの場所に現れるとすることが多く<ref name="Sekai_pedia" />、丑三つ時(午前2時ごろ)といった特定の時刻に出現するともいわれている<ref name="Sekai_pedia" />。古くは物の怪の類は真夜中ではなく、日暮れ時([[逢魔時]]、昼と夜の境界)によく現れ、場所も町はずれの[[辻]](町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていたが、江戸
▲[[墓地]]や川べりの柳の下などの場所に現れるとすることが多く<ref name="Sekai_pedia" />、丑三つ時(午前2時ごろ)といった特定の時刻に出現するともいわれている<ref name="Sekai_pedia" />。古くは物の怪の類は真夜中ではなく、日暮れ時([[逢魔時]]、昼と夜の境界)によく現れ、場所も町はずれの辻(町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていたが、江戸期を通じて現代にまで及ぶステレオタイプが形成されたと思われる。
==== 定型化した"死装束の幽霊"、"足のない幽霊" ====
[[
幽霊の中でも「[[牡丹灯篭]]」のお露のように、[[下駄]]の音を響かせて現れる者もいるが、これは[[明治
===
『人はなぜ生まれいかに生きるのか』、ハート出版 2001年10月25日、 ISBN 978-4892954979<br/>
『あの世の話』(佐藤愛子との共著、青春出版社1998年11月、[文春文庫] 文藝春秋2001年12月10日)ISBN 978-4167450052<br/>
など。</ref>。
=== 季語 ===
[[季語]]としての'''幽霊'''(ゆうれい)は、[[夏]]の季語である。[[現代俳句協会]]が『現代俳句歳時記』でこの語を採録しているが
* 例句1 : [[姨捨山|おば]]<ruby><rb>捨</rb><rt>すて</rt></ruby>や '''幽霊'''に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ふ <ruby><rb>今宵</rb><rt>こよひ</rt></ruby>の[[月]] ─ [[松井如流]] 選集『板東太郎』
* 例句2 : '''幽霊'''も[[鬱]]なるか[[傘]]さして立つ ─ [[高柳重信]]
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