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[[ファイル:Yoshitoshi The Ghost.jpg|thumb|230px|[[月岡芳年]]の大判[[錦絵]][[連作 (作品)|揃物]]『[[月百姿]]』の内「源氏夕顔巻」/1886/『[[源氏物語]]』の[[夕顔 (源氏物語)|夕顔]]の巻に材を取った[[1886]](明治19年)の作品。[[光源氏]]の恋人・夕顔は、[[嫉妬]]に狂った[[六条御息所]]の[[生霊]]に憑り殺され、その幽霊は[[ユウガオ|夕顔]]の花の上に現れる。]]
[[ファイル:Funazu - Yoshitoshi ryakuga - Walters 95350.jpg|thumb|300px|[[月岡芳年]]の中判錦絵揃物『芳年略画』の内「応挙の幽霊」/1882/[[1882]](明治15年)の作。[[写生]]に重きを置く[[天才]][[絵師]]・[[円山応挙]]の描く幽霊は、真に迫ること極まりて絵から飛び出したという。[[幕末]]・[[明治]]の人気[[浮世絵師]]・月岡芳年は、有名なこの逸話「応挙の幽霊」を、芳年一流のユーモアでもって視覚化してみせた。描いていた応挙自身が、今まさに紙から抜け出して迫り来る女の幽霊に気付いて、腰を抜かさんばかりに吃驚仰天しているのが、面白おかしい。]]
'''幽霊'''(ゆうれい)とは、
* 死んだ者が[[成仏]]できず姿をあらわしたもの<ref>広辞苑第五版「死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの。」</ref>
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== 概要 ==
幽霊というのは、[[小学館]]『[[日本大百科全書]]』でも、[[平凡社]]『[[世界大百科事典]]』でも「幽霊」の項目に、[[日本]]の幽霊と[[西洋]]の幽霊が並置する形で扱われている<ref name="Nihon_pedia">{{Cite book|和書|year=1994|title=日本大百科全書【幽霊】|publisher=小学館|pages=p.391}}</ref><ref name="Sekai_pedia">{{Cite book|和書|year=1988|title=世界大百科事典【幽霊】|publisher=平凡社|edition=初版|pages=p.623}}</ref>。このように、洋の東西を問わず世界に広く類似の記載はあり、[[中世]][[ヨーロッパ]]にも<ref>[[ジャン=クロード・シュミット]]『中世の幽霊――西欧社会における生者と死者』みすず書房、2010、 ISBN 4622075164</ref>、日本の隣の国、[[中国]]にも<ref>竹田晃『中国の幽霊―怪異を語る伝統』東京大学出版会、1980、ISBN 4130830139</ref>、また上だけで域のみく、らず世界の[[水域]]にもいるとする記がある<ref>クリエイティブ・スイート『世界の海賊 伝説と謎』PHP文庫、2010</ref> 。
幽霊というのは、[[小学館]]『日本大百科全書』でも、[[平凡社]]『世界大百科事典』でも【幽霊】の項目に、[[日本]]の幽霊と[[西洋]]の幽霊が並置する形で扱われている
<ref name="Nihon_pedia">{{Cite book|和書|year=1994|title=日本大百科全書【幽霊】|publisher=小学館|pages=p.391}}</ref>
<ref name="Sekai_pedia">{{Cite book|和書|year=1988|title=世界大百科事典【幽霊】|publisher=平凡社|edition=初版|pages=p.623}}</ref>。このように、洋の東西を問わず世界に広く、類似の記載はあり、[[中世]]の[[ヨーロッパ]]にも<ref>[[ジャン=クロード・シュミット]]『中世の幽霊――西欧社会における生者と死者』みすず書房、2010、 ISBN 4622075164</ref>、日本の隣の国、[[中国]]にも<ref>竹田晃『中国の幽霊―怪異を語る伝統』東京大学出版会、1980、ISBN 4130830139</ref>、また陸上だけでなく、世界の海にもいるとする記載がある<ref>クリエイティブ・スイート『世界の海賊 伝説と謎』PHP文庫、2010</ref> 。
 
西洋でも、(日本同様に)人間の肉体が死んでも[[のほう]]が死なずに現世でうろついたり、家宝を守ったり、現世への未練から現世にとどまったりする話は多くあり、霊が他人や動物にのりうつることもあるといわれる<ref name="Nihon_pedia" />。
 
== 日本 ==
古くは{{いつ|date=2018年2月}}、何かを告知したり要求するために出現するとされていた<ref name="Sekai_pedia" />。しかしその後{{いつ|date=2018年2月}}、次第に[[怨恨]]にもとづく[[復讐]]や[[執着]]のために出現していると考えられるようになり、「幽霊は凄惨なもの」という印象が強められていった<ref name="Sekai_pedia" /><!--※「何時」2つ付けました。元資料からして曖昧表現なのでしょうが、他資料の援用なのどで何とかもう少し時代が絞れまいか。「古く」「その後」では千年以上の幅があり、何時だか全然判りませんよね。-->。「[[戦死者|いくさ死に]]は化けて出ない」との[[伝承|言い伝え]]もあるが、凄惨な最期の姿を留めて出没する戦死者の[[亡霊]]の話は多く、[[伊勢平氏|平家]][[武者]]の亡霊<ref group="*">ここでいう「平家武者」は、[[落武者]]に限らない。また、[[平家の落人]]は武者とは限らない。ここで言及しているのは、戦死した平家武者のみである。</ref>はその典型であろう。幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを真摯に聴いてやり、執着を解消して安心させてやれば、姿を消すという<ref name="Sekai_pedia" />。なお、[[仏教]]的見地でこういった状態になった幽霊を「[[成仏]]した」と称するが、日本の幽霊は仏教の伝来以前から“居た”のであり、そもそもは[[古神道]]ないし[[神道]]の影響下にあって、成仏ではなく[[鎮魂]]されていた。
古くは、何かを告知したり要求するために出現するとされていた<ref name="Sekai_pedia" />。
 
日本の仏式[[葬]]の際に(仏教葬儀)で、[[願戻し]]、死後の[[口寄せ]]、あるいは[[施餓鬼]][[供養]]などを行うのは、ある意味で死者たち成仏しやすくしてやり、幽霊化すのを防ぐことだぎつつ、成仏しやすいように促す整えといえる<ref name="Sekai_pedia" />。
だが、その後次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされ、凄惨なものとされるようになった<ref name="Sekai_pedia" />。
 
「いくさ死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、[[伊勢平氏|平家]]の[[落ち武者]]や戦争での戦死者のように、死んだときの姿のまま現れると言われる幽霊も多い。
 
幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば、姿を消す([[成仏]]する)という<ref name="Sekai_pedia" />。
 
日本で[[葬式]]の際に[[願戻し]]、死後の[[口寄せ]]、あるいは[[施餓鬼]]供養などを行うのは、ある意味で死者たちが成仏しやすくしてやり、幽霊化するのを防ぐことだといえる<ref name="Sekai_pedia" />。
 
=== 歴史 ===
[[Fileファイル:Funayurei.jpg|thumb|150px180px|男女の船幽霊『[[諸国因果物語]]』より)の1図。<ref>『西鶴と浮世草子研究 第二号 特集[怪異]』付録(1)怪異物挿絵大全 近藤瑞木・佐伯孝弘編 笠間書院</ref>]]
[[昔話]]には「[[子育て幽霊]]」や「[[幽霊女房]]」、「幽霊松」(切られると血を流す松)などの話がある<ref name="Sekai_pedia" />。
[[File:Funayurei.jpg|thumb|150px|男女の船幽霊(『[[諸国因果物語]]』より)<ref>『西鶴と浮世草子研究 第二号 特集[怪異]』付録(1)怪異物挿絵大全 近藤瑞木・佐伯孝弘編 笠間書院</ref>]]
 
日本は[[島国]]であるためなのか、[[船幽霊]]など、[[海]]の幽霊の話も多い。その内容とは例えば、[[幽霊船]]が現れて、幽霊が「[[柄杓]]<sup>(ひしゃく)</sup>を貸してくれ」というが、それを渡すとその柄杓で水を汲んで水船(水没してゆく船)にされてしまうといい、幽霊には柄杓の底を抜いてから渡さなければならない、とする<ref name="Nihon_pedia" />。[[紀伊国|紀州]]に伝わる話では、幽霊船が出たら、かまわずぶつかってゆけば消えてしまうとされる<ref name="Nihon_pedia" />。
 
[[室町時代]]以降、幽霊は[[歌謡]]や[[歌舞伎]]のテーマとしても扱われるようになった<ref name="Nihon_pedia" />。
 
[[江戸時代]]後期の[[国学者]]・[[津村淙庵]]が[[寛政]]7年([[1795年]])に語ったところでは、[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]<ref group="*">元資料は言及していないが、「7月13日」は[[旧暦]]に基づく日付であると常識的に解釈し、そのように記載した。ただ、旧暦と[[新暦]]の混用は専門家の文にすら散見される誤表記であり、新暦に換算された日付である可能性が、非常識ながら存在する。</ref>にかならず、[[難破船]]の[[船乗り]]の幽霊が、[[相模国]](現・[[神奈川県]])にある[[灯明台]]に参集したという<ref name="Nihon_pedia" />。
[[津村淙庵]]の話 (1795) では[[相模国|相州]]([[神奈川]])にある灯明台に7月13日にかならず、遭難した船の乗員の幽霊が集まったという<ref name="Nihon_pedia" />。
 
出遭った時点では幽霊と気づかず、実はすでに亡くなった人物であったと後になって気づくという話も、古今の別なく様々に語られている。[[古代]]においては、『[[日本書紀]]』[[雄略天皇]]9年条(西暦[[465年]]の条)の記述を、[[近世]]においては、『[[耳嚢]]』巻之五([[寛政]]7年〈[[1795年]]〉)の、亡くなった小侍の話を、そして、20世紀においては、[[1997年]](平成9年)に公開された[[日本映画]]『[[学校の怪談 (映画)|学校の怪談2]]』の___<!--※タイトルのみで具体的内容を例として示さないのでは閲覧者に何も伝わりません。執筆を。-->を、例として挙げておく。
出会った時点では幽霊であるとは気づかず、後になってから、すでに亡くなった人物(=幽霊)であったと気づく話も、古代から現代にかけて語られている。
* 『[[日本書紀]]』:[[雄略天皇]]9年([[465年]])条の記述。
* 『[[耳嚢]]』 巻之五:[[寛政]]7年([[1795年]])に亡くなった小侍の話。
* 映画『[[学校の怪談 (映画)|学校の怪談2]]』(現代の例)
 
==== 伝承される文化・芸術として ====
[[ファイル:SekienHitodama.jpg|thumb|140px180px|[[鳥山石燕]]『[[今昔画図続百鬼]]』(1779年)より[[人魂]]/安永8年([[1779年]])の作。]]
[[ファイル:Yoshitoshi Ogiku.jpg|thumb|140px180px|right|幽霊大蘇芳年([[皿屋敷|お菊月岡芳年]])の手になる妖怪画の錦絵揃物『[[月岡芳新形三十六怪撰]]』の内「皿やしき於菊乃霊」/[[1890年]]作(1890(明治23年)の作。画題は[[皿屋敷]]のお菊の亡霊。]]
[[江戸時代]]以前から[[怪談]]という形で[[伝承]]され、江戸時代には[[怪談噺]]などが大流行し、[[雨月物語]]、[[牡丹灯籠|牡丹燈籠]]、[[四谷怪談]]などの名作が作られ、また[[講談]]・[[落語]]や[[草双紙]]・[[浮世絵]]で描かれ花開き、現在も題材として新作から古典の[[笑話]]・[[小説]]・[[劇]]などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。
 
幽霊は、[[江戸時代]]以前から[[怪談]]という形で[[伝承]]され、江戸時代には[[怪談噺]]などが大流行した。「[[雨月物語]]」「[[牡丹灯籠|牡丹燈籠]]」「[[四谷怪談]]などといった名作がられ、また[[講談]][[落語]][[草双紙]]、[[水墨画]]、[[浮世絵]]など盛んに描かれ花開き、た。現在も題材として新作から古典の[[笑話]]・[[小説]]・[[劇]]などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。
[[1825年]][[7月26日]]に江戸の[[中村座]]という芝居小屋で「[[東海道四谷怪談]]」が初公演された事に因んで、[[7月26日]]は「幽霊の日」となっている。
 
[[文政]]8年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]<ref group="*">「幽霊の日」の根拠となっている日付([[和暦]]を[[グレゴリオ暦]]換算した日付)「1825年7月26日」から[[旧暦]]の日付を逆算した。</ref>([[1825年]][[7月26日]])に[[江戸]]の[[芝居小屋]]「[[中村座]]」で[[四谷怪談#『東海道四谷怪談』|『東海道四谷怪談』]]が初公演されたことに因んで、[[7月26日]]は「幽霊の日」となっている。
 
=== 幽霊の姿かたち、現れる場所、時刻 ===
日本では幽霊は古くは生前の姿で現れることになっていた<ref name="Sekai_pedia" />。歌謡などの中でそうされていた<ref name="Sekai_pedia" />。[[江戸時代]]ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の[[額烏帽子]]<sup>(ぬかえぼし)</sup>を着け、[[白装束]]をまとっているとされることが多くなった<ref name="Sekai_pedia" />。
[[元禄]]年間([[1688年|1688]]-[[1704年]]間)に刊行された『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっていた<ref name="Sekai_pedia" />。しかし、[[享保]]17年([[1732年]])刊行の『[[太平百物語]]』では、幽霊の腰から下が細く描かれている。享保年間(1716-36年間)のうちに下半身を朦朧とした姿で描くようになっており、さらに時代を経ると肘を曲げつつ手先を力なく垂れる姿で描くようになってゆく<ref name="Sekai_pedia" />。こうように、江戸時代前期から中期を迎えるまでの間に、今日定型化されている日本の幽霊の造形([[ステレオタイプ]])が形成されていったと考えられる。もっとも、[[大田南畝]]が[[編纂]]した[[横井也有]]の俳文集『[[鶉衣]]』([[天明]]7-8年〈[[1787年|1787]]-[[1788年|88年]]〉刊行)に「腰から下のあるものもないものもある」と書かれている<ref name="Sekai_pedia" />ことから窺えるように、江戸時代後期に差し掛かってもまだ完全には定着しきっていなかったと思われる。
 
また、日本の幽霊は、[[墓地]]や川べりの柳の下などの場所に現れるとすることが多く<ref name="Sekai_pedia" />、丑三つ時(午前2時ごろ)といった特定の時刻に出現するともいわれている<ref name="Sekai_pedia" />。古くは物の怪の類は真夜中ではなく、日暮れ時([[逢魔時]]、昼と夜の境界)によく現れ、場所も町はずれの[[]](町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていたが、江戸時代を通じて現代にまで及ぶステレオタイプが形成されたと思われる。
[[江戸時代]]ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の[[額烏帽子]](ぬかえぼし)をつけ白衣を着ているとされることが多くなった<ref name="Sekai_pedia" />。
 
[[元禄]]年間(1688-1704)刊行の『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっていた<ref name="Sekai_pedia" />。だが、『[[太平百物語]]』([[1732年]])では、幽霊の腰から下が細く描かれた。
 
[[享保]]年間(1716-36)ころになると、下半身がもうろうとした姿で、さらに時代を経るとひじを曲げ手先を垂れる姿で描かれるようになり、定型化した像([[ステレオタイプ]])がかたちづくられていった<ref name="Sekai_pedia" />。
 
1785-87に書かれた[[横井也有]]の『鶉衣(うずらごろも)』には、腰から下のあるものもないものもある、と書かれている<ref name="Sekai_pedia" />。
 
[[墓地]]や川べりの柳の下などの場所に現れるとすることが多く<ref name="Sekai_pedia" />、丑三つ時(午前2時ごろ)といった特定の時刻に出現するともいわれている<ref name="Sekai_pedia" />。古くは物の怪の類は真夜中ではなく、日暮れ時([[逢魔時]]、昼と夜の境界)によく現れ、場所も町はずれの辻(町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていたが、江戸期を通じて現代にまで及ぶステレオタイプが形成されたと思われる。
 
==== 定型化した"死装束の幽霊"、"足のない幽霊" ====
[[画像ファイル:SekienYurei.jpg|right|thumb|180px|幽霊<br/>[[鳥山石燕]]『[[画図百鬼夜行]]』(1776「幽霊」/安永5([[1776年]]の作。]]
乱れ髪に天冠(三角頭巾)、死装束の足がない女性という、[[芝居]]や[[お化け屋敷]]などでもおなじみの定型化した姿は(いわば「日本型幽霊」)は、[[演劇]][[文芸]]の影響が大きいと言われている<ref name="Sekai_pedia" />。[[河出書房]]から出版された『渡る世間は「間違い」だらけ』(1995年〈平成7年〉刊)によると、[[歌舞伎]]の舞台「[[四谷怪談]]」の演出で幽霊の足を隠して登場したものがルーツだ起源であるとしている。江戸時代に[[浮世絵]]の題材として描かれてから定着したものであるともう。『[[番町皿屋敷]]』の影響あるともいう<ref name="Sekai_pedia" />。[[京都|京]]の[[天才]][[絵師]]・[[円山応挙]](1733-1795)1795年)の[[幽霊画]]の影響もあったとされる。応挙の幽霊画は江戸から有名であったらしく、その後多くの画家に影響を与えたといわれている。ただし、「足の無い幽霊を最初に書いたのは円山応挙である」とする説については、[[俗説]]あるいは不正確な説との指摘があり、実際には、応挙が生まれる60年前の[[延宝]]元年([[1673年]])に同じ京都で刊行された[[井上播磨掾]](1632?-85年?。京都の人で、[[大坂]]で活躍した[[古浄瑠璃]][[太夫]])の浄瑠璃本『花山院后諍<sup>(かざんのいん きさきあらそひ)</sup>』(別名:花山院きさきあらそひ)に、足の無い幽霊の[[挿絵]]が掲載されており、この時代の、少なくとも京都にはすでに、「幽霊には足が無いもの」という概念があったようである。なお、係る日本の定型化した幽霊と対比する形で、「海外の幽霊は足があるものが多い」と解説されることがある。
 
ただし、「足のない幽霊を最初に書いたのは[[円山応挙]]」とまで言ってしまう説については、俗説あるいは不正確な説、と指摘されており、実際には、応挙誕生以前の[[1673年]]に描かれた「花山院きさきあらそひ」という[[浄瑠璃]]本の挿絵に、足のない幽霊の絵が描かれている。この時代にはすでに「幽霊=足がない」という概念があったようである。
 
この定型と対比する形で「海外の幽霊は足があるものが多い」と言うこともある。
 
幽霊の中でも「[[牡丹灯篭]]」のお露のように、[[下駄]]の音を響かせて現れる者もいるが、これは[[明治]]時代になって[[中国]]の怪異譚を参考に[[創作]]されたものである。近年{{いつ|date=2018年2月}}も死者の霊が登場する[[都市伝説]]が多く語られているが、外見上生きている人間と区別がつかない幽霊も多く、「[[装束]]を着た足のい幽霊」が「出現」することはほとんどい。
 
=== 最近心霊主義の用語 ===
最近20世紀および21世紀の日本の[[スピリチュアリズム|心霊主義]]者(スピリチュアリスト]]の中には、性質別に「[[守護霊]]」「[[背後霊]]」「[[自然霊]]」「[[動物霊]]」「[[浮遊霊]]」「[[地縛霊]]」などといった用語で説明している人もおりがいて、幽霊を、特定の場所に現れる"地縛霊(じばくれい)"と、そうでない浮遊霊に分けて説明していることがある<ref>
『人はなぜ生まれいかに生きるのか』、ハート出版 2001年10月25日、 ISBN 978-4892954979<br/>
『あの世の話』(佐藤愛子との共著、青春出版社1998年11月、[文春文庫] 文藝春秋2001年12月10日)ISBN 978-4167450052<br/>
など。</ref>。
</ref>。
 
=== 季語 ===
[[季語]]としての'''幽霊'''(ゆうれい)は、[[夏]]の季語である。[[現代俳句協会]]が『現代俳句歳時記』でこの語を採録しているが、他の[[歳時記]]で採録しているものは少ない<ref name="GHA-blog-20110522">{{Cite web |author=小林 夏冬 |date=2011年5月22日 |url=http://gendaihaiku.blogspot.jp/2011/05/12.html |title=季語の背景(12・幽霊)-超弩級季語探究 |work=現代俳句協会ブログ |publisher=現代俳句協会 |accessdate=2018-02-15}}</ref>、他の[[歳時記]]で採録しているものは少ないということを、協会会員が公式ブログで語っている<ref name="GHA-blog-20110522" />。
* 例句1 : [[姨捨山|おば]]<ruby><rb>捨</rb><rt>すて</rt></ruby>や '''幽霊'''に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ふ <ruby><rb>今宵</rb><rt>こよひ</rt></ruby>の[[月]] ─ [[松井如流]] 選集『板東太郎』
* 例句2 : '''幽霊'''も[[鬱]]なるか[[傘]]さして立つ ─ [[高柳重信]]