「アリューシャン方面の戦い」の版間の差分

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参考文献3冊(戦史叢書)追加、アジア歴史資料センター資料追加、出典補足
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[[6月7日]]から[[6月8日|8日]]にかけて、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]と[[海軍陸戦隊]]が[[アッツ島]]と[[キスカ島]]を占領した<ref name="同盟旬報181p7">{{アジア歴史資料センター|M23070036200|同盟旬報第6巻第18号(通号181号)、昭和17年7月10日作成、同盟通信社}} p.7〔 キスカ、アッツ兩島を奇襲占領/▲兩島に日本名 鳴神島にて 〕</ref>。これは[[アメリカ合衆国]]にとって[[第二次世界大戦]]における初の領土([[植民地]]を除く)喪失であった。このことは各地で敗北を重ねるだけでなく、[[アメリカ本土砲撃]]をはじめとする本土への攻撃を受けていたアメリカ国民の士気喪失につながるとして、軍および合衆国政府は強い危機感を感じた。
 
だがアメリカ海軍も[[ソロモン諸島]]の[[ガダルカナル島]][[ガダルカナル島の戦い|攻防戦]]で激戦を展開しており、アリューシャン方面では攻勢には出られなかった。潜水艦の襲撃や、航空機の爆撃で日本軍を牽制した。[[1943年]](昭和18年)1月中旬、連合軍は{{ill|アムチトカ島に上陸して占領|en|Landing at Amchitka}}、飛行場を整備した。これに対し日本軍のアッツ島やキスカ島における飛行場建設は遅延し、連合軍が[[制空権]]を掌握した{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=583-584}}。またアメリカ海軍の[[巡洋艦]]が活動して日本側の[[シーレーン]]を脅かし、1943年(昭和18年)3月下旬には[[アッツ島沖海戦]]が勃発した。
 
5月12日、連合軍はランドクラブ作戦を発動して[[アッツ島の戦い]]が始まり、[[山崎保代]]陸軍大佐が指揮する日本軍守備隊は[[5月29日]]に[[玉砕]]した。日本の[[大本営]][[参謀本部|陸軍部]][[軍令部|海軍部]]はキスカ島からの撤退を決断、第五艦隊指揮下の潜水艦と[[水雷戦隊]]により[[キスカ島撤退作戦]]が行われ、7月29日に完了した。連合国軍は日本軍の撤退に気付かず、8月に[[コテージ作戦]]を決行して無人になっていたキスカ島を占領した。これにより、アリューシャン列島は連合国軍の支配下に戻った。これ以降、[[日本の降伏|太平洋戦争の終結]]まで北東方面は小康を保った。
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アリューシャン列島は、太平洋戦争開戦時の連合艦隊作戦計画では、「占領または攻撃破壊すべき外郭要地」として定められていたが、これは十分に検討されたものではなかった。日本海軍において日本列島東方海面(西太平洋)の警戒は北方部隊(指揮官=第五艦隊司令長官)の主担任であったが{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|p=9}}、漁船を転用した特設監視艇と、木更津基地と南鳥島の航空兵力が限定的な哨戒をおこなっているにすぎなかった{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|p=60|ps=本土東方海面哨戒図}}。
 
1942年(昭和17年)4)3月、[[南方作戦]]が一段落つくと、時期作戦をめぐって日本海軍と日本陸軍との間で見解の相違が生じた{{Sfn|戦史叢書59|1972|pp=2-3|ps=太平洋方面に新作戦の登場}}
。4月15日{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=49-55|ps=第二段作戦計画の決定とその発令}}、[[第一段作戦]]を終えた日本はMI作戦(ミッドウェー作戦)やAL作戦(アリューシャン作戦)も含めた[[第二段作戦]]を立案して裁可された{{Sfn|戦史叢書98巻|1979|pp=140-142|ps=聯合艦隊作戦計画の概要}}。
 
AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害し、シベリアにアメリカ軍の航空部隊が進出するのを妨害しようとするものであった。1942年2月の図上演習では、当時[[B-29 (航空機)|開発されたとの情報があった米大型爆撃機]]が、アリューシャン列島の基地から帝都空襲をおこない、その一部が奇襲に成功するという結果が示されたことで、同方面の関心はさらに強くなった<ref>防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』第80巻、朝雲新聞社、1975年2月、345-346頁「アリューシャン西部要地攻略作戦の追加」</ref>。また、同作戦によりミッドウェーとキスカ間に哨戒機を往復させてアメリカ海軍の空母機動部隊が近接するのを防ごうという意見の者もいたが、軍令部航空主務部員の[[三代辰吉]]も連合艦隊航空参謀の佐々木彰も、霧などの関係から到底そのような飛行哨戒は不可能と考え、全くその案は考慮しなかったと回想している{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=47-49}}。
 
このあと、1942年4月18日に米軍機による日本初空襲([[ドーリットル空襲]])が実行されて[[日本列島]]各地に被害を与えたが{{Sfn|戦史叢書59|1972|pp=10-12}}、この空襲は既存の陸上爆撃機([[B-25 (航空機)|B-25]])を空母「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」から発進させる戦法で実施された{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=59-61|ps=空襲の概要}}。ドーリットル空襲により、MI作戦とAL作戦に懐疑的あるいは関心が薄かった大本営海軍部と日本陸軍も{{Sfn|戦史叢書59|1972|pp=7-8}}、一転して本作戦の重要性を認識するに至った{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=62-63|ps=米空母に対する関心急増}}{{Sfn|戦史叢書59|1972|pp=17-19}}。日本陸軍はMI作戦に[[一木清直|一木]][[歩兵第28連隊|支隊]]を、AL作戦に北海支隊<!-- 独立歩兵第301大隊、同工兵第301中隊 -->を提供する{{Sfn|戦史叢書59|1972|pp=34-36}}{{Sfn|戦史叢書99|1979|pp=347-348|ps=F・S作戦、ミッドウェー、アリューシャン攻略作戦}}。MI作戦とAL作戦は一体のものであり、敵主力艦隊がどちらに出現しても、相互に支援できるような計画であった{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=78-81|ps=作戦要領}}。
 
{{seealso|[[:en:Battle_of_Midway_order_of_battle#Northern_Area_Force|AL作戦、北方部隊戦闘序列]]}}
アリューシャン攻撃部隊は北方部隊指揮官([[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]]司令長官[[細萱戊子郎]]中将)がこれを指揮し、[[第四航空戦隊]](司令官[[角田覚治]]少将:[[隼鷹型航空母艦|中型空母]]「[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]」、[[軽空母]]「[[龍驤 (空母)|龍驤]]」)と[[水雷戦隊|第一水雷戦隊]](司令官[[森友一]]少将)、第一潜水戦隊(司令官[[山崎重暉]]少将)などの艦艇が指揮下にあった{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=231-232|ps=作戦計画の概要}}。
 
5月26日、第二[[機動部隊]]{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=234-235}}(空母2隻、[[高雄型重巡洋艦|高雄型重巡]]2隻<!-- 高雄、摩耶 -->、[[吹雪型駆逐艦#第七駆逐|第7駆逐隊]]<!-- 潮、曙、漣 -->)は[[大湊 (むつ市)|大湊]]を出航した{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=239-241}}。29日、AQ攻略部隊{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=234-235}}(アダック、アッツ攻略部隊)の軽巡1隻<!-- 阿武隈 -->、第21駆逐隊<!-- 若葉、初春、初霜、子日 -->、輸送船2隻<!-- まがね丸、衣笠丸 -->は陸奥湾を出撃した{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=239-241}}。6月2日、AOB攻略部隊{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=234-235}}(キスカ攻略部隊)の軽巡2隻<!-- 木曾、多摩 -->、駆逐艦3隻<!-- 暁、響、帆風 -->、第13駆潜艇隊、輸送船6隻<!-- 浅香丸、快鳳丸、俊鶴丸、白鳳丸、白山丸、球磨川丸 -->は[[幌筵島]]から出撃した{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=239-241}}。6月3日、北方部隊主隊{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=234-235}}(重巡[[那智 (重巡洋艦)|那智]]、駆逐艦[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]])は幌筵から出撃した{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=239-241}}。
アリューシャン攻撃部隊は北方部隊指揮官([[第五艦隊 (日本海軍)|第五艦隊]]司令長官[[細萱戊子郎]]中将)がこれを指揮し{{Sfn|S16.11~S18.05那智日誌(1)|p=31}}、[[第四航空戦隊]](司令官[[角田覚治]]少将:[[隼鷹型航空母艦|中型空母]]「[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]」、[[軽空母]]「[[龍驤 (空母)|龍驤]]」)と[[水雷戦隊|第一水雷戦隊]]{{Sfn|S17.03~05一水戦日誌(6)|pp=4-5}}(司令官[[森友一]]少将)および指揮下艦艇{{Sfn|S17.03~05一水戦日誌(6)|p=43|ps=(昭和17年5月)麾下艦船部隊ノ行動}}、第一潜水戦隊(司令官[[山崎重暉]]少将)などの艦艇が指揮下作戦あっ参加した{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=231-232|ps=作戦計画の概要}}。そして北海支隊(指揮官穂積松年陸軍少佐)がアダック島とアッツ島の攻略を、舞鶴第三特別陸戦隊がキスカ島を占領予定であった{{Sfn|戦史叢書59|1972|pp=226-228|ps=アリューシャン作戦への進発}}。
 
5月26日、第二[[機動部隊]]{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=234-235}}(空母2隻<!-- 隼鷹、龍驤 -->、[[高雄型重巡洋艦|高雄型重巡]]2隻<!-- 高雄、摩耶 -->、[[吹雪型駆逐艦#第七駆逐|第7駆逐隊]]<!-- 潮、曙、漣 -->)は[[大湊 (むつ市)|大湊]]を出航した{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=239-241}}。同26日、北方部隊主隊<!-- 重巡[[那智 (重巡洋艦)|那智]]、駆逐艦[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]] -->も大湊を出撃した{{Sfn|S16.11~S18.05那智日誌(1)|p=31}}。29日、AQ攻略部隊{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=234-235}}(アダック、アッツ攻略部隊)は大湊を出撃した{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=239-241}}{{Sfn|S17.03~05一水戦日誌(6)|pp=7-8}}<!-- 五月二十九日 敷設隊(初霜、まがね丸)作戦地ニ向ケ乙錨地発 本隊(阿武隈、第二十一駆逐隊一小隊)水上機部隊(君川丸、汐風)輸送隊(衣笠丸、子日)作戦地ニ向ケ乙錨地発/五月三十日 補給隊(冨士山丸)本隊ニ合同 -->。
6月2日、AOB攻略部隊{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=234-235}}(キスカ攻略部隊)の軽巡2隻<!-- 木曾、多摩 -->、駆逐艦3隻<!-- 暁、響、帆風 -->、第13駆潜艇隊、輸送船6隻<!-- 浅香丸、快鳳丸、俊鶴丸、白鳳丸、白山丸、球磨川丸 -->は[[幌筵島]]から出撃した{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=239-241}}。6月3日、北方部隊主隊は幌筵から出撃した{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=239-241}}{{Sfn|S16.11~S18.05那智日誌(1)|pp=33-34}}。
 
==== ダッチハーバー空襲 ====
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{{main|日本軍によるアッツ島の占領|{{仮リンク|日本軍によるキスカ島の占領 (1942年)|label=日本軍によるキスカ島の占領|en|Japanese occupation of Kiska}}}}
 
北方部隊は最初にアダック島を攻略する予定だったが、6月5日に[[ミッドウェー海戦]]大敗の速報が入り、攻略延期を余儀なくされた{{Sfn|あ号作戦日誌(4)|p=5}}{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=541-543}}。連合艦隊からの命令によりアダック島攻略は中止され、アッツ島とキスカ島のみの攻略となった{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=543-545}}。
日本軍は現地時間6月6日(日本時間7日)にアッツキスカ{{Sfn|あ号作戦日誌(4)|p=6}}、現地時間6月7日(日本時間8日)にキスカアッツに上陸し、占領するした{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|pp=547-548|ps=キスカ、アッツ攻略の概要}}。アッツ島には少数の民間人と先住民族の[[アレウト族]]がおり、キスカ島にはアメリカ軍の前線観測所があった{{Efn|日本のニュース映像に、アッツ島のアレウト族や<ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009180668_00000|title = アリューシャン作戦アッツ島攻略 |work = NHKアーカイブス| accessdate = 2025-01-11}}</ref>、キスカ島の捕虜が映る<ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009180664_00000|title = アリューシャン列島強襲 |work = NHKアーカイブス| accessdate = 2025-01-11}}</ref>。}}。日本はアッツ島を“熱田島”、キスカ島を“鳴神島”と改名した<ref name="同盟旬報181p7" />。日本軍は、ミッドウェー海戦の敗戦を隠すためにアツツ島とキスカ島の占領を大々的に報道し、アリューシャン列島西部を長期占領する方針を固めた{{Sfn|戦史叢書59|1972|pp=247-249|ps=アッツ、キスカの恒久確保}}
 
アメリカ軍は偵察でアッツ島、キスカ島に日本軍が上陸していることを発見、爆撃機や[[PBY (航空機)|カタリナ飛行艇]]による空襲を開始した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009180676_00000|title = アリューシャン作戦米機撃墜 |work = NHKアーカイブス| accessdate = 2025-01-11}}</ref>。12日には駆逐艦「[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]」が爆撃により損傷、19日には貨物船{{仮リンク|日産丸 (貨物船)|label=日産丸|en|Nissan_Maru}}が撃沈された。さらにミッドウェー海戦で勝利した[[第16任務部隊]](指揮官[[レイモンド・スプルーアンス]]提督)の[[ヨークタウン級航空母艦|正規空母]]2隻([[エンタープライズ_(CV-6)|エンタープライズ]]、ホーネット)に補給をおこない、アリューシャン方面に出動させた{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|p=579}}。しかし日本海軍が後述の警戒態勢をとっていることが判明し、第16任務部隊はハワイに撤収した{{Sfn|戦史叢書43巻|1971|p=579}}。
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1942年8月7日(日本側記録では8日<ref name="sen29 290">戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦、290ページ</ref>)、重巡洋艦「[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]」、「[[ルイビル (重巡洋艦)|ルイスビル]]」、軽巡洋艦「[[ホノルル (軽巡洋艦)|ホノルル]]」、「[[セントルイス (軽巡洋艦)|セントルイス]]」、「[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]]」、駆逐艦4隻からなるアメリカ海軍第8.6任務群(ウィリアム・スミス少将)がキスカ島に対する艦砲射撃を行った<ref>The Aleutians 1942-43, p.46, [http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1942.html The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II]</ref>。艦隊は8月3日に[[コディアック]]を出撃<ref name=her46>The Aleutians 1942-43, p.46</ref>。8月7日19時55分にまず駆逐艦が砲撃を開始し、続いて巡洋艦も砲撃を始めた<ref>United States Navy Combat Narrative The Aleutians Campaign June 1942-August 1943, p.23</ref>。視界の悪さなどのため、11マイルの距離(または重巡洋艦19500ヤード、駆逐艦14500ヤード<ref name="sen29 328">戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦、328ページ</ref>)からの間接射撃となった<ref name=her46/>。弾着観測のため発進した[[SOC (航空機)|シーガル]]のうち1機が[[二式水上戦闘機]]により撃墜された<ref name=her46/>。20時21分に射撃終了が命じられ、アメリカ艦隊は撤収した<ref name="sen29 328"/>。この砲撃で8インチ砲弾631発、6インチ砲弾3534発、5インチ砲弾2620発を消費したが、後日撮影された写真から、砲撃はほとんどが目標を外れていたことが判明している<ref>United States Navy Combat Narrative The Aleutians Campaign June 1942-August 1943, p.25</ref>。この艦砲射撃による日本側の被害は水上戦闘機1機破損、戦死者2名であった<ref name="sen29 290"/>。キスカ島には北方部隊(第五艦隊)の潜水艦少数が停泊していたが被害はなく、アメリカ艦隊の邀撃にむかうが接敵しなかった{{Sfn|戦史叢書98巻|1979|pp=221-223|ps=北東方面}}。
 
日本軍はアッツ島方面を担当していた北方部隊をキス(第五艦隊)は、アメリ島に移動させ同島艦隊へ守備対応強化し余儀なくされ{{Sfn|S16.11~S18.05那智日誌(2)|pp=1-2}}。9月になるとアメリカ軍は占領した[[アダック島]]に飛行場を建設し、アッツ島やキスカ島への空襲を強化した{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=88-89|ps=米国の企図}}。日本軍はアッツ島を放棄し、アッツ守備北海支隊をキスカ島に移駐させる{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=86-87|ps=西部アリューシャンの防備強化}}。そしてキスカ島の防衛力の強化のため、輸送作戦を繰り返し行った。10月17日にはキスカ島沖にて輸送作戦中の駆逐艦「初春」「朧」が空襲を受け、朧が沈没、初春が大破した。日本軍はアリューシャン方面に[[二式水上戦闘機]]を配備したが、陸上機を運用するための飛行場建設は完成しなかった。
 
アメリカ軍がアムチトカ島に上陸したと誤認した日本軍は、再びアッツ島に守備隊を上陸させた{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=204-205|ps=アッツ島再占領の処置}}。10月22日、北海支隊は北海守備隊に改編された{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=206-208|ps=北海守備隊の編成}}。これらの離島への補給は、従来どおり第五艦隊が担当した{{Sfn|戦史叢書63|1973|pp=440-441}}
 
=== 1943年 ===
==== アメリカ軍のアムチトカ島上陸 ====
{{main|{{仮リンク|アメリカ軍のアムチトカ島上陸|en|Landing at Amchitka}}}}
1943年1月12日にアメリカ軍は、[[ポートランド級重巡洋艦|重巡洋艦]]「[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]」からなる艦隊の支援のもと、日米双方の守備隊が駐留していなかった[[アムチトカ島]]に上陸した。戦闘は発生しなかったが、駆逐艦「[[ウォーデン (DD-352)|ウォーデン]]」が座礁し死傷者が発生した。アメリカ軍は現地に飛行場を建設しアッツ、キスカへの空襲を強化した。日本軍がキスカ島西部アリューシャンに配備した[[水上戦闘機]]では、アメリカ軍の航空戦力に対抗できなくなった。
 
==== アッツ島沖海戦 ====
{{main|アッツ島沖海戦}}
 
1943年2月上旬、日本軍は[[北部軍 (日本軍)|北部軍]]を北方軍([[樋口季一郎]]陸軍中将)に改編し、北海守備隊と[[第1飛行師団 (日本軍)|第1飛行師団]]を指揮下に編入した{{Sfn|戦史叢書99|1979|p=366-367}}。

2月20日、重巡「インディアナポリス」がアッツ島に向かっていた日本軍輸送船「あかがね丸」を発見、撃沈した。日本軍は輸送船単独での航行から、[[護送船団]]方式に切り替える。1943年3月上旬の[[千島列島]]~アッツ島行き第一次輸送は成功したが、第二次輸送では3月27日にアメリカ艦隊と[[コマンドルスキー諸島]]近海で遭遇、[[アッツ島沖海戦]]が発生した。本海戦の結果、日本軍は輸送作戦に失敗しアッツ島の玉砕の遠因となった。これ以降、アッツ島とキスカ島への輸送は[[潜水艦]]に依存するようになった{{Sfn|戦史叢書98巻|1979|pp=235-238|ps=米軍アッツ島来攻前の潜水部隊の概況}}。第二次輸送船団に乗っていた[[山崎保代]]陸軍大佐は、[[幌筵島]]にもどったあと、[[伊号第三一潜水艦|伊31]]に乗り換えてアッツ島に着任した{{Sfn|戦史叢書98巻|1979|p=237}}。
 
====アッツ島の戦い====
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{{main|コテージ作戦}}
キスカ島からの撤退に日本軍が成功し、もぬけの殻となったことに気づかないままアメリカ軍は艦砲射撃を繰り返した後、[[8月15日]]にキスカ島に[[カナダ軍]]と合わせて約35,000名の兵力で上陸した。この際、[[同士討ち]]で米加両軍に100余名の死者が出た。また日本軍が残していった[[機雷]]により[[フレッチャー級駆逐艦|駆逐艦]]「[[アブナー・リード_(DD-526)|アブナー・リード]]」が大破した。
 
====日本軍の再編====
1943年5月18日、日本海軍は北東方面の航空作戦を担当する[[航空艦隊#第十二航空艦隊|第十二航空艦隊]](司令長官[[戸塚道太郎]]海軍中将)を新編した<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072091000|昭和18年5月19日(発令5月19日付)海軍辞令公報(部内限)第1118号 p.30}}</ref>。
 
8月5日、日本海軍は第十二航空艦隊と第五艦隊により[[北東方面艦隊]](軍隊区分:北東方面部隊)を新編し、十二航空艦隊長官が北東方面艦隊司令長官を兼任した<ref name="jirei1185">{{アジア歴史資料センター|C13072092300|昭和18年8月5日(発令8月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1185号}} p.46</ref>。
 
 
== 脚注 ==
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==参考文献==
<!-- 著者五十音順 -->
* [[牛島秀彦]]『アッツ島玉砕戦 <small>われ凍土の下に埋もれ</small>』(光人社NF文庫、1999年) ISBN 4769822472
* 有近六次「キスカ撤収」
: 有近六次ほか『撤退 <small>ガダルカナル・コロンバンガラ・キスカ</small>』(光人社NF文庫、2001年) ISBN 4769823029 125-246頁
* [[阿川弘之]]「私記キスカ撤退」
: 阿川弘之『日本海軍に捧ぐ』(PHP文庫、2001年) ISBN 4569575005 22-114頁
* 有近六次「キスカ撤収」
: 有近六次ほか『撤退 <small>ガダルカナル・コロンバンガラ・キスカ</small>』(光人社NF文庫、2001年) ISBN 4769823029 125-246頁
* [[牛島秀彦]]『アッツ島玉砕戦 <small>われ凍土の下に埋もれ</small>』(光人社NF文庫、1999年) ISBN 4769822472
*防衛庁防衛研修所戦史室『[https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=029 戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦]』朝雲新聞社
*<!--ホウエイチョウ1971-43 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|url= https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=043|title=戦史叢書 ミッドウェー海戦|volume=第43巻|year=1971|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書43巻|1971}}}}
*<!--ホウエイ 19791972-59 -->{{Cite book|和書|url = https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=098|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史 大本營陸軍部<4> {{small|昭和十七年八月まで}}|volume=第9859巻|year=19791972|month=610|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98巻59|19791972}}}}
*<!--ホウエイ1973-63 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營陸軍部<5> {{small|昭和十七年十二月まで}}|volume=第63巻|year=1973|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書63|1973}}}}
*<!--ホウエイ1979-98 -->{{Cite book|和書|url = https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=098|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|year=1979|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98巻|1979}}}}
*<!--ホウエイ1979-99 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|url= https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=099|title=戦史叢書 陸軍軍戦備|volume=第99巻|year=1979|month=07|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書99|1979}}}}
<!-- 日本語版では日本語文献を先に列挙する -->
*Brian Lane Herder, ''The Aleutians 1942-43: Struggle for the North Pacific'', Osprey Publishing, 2019, ISBN 978-1-4728-3254-2
*[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-CN-Aleutians.html United States Navy Combat Narrative The Aleutians Campaign June 1942-August 1943]
 
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id={{JACAR|C08030080700}}|author=第一水雷戦隊|title=昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(6)|date=1942|ref={{SfnRef|S17.03~05一水戦日誌(6)}}}}
**{{Cite book|和書|id={{JACAR|C08030080800}}|author=第一水雷戦隊|title=昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(7)|date=1942|ref={{SfnRef|S17.03~05一水戦日誌(7)}}}}
**{{Cite book|和書|id={{JACAR|C08030040100}}|chapter=昭和17年6月の一水戦、二水戦、三水戦の戦時日誌|title=「昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)」、昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(防衛省防衛研究所)|date=1944|ref={{SfnRef|あ号作戦日誌(4)}}}}
**{{Cite book|和書|id={{JACAR|C08030747700}}|author=軍艦那智|title=昭和16年11月~昭和18年5月 軍艦那智戦時日誌及行動図(1)|date=1942|ref={{SfnRef|S16.11~S18.05那智日誌(1)}}}}
**{{Cite book|和書|id={{JACAR|C08030747800}}|author=軍艦那智|title=昭和16年11月~昭和18年5月 軍艦那智戦時日誌及行動図(2)|date=1942|ref={{SfnRef|S16.11~S18.05那智日誌(2)}}}}
 
==関連項目==