削除された内容 追加された内容
修正
改名提案の諮問期間終了により改名。ただし改名先記事に編集履歴を作ってしまったため、「移動」ができないので手動にて入れ替え。
タグ: 新規リダイレクト 差し戻し済み
1行目:
{{改名提案|#転送 [[伊治城|date=2021年2月}}]]
 
{{coord|38|45|51.0|N|140|54|52.0|E|region:JP-04|display=title}}
{{Location map|Japan Miyagi| lat_deg = 38| lat_min = 45| lat_sec = 51.0| lon_deg = 140| lon_min = 54| lon_sec = 52.0| label = 伊治城跡| position = bottom| mark = Red pog.svg| marksize = 10| width = 250| caption={{Center|遺跡位置}}}}
 
'''伊治城跡'''(いじじょうあと)は、[[宮城県]][[栗原市]]にある伊治城跡の[[遺跡]]。[[2003年]](平成15年)8月27日に国の[[史跡]]に指定され、[[2005年]](平成17年)7月14日に追加指定された<ref name=":0">{{Cite web|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/3372|title=伊治城跡|accessdate=2020/10/29|publisher=文化庁}}</ref>。
 
== 概要 ==
伊治城跡は、[[奥羽山脈]]から東に派生する築館丘陵の裾部にある、[[北上川]]支流が形成した[[河岸段丘]]に立地する、古代[[東北地方]]の[[城柵]]遺跡である。『[[続日本紀]]』によれば、[[神護景雲]]元年([[767年]])に設置され、[[律令制|律令政府]]による古代[[陸奥国]]経営の重要拠点の一つであり、[[国府]]にあたる[[多賀城]]の北方約50キロメートルに位置する<ref name=":0"/>。
 
遺跡の所在地については[[江戸時代]]から多くの論争があったが、1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)の宮城県多賀城跡調査研究所、1987年(昭和62年)から現在までの、当時の[[築館町]](現・栗原市)教育委員会による[[発掘調査]]で位置が確定され、具体的な内容も明らかになった。また、多賀城跡出土の[[漆紙文書]]により、当時は「此治城」と呼んでいたという説も出されている<ref name=":0" />。
 
遺跡は南北約900メートル、東西約700メートルの範囲にあり[[政庁]]、[[内郭]]、[[外郭]]からなる。存続年代は、8世紀から9世紀にかけてである。政庁は南北約60メートル、東西約55メートルの規模で、内郭中央部に所在する。周囲は基底部幅4メートル弱の[[築地塀]]で区画し、南面中央で門を検出している。中央やや北よりに位置する正殿を中心に、前殿、後殿、脇殿を配した構成で、Ⅰ期からⅢ期にわたる変遷がある。内郭は外郭内の東南よりにあり、南北約240メートル、東西約180メートルの規模で、周囲を基底部幅3メートルほどの築地塀で区画する。調査が進んでいる西北部分では、「コ」字形に配した[[掘立柱建物]]群を検出しており、実務的官衙と考えられる。外郭は独立した段丘の地形を利用した不整方形をなし、基底部幅8メートル程度の土塁と、幅約10メートルの大溝で周囲を画し、その内部施設としては、主に[[竪穴住居]]を検出している。各期の年代は、Ⅰ期が創建から[[奈良時代]]後半で、Ⅱ期の終末は、建物が火災によって全て焼失していることから、[[伊治呰麻呂の乱]]の発生した[[宝亀]]11年(780年)におくことができる。Ⅲ期は宝亀11年(780年)から廃絶までである<ref name=":0" />。
 
出土[[遺物]]には[[土器]]、[[瓦]]等があるが、外郭南東隅の竪穴住居から出土した中国式の「[[弩]]」が注目される。なお出土したのは弩の「機([[トリガー]])」の部分である<ref>[https://www.kuriharacity.jp/w038/010/010/010/PAGE000000000000007043.html 伊治城跡](栗原市)</ref>。これは我が国初めての発見事例であり、律令時代の兵器の実態を解明する上で貴重な資料である<ref name=":0" />。
 
伊治城跡は、政庁、内郭、外郭と三重の区画からなり、これは城柵遺跡としては [[払田柵]]跡に類例があるだけの稀少な事例である。また、政庁は儀式的な施設、内郭は実務的な[[官衙]]域、外郭は居住域と、それぞれの区画の性格も具体的に明らかになっている。このように、伊治城跡は東北地方における古代律令体制の成立や官衙の構造を具体的に知る上で極めて重要である<ref name=":0" />。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[宝亀の乱]]
 
{{考古学}}
{{日本の文化財}}
{{DEFAULTSORT:いししようあと}}
[[Category:宮城県にある国指定の史跡]]
[[Category:栗原市の歴史]]
[[Category:陸奥国]]
[[Category:宮城県の城]]