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# その存在は、作った時点では持ち上げられない石を作ることができる。
# しかし、その存在は全能であるから、その存在は後からいつでも、持ち上げられる程度に石を軽くすることができる。従って、その存在を全能であるというのは尚も合理的である。
 
これは本質的に、1960年の[[映画]]『[[風の遺産]]』''[[:en:Inherit the Wind]]'' の登場人物であるマシュー・ハリソン・ブレイディ (Matthew Harrison Brady) が信奉する観点と同じであり、ブレイディの観点は大雑把にいって[[ウィリアム・ジェニングス・ブライアン]]に則っている。クライマックスシーンで「神は自然法則を好き勝手に変えられる」とブレイディは論ずる。石の重量を変更するということは、少なくともその石にかかわる[[重力]]の効果を変更するのと論理的に同値である。このような説明に対しては、次のように反論できるだろう。全能者は《自分にも重さを変えられないくらい不変な石》を作ることができるか。さらに、このような状況 — 後で石の重さを変えること — が全能者の要件として要請されるならば、全能者の[[自由意志]]を制限することになるのではないか、と。
 
[[ジョン・マッキー (哲学者)|J.L.マッキー]]は1955年の哲学誌 ''Mind'' に論文を発表し、全能性に二つの段階を設けて区別することで、全能の逆説を解消しようとした。第一段階の全能性(何かをするための無限の能力 unlimited power to act)、第二段階の全能性(ものが何かをするために持つべき能力を決定するための無限の能力 unlimited power to determine what powers to act things shall have)である。ある時点で両方の全能性を持つ存在は、自分自身の能力を制限し、それより後は片方の意味で全能であることをやめることもできるのであろう。
 
抗うことのできない力の逆説についての古典的な記述法は、近代[[物理学]]の文脈で見ると欠陥を持つことになる。というのも、進路が全く変わらない[[砲弾]]も、全く破壊されない防壁も、同様に無限大の[[慣性]]を持つことになり、《両者ともに》不可能である。しかしながらこれは物理の話であって、論理には直接関係するものではない。単に我々がこのような描写に慣れているので哲学の問題の例として選んでいるだけである。同様に、全能の逆説についての古典的な記述法 — 重すぎて全能なる創造者に持ち上げられない石 — は[[アリストテレス]]時代の科学を基盤にしている。[[天動説]]と平らな地面を前提にしているのである — 石をその[[惑星]]の表面に対してのみ「持ち上げ」うるのか? 更に、惑星の[[公転]]を考慮に入れれば、[[軌道 (力学)|軌道]]の中心にある[[太陽]]に対し「常に」石は持ち上がっていると見なすこともできる。つまり、石挙上に関する言説の選択は貧弱であると近代物理学は示唆するわけである。だが、だからといって一般的な全能の逆説が「基礎から」無効化されたわけではない。思慮深い[[スティーヴン・ホーキング]]による創造主と自然法則との関係についての考察に従い、古典的記述法を次のように直すことができるだろう:
# 全能者がアリストテレスの物理学に従う[[宇宙]]を創造する。
# その宇宙で、全能者は自分自身が持ち上げられないほど重い石を作ることができるであろうか。
 
科学ライターのジェイムズ・グリック ([[:en:James Gleick]]) は自身の[[リチャード・P・ファインマン]]伝の中で、[[原子]]の実在性に関し議論していた科学者が、全能の逆説に行き着いた様を記述している: 全能者 — この場合はキリスト教の神としていいだろう — は、神自身が分割することのできない原子を創造することができたのだろうか、と。
 
=== 偶発的全能者 ===