石井謹吾
日本の政治家、実業家、弁護士、官僚
石井 謹吾(いしい きんご、1877年(明治10年)10月22日[1][2] - 1925年(大正14年)9月2日[2][3]は、埼玉県出身の政治家、実業家、弁護士、内務官僚。

経歴
編集埼玉県埼玉郡、のちの北埼玉郡新郷村(現羽生市)出身[2][4]。
東京法学院を卒業[2][4]。1898年(明治31年)12月、文官高等試験行政科試験に合格し[5]、1899年(明治32年)に明治法律学校を中退[5]。
当初、司法省に入省し司法官試補となるが、内務省に転じ地方局に配属[2][5]。滋賀県事務官・第二部長[6]、秋田県・群馬県の内務部長などを歴任し、1913年(大正2年)に退官[5]。
南洋に渡り、実業家として東印拓殖、南洋興業の社長などを務めた[2][4]。帰国して弁護士を開業した[2][4]。
1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙に埼玉第5区から立候補して(立憲政友会所属)衆議院議員に当選[2][4]。在任中に死去した[2]。
脚注
編集出典
編集参考文献
編集- 『新撰大人名辭典 第1巻』平凡社、1937年。
- 埼玉県教育委員会編『埼玉人物事典』埼玉県、1998年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、東京大学出版会、2007年。