石神良策
日本の医師
石神 良策(いしがみ りょうさく、1821年(文政4年)- 1875年(明治8年)4月1日)は、幕末から明治時代の医師、蘭方医。名は豊民。ビタミンの父と称せられる高木兼寛の師。
生涯
編集薩摩藩の藩医を務め、戊辰戦争の際にイギリス人の医師ウィリアム・ウィリスの下で治療に当たり、横浜(野毛山)軍陣病院の医師頭取となった。1869年に東京医学校の取締を務め、薩摩藩医学校(鹿児島大学医学部の前身)の開設のため鹿児島に招かれ学校長となったウィリスのもとで学校教授を務めた。1872年に海軍病院長に就任した。明治8年4月1日胃癌により死去。享年55歳[1]。
なお、高木は1872年に石神の媒酌で、瀬脇寿人の長女富子と結婚している[2]。また石神の遺児八重子(1870年、鹿児島生まれ)を引き取り、親代わりとなって養育した。後に北里柴三郎の助手第1号の吉永亨と結婚し、石神家を継ぎ石神亨となった[3]。