神国教
神国教(しんこくきょう)は、岐阜県中津川市蛭川に本部を置く神道系新宗教。
前身 | 安弘見報徳会 |
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設立 | 大正4年(1915年)2月26日[2] |
設立者 | 井口丑二 |
法人番号 | 3200005009146 |
本部 |
![]() 蛭川2177番地の3[1] |
座標 | 北緯35度31分17秒 東経137度22分57秒 / 北緯35.52139度 東経137.38250度座標: 北緯35度31分17秒 東経137度22分57秒 / 北緯35.52139度 東経137.38250度 |
歴史
編集明治3年(1870年)から明治4年(1871年)にかけて、苗木藩領では徹底した廃仏毀釈が行われ、蛭川村では寶林寺と普門院(普門庵)が廃寺となり、仏教信仰が禁止され神道のみを強制された。
そうした中、長年にわたり、蛭川村長、岐阜県会議員等を務め、東雲橋の架橋をはじめ、地元のために私費を投じて尽力していた纐纈秋三郎[3]は、二宮尊徳の報徳思想に感銘を受け、自宅に安弘見報徳社を設立して教えを広めていた。
明治41年(1908年)1月10日、安弘見報徳社の新年例会が開催された。
その日、たまたま地籍調査に訪れていた井口丑二が、報徳思想の大家であることを知り講演を依頼したところ、実に徹底した理論であったため多くの村民が感服した。加茂郡黒川村にある佐久良太神社の宮司の土屋廣麿も同席した。
既に大日本報徳社の岡田良一郎を始めとして、たびたび講師を迎えるなどして報徳思想が根を下ろしてしたため、その感銘は一層深かった。
その後、井口丑二は、地方改良運動に従事する農商務省嘱託職員として、模範村の表彰状を渡すために、蛭川村を訪れる機会があった。
そして蛭川村の土地柄や人情を深く理解し、かねてから構想していた新宗教を立教するための地として期待するようになり、安住の地であることを確信した。
大正元年(1912年)秋、井口丑二は私費で蛭川村に居宅を建造した。
井口丑二の『二盛山荘の記』によれば、居宅建築の感想を次のように記している。
・・・而して 我が草盧は 実に この景勝を占む。その何等の幸ぞや。盧の構造は 概ね妻の望みに随い、卜地設計董工は 信務委員長 纐纈秋三郎君 之を主任し、自余親信 咸之を扶く 妻の水を愛すること、余の山を好むより甚だし。嘗て神に祈りて曰く、新居に水を与へ給へと。土工 丘を削り 地を墾くに及びて、果たして清泉滾々と湧出で、今夏大旱を経て衰えず。慶福 之に過ぐるものなし。由て 佐比波比能伊豆美と号す。━ 斯くて 山有り 山樵る 宜しく、水有り水洗ふに可なり。夫妻此処に自適して 偕に老ひなむとす。━
大正4年(1915年)2月26日、安弘見報徳社において井口丑二が教長となって「神国教」を立教し、信徒の葬祭を司った。
当時、蛭川村民の約8割(現在は約半数の500世帯と、地区外の150世帯)が信徒になった。
井口丑二の揮毫が刻まれた御神体を表す巨大な門柱は、1kmほど離れた場所で切り出された御影石製で、人力で運ばれた。
昭和2年(1927年)9月20日、井口丑二は病により64歳にて帰天し、神国教本部の裏山に埋葬された。
井口丑二の居宅は帰天後に、妻の宮居が長崎県の郷里に帰った際に、神国教に寄贈した。
昭和16年(1941年)2月17日に妻の宮居が長崎県で帰天した。神国教は霊を迎えて井口丑二の墓の傍らに葬った。
二代教長 大塚良太郎
編集井口丑二が帰天した後、すぐに後任を務める人物が無く、正教の林彦太郎が祭事を司った。
二代教長としての適任者を探していたところ、田口笠斎の知遇により、大塚良太郎を知った。
明治20年(1887年)7月10日に武儀郡関町で生まれ、明治45年(1912年)に岐阜師範学校を卒業し、県内各地の小学校で教師・訓導・校長を務めていた。その間に各種社会強化団体にも関係して各種講演に招かれることも多かった。また農産化学や作物栽培・地質学・考古学など多面にわたる研究もあった。
神国教では、信務委員会にて大塚良太郎の人格・見識ともに適任と認め招聘を決定し、田口専一と永冶貫一が交渉に出張し、神国教の後継教長として来村を懇望したところ快諾を得た。
昭和12年(1937年)3月26日に迎えて、二代教長となった。神国教に赴任後も、社会奉仕委員や社会教育委員等を歴任した。多くの団体に関係して、民心の教化に努力を続け、その後33年間にわたって教長を務めた。
昭和45年(1970年)5月、老齢によって辞職し、故郷の関に戻り、昭和47年(1972年)2月3日に86歳で帰天した。
大塚良太郎が退去後は、居宅と会堂とも無人となったので、不破一三を助教に任じ、居宅に住んで教務と管理にあたった。
忌明祭の後に、分骨された遺骨を迎えて井口丑二の墓の隣に埋葬した。
三代教長 纐纈文雄
編集大塚良太郎が辞職した後は、纐纈秋三郎の三男の纐纈文雄が正教事務を務めていたが、
昭和46年(1971年)11月26日に、三代教長に昇格し就任した。
会堂
編集大正8年(1919年)、会堂の建設に着工し、大正10年(1921年)5月に竣工した。
建設費の6千円の内、2千円と建築用材の多くは纐纈秋三郎が提供した。
村民の浄財と合わせ、2年がかりで、100余人が収容できる会堂が完成した。
令和4年(2022年)1月、100年間、信徒の心の拠り所となってきた第一会堂(建築面積330㎡)を改築するために閉堂式が行われた。
新型コロナウイルス感染防止のため、役員ら50人で執行。100年前に奉納され、当時の指導者の名前が裏書された巨大な棟札を祭壇に掲げ、1世紀にわたる会堂の歴史に感謝を捧げた[4]。
令和5年(2023年)3月26日の立教祭で新会堂が披露された。
祖霊殿
編集長年、信徒の念願であった祖霊殿が建設されるまでは、会堂の横に仮祖霊殿が設けられていたが、
過去帳
編集苗木藩の廃仏毀釈によって、寶林寺の殆どの物が失われたが、過去帳だけは残されていた。
この過去帳は寶林寺が中興された慶安年間(1648年~1652年)の頃から、明治3年(1870年)の苗木藩の廃仏毀釈まで約220年間にわたって記録されたものである。
現在、過去帳の原本は神国教が保管しており、昭和49年(1974年)2月6日に蛭川村の有形文化財に指定され、現在は中津川市の指定有形文化財となっている。
指定文化財・天然記念物
編集中津川市指定文化財
編集- (有形文化財) 宝林寺過去帳 室町時代 指定年月日:昭和49年(1974年)2月6日
井口丑二の著書
編集参考文献
編集- 『蛭川村史』 九 宗教・神社 (三) 神国教 p781~p788 蛭川村史編纂委員会 1974年
- 『神国教典』 井口丑二 著 真楽園 大正3年
- 『神國教大意』 井口丑二 著 神國教本部 1915年
- 『井口丑二と神国教』 大橋博明 中京大学 1979年