第七高等学校造士館 (旧制)

旧制高等学校
第七高等学校 (旧制)から転送)
第七高等学校造士館(七高)
創立 1901年(明治34年)
所在地 鹿児島県鹿児島市山下町117番地
初代校長 岩崎行親
廃止 1950年(昭和25年)
後身校 鹿児島大学
同窓会

旧制第七高等学校 造士館(きゅうせいだいしちこうとうがっこう ぞうしかん)は、鹿児島県鹿児島市山下町(今の城山町)にあった官立旧制高等学校

1901年明治34年)4月に設立された。略称は「七高」(しちこう)。

概要

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江戸時代薩摩藩校「造士館」から続く伝統を持ち、鹿児島の精神を受け継ぐ高等教育機関として発足し、 20世紀前半を通して、主に帝国大学をはじめとする官立大学への進学校として、男子の高等普通教育に寄与した[1]

全国から集まった生徒は、校内外の寄宿舎に下宿し、3学部に分かれて3年間学んだ[2]。 また、創立初期より清国留学生を受け入れ、以降相当数の中国人留学生が入学した[3]

最後は、第二次大戦後の学制改革で設立された新制鹿児島大学の文理学部の母胎となりながら発展的解消をみる[4]

第二次大戦後すぐの1年間のみ男女共学化し、女子学生1名も輩出している[5][6]

沿革

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第七高等学校造士館設立前の経緯
  • 1773年安永2年)- 鹿児島藩主・島津重豪により藩校造士館」が創設される。
  • 1871年明治4年)- 廃藩置県により、藩校が廃止される。
  • 1884年(明治17年)12月 - 「鹿児島県立中学造士館」が設置される。
    • 旧・鹿児島藩主公爵島津忠義が祖先の遺志を引き継ぎ、巨額の金員を寄付して造士館再興の件を鹿児島県庁に委託。その結果、中学校教則大綱に基づいて鹿児島中学と鹿児島学校を廃止の上、両資産をあわせ、元・鹿児島学校の旧跡に教場が増築された。
  • 1885年(明治18年)
    • 2月 - 生徒募集を実施。
    • 3月 - 授業を開始。
  • 1887年(明治20年)12月 - 公爵・島津忠義の請願により、諸学校通則第1条に従い県立校の地位を確立した上で、中学校令に基づく高等中学校に昇格して文部省の管轄となし「鹿児島高等中学造士館」と称する。
  • 1888年(明治21年)1月 - 学科課程を定め、その学科を本科・予科・補充科の3科とし、元・県立中学造士館の生徒を収容して授業を開始。
  • 1891年(明治24年)8月 - 文部省視学官・川上彦次が第2代館長に命じられる。生徒2名が初めて本科を卒業する。
  • 1893年(明治26年)3月 - 前館長・島津珍彦が館長に復職(第3代)。
  • 1896年(明治29年)
    • 9月 - 廃校となり、生徒は他の高等学校に転学。(1887年(明治20年)高等中学校の制度に改められた時からわずか8年間に卒業生を48名出した。)
    • 12月 - 再び鹿児島県庁の管轄に属し、「鹿児島県尋常中学造士館」と称する。
  • 1897年(明治30年)1月 - 元・高等中学造士館予科の生徒を収容して授業を開始。
  • 1901年(明治34年)- 第七高等学校造士館が設置されるにあたり、鹿児島県尋常中学造士館を廃止し、生徒はすべて同時に設置された鹿児島第一中学校分校に収容。
第七高等学校造士館設立
  • 1901年(明治34年)
    • 3月 - 勅令第24号で文部省直轄諸学校官制中改正の件が公布され、同官制第1条第1項中に「第七高等学校造士館」が追加される。勅令第25号で職員の定員を制定。
    • 4月 - 鹿児島県第一中学校校長兼教諭・鹿児島県中学造士館長、岩崎行親が本校教授に任じられ、校長心得を命じられる。
    • 5月 - 校則を制定。
    • 6月 - 文部省令第13号をもって、大学予科を設置。文部省令第125号をもって本校の位置を「鹿児島県鹿児島市山下町117番地」に定める。
    • 7月 - 予科各部第1学年を募集。
    • 8月 - 事務分掌規程および事務所順序を定める。
    • 9月 - 入学試験を実施。合格者147名に入学を許可。
    • 同月 - 本校諸規則を定め、生徒の制服制帽および帽章を規定。
    • 9月26日 - 授業を開始。
    • 9月30日 - 寄宿舎を開き、生徒が入寮。
    • 10月25日 - 開校式を挙行。文部大臣菊池大麓が臨席[7]。(開校記念日とする)
  • 1903年(明治36年)8月 - 学科主任規程と評議員規程を定める。
  • 1904年(明治37年)
    • 4月 - 規則中に成業の見込みがないと認められた者は除名するという項目を加える。
    • 7月 - 第1回卒業式を挙行。各部3年生、計87名が卒業。
  • 1905年(明治38年)4月 - 従来学校の経費は1901年(明治34年)の創設以来、島津公爵の寄付金で賄われていたが、この時より国庫支弁に帰属することとなる。
  • 1906年(明治39年)
    • 7月 - 岩崎校長以下教員4名、校医1名、生徒53名が許可をえて、満韓地方に修学旅行を行う。
    • 9月 - 初めて清国の学生(6名)を収容。
    • この年 - 校旗を制定。
  • 1907年(明治40年)
    • 9月 - 新入生の保証人を廃止し、担任教師の制度を定める。
    • 10月 - 皇太子が来校。
  • 1908年(明治41年)
    • 3月 - 文部省告示第78号をもって大学予科入学者選抜試験規程が廃止され、学校別に試験を行うことに改められる。
    • 同月 - 文部省令第9号をもって高等学校の修業年限および入学資格程度を廃止し、同時に大学予科入学者資格を定める。
  • 1909年(明治42年)9月 - 第一高等学校を卒業した清国学生5名を収容。
  • 1911年(明治44年)7月 - 高等中学校令の公布と同時に高等中学校規程が制定される。
  • 1912年(明治45年)2月 - 寄宿舎1棟を増築。
  • 1913年(大正2年)8月 - 中等教員夏期講習会を開設。
  • 1914年(大正3年)
    • 1月 - 桜島大噴火により、校舎石垣等が多大の損害を受け、文部省建築課長の取り調べ(調査)が実施され、復旧工費約7万円の予算が配分される。
    • 7月 - 復旧工事が起工。
  • 1915年(大正4年)
    • 3月 - 復旧工事が完了。
    • 7月 - 各高等学校主催関東州山東省ならびに南洋諸島修学旅行団体に教授2名、生徒8名が参加。
  • 1918年(大正7年)12月 - 高等学校令が公布される。
  • 1919年(大正8年)3月 - 高等学校規程が制定される。(高等科を設置)
  • 1921年(大正10年)4月 - 高等学校の開始期をこの時から4月に繰り上げる。
  • 1922年(大正11年)
  • 1925年(大正14年)
    • 3月 - 運動場を拡張。
    • 4月 - 陸軍将校が配属される。教練が実施される。
  • 1926年(大正15年)10月 - 雨天体操場が完成。
  • 1927年(昭和2年)
    • 2月22日 - 火災により寄宿舎の西寮・南寮の2棟を焼失。
    • 5月 - 鹿児島大林区署跡建物を仮寄宿舎として借り受け、生徒100名を収容。
    • 8月 - 天文観測室が完成。
    • 9月 - 西側裏門を新設。
    • 10月 - 水泳場(プール)が完成。
  • 1928年(昭和3年)
    • 3月 - この時から選抜試験(入試)を本校以外に沖縄県庁で実施。
    • 3月 - 仮寄宿舎として使用していた鹿児島大林区署跡の建物を大蔵省に返還する。
    • 6月 - 寄宿舎が完成。
    • 11月 - 生徒監を生徒主事に改める。
  • 1929年(昭和4年)3月 - 授業料を1年65円から80円に増額。
  • 1933年(昭和8年)11月 – 公民教育講座を県教育会館で実施。
  • 1935年(昭和10年)11月17日 - 天皇が来校。
  • 1936年(昭和11年)7月 - 従来の本館を明治天皇臨幸記念館として磯浜の旧位置に移転。
  • 1937年(昭和12年)5月 - 本館が新築完成。
  • 1938年(昭和13年)3月 - 沖縄県庁で実施してきた選抜試験を中止。
  • 1940年(昭和15年)11月17日 - 学友会を廃止し、報国団を結成。
  • 1942年(昭和17年)11月21日 - 造士館創設者従三位島津重豪の頌徳碑を建立。
  • 1943年(昭和18年)6月15日 - 学内に設置された胸像・銅像が軍事物資製造のために回収される。
  • 1945年(昭和20年)
  • 1946年(昭和21年)3月 - 校名から「造士館」を除き、「第七高等学校」に改称[9]
  • 1947年(昭和22年)、出水町から鹿児島の旧所に校舎復帰[10]
  • 1948年(昭和23年)4月、最後の入学試験で合格した津崎幸子が入学。七高の最初で最後の女子学生となった[5][6]
  • 1949年(昭和24年)5月31日 - 新制「鹿児島大学」の発足により、包括され「鹿児島大学第七高等学校」と改称。
  • 1950年(昭和25年)3月31日 - 廃校

校地の変遷と継承

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  • 鶴丸城址に置かれた七高校地は、鹿児島県立中学造士館設立から新制鹿児島大学への移行に至るまで基本的に同地で維持されたが、1945年6月の空襲による校舎の全焼後、学校再開の施設の目途が立たず、同年10月末になって鹿児島県出水郡高尾野町(現:出水市)の第二出水海軍航空隊の旧施設に移転の見込みがついたものの、11月になって施設の使用許可が進駐軍軍政官より下りなかったので、町の公会堂で入学式および始業式をあげることにし、11月20日をもって鶴丸城址における学校事務を閉じた。12月8日に、軍政官より高尾野町の施設使用を許可され、1946年1月7日より高尾野校舎で授業を再開した。
1946年11月には高尾野校舎で2度目の入学式、1947年2月には卒業式が行われたが、旧校地復帰の要望が多く、1947年4月には、七高教室跡に建てられていた厚生省鹿児島援護局の建物2棟に一部移転を開始し、9月15日の文・理科1年の移転をもって全科全学年の旧校地への復帰が完了した。[11]
  • 七高校地は新制鹿児島大学への包括にともない鹿児島大学の一般教養部の敷地となったが、1953年4月24日の火事で、本館以外の校舎をほとんど焼失した一般教養部は、1958年までに市内郡元地区に統合移転し、入れ替わりに1957年2月の同大学医学部基礎学科の新築移転を皮切りとして[12]、医学部施設が移転・新設され、1974年9月まで同大学医学部の校地となった[13]
  • 現在、鶴丸城址の旧校地には鹿児島県歴史資料センター黎明館1983年開館)・県立図書館1980年開館)が建てられており、黎明館内には旧制七高関連のコーナーが設けられている。また敷地内には「七高久遠の像」および寮歌「『北辰斜に』の碑」が建立されている[14]。疎開先の出水海軍航空隊跡は出水市立下水流小学校校地となっており[15]、同校校門横には「第七高等学校造士館址」の碑が建立されている。
  • 集成館の建造物の1つとして世界文化遺産に登録され、国の重要文化財に指定されている、鹿児島市吉野町の「旧鹿児島紡績所技師館(異人館)」は、1884年(明治15年)に鹿児島学校の校舎として鶴丸城址内に移築され、造士館設立後もそのまま校舎の一部として使用された後、1936年(昭和11年)7月に校舎改築に合わせて、記念建造物保護のために、旧地に再移築されたものである[16]

設立時の事情

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第七高等学校造士館の前身となる鹿児島高等中学造士館は、1886年(明治19年)4月9日公布の中学校令に基づき、1887年(明治20年)12月に設置され、この時に設置された7校のうち、最後に決定された高等中学校となった[17]

政府と文部大臣森有礼の当初計画では、全国を5つの区域に分けて、それぞれの区域に1つ高等中学校を設定することで、全国の県立府立中学校を5校に削減集約して文部省管轄の国立校として管理し、また地方の負担を軽減する予定であった[18][19]

5校設立後に、有志の私費で運営され実質的に私立校であった山口中学校と鹿児島造士館の高等中学校への移行を追加で許したのは、薩長閥政治家の意向を反映しているという批判もあった[20]

実際に、郷友の運動や島津珍彦による森有礼への働きかけもあり[21][22]、鹿児島高等中学造士館が文部省管理の高等中学校として島津珍彦が校長となり発足した[23]

島津珍彦の嘆願書は、九州地区の高等中学校を鹿児島に設置することを要望する内容であったが[22]、結局、九州を含む第5区には熊本と鹿児島に2つの高等中学校が開設したので、定員を満たすだけの尋常中学校あるいは予備門学校の卒業生を確保することは困難であった[24]

関東甲信地域を区域とした一高以外の高等中学校はどこも、必要な学力レベルに達した生徒の確保に苦労していたので、山口高等中学のように別に予備門の中学を持つか、本科と別に補充科を設けて補修を行っていたが、1894年(明治27年)6月25日の「高等学校令」の発令前には、造士館以外の学校ではすでに補充科への生徒募集を停止していた[24]

「高等学校令」公布時に補充科の生徒を抱えていた造士館は、1896年(明治29年)9月3日に文部省の管轄を外れ廃校となり、県の管理下に戻って鹿児島県尋常中学校造士館となった[25][26]。他の6つの高等中学校は新制度のもとで高等学校に移行した。

文部省は実業界の要望を容れて、実学を重視し、高等学校における専門課程の拡充に力を入れた。高等学校の大学予科としての機能は縮小して、即戦力のある労働者をより早く労働市場に供給する体制を作ろうという目論見だったが、1897年(明治30年)の京都帝国大学の創設にみるように、大学教育の需要は高まるばかりであった[27]

鹿児島県中学造士館長岩崎行崎と島津忠重は、東北大学創設を目指す星亨にも働きかけ、大学予科をもつ学校の増設として鹿児島への高等学校設置を嘆願し、忠重よりの金16万2千円と造士館の資産寄付もあって、1900年(明治33年)の第六高等学校(岡山県)の新設に続き、1901年(明治34年)に第七高等学校造士館の設置が決定した[28][29][30]

なお、山口高等学校は1905年(明治38年)2月に商業専門学校として山口高等商業学校となったので、1908年(明治41年)に名古屋に第八高等学校ができてから、1919年(大正8年)4月に再び山口高等学校が、新潟高等学校松本高等学校松山高等学校と共に創設されるまで、普通高等学校は第一から第八までのナンバースクールのみであった[30]

入試

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1901年(明治34年)の高等学校としての第1回入学試験は、9月に施行されたので、すでに試験の終わっていた他の6つの高等学校の受験に失敗した生徒たちが殺到した[31]

1902年(明治35年)に、文部省告示第82号「高等学校大学予科入学試験規定」によって、入学試験は文部省の管理のもと全国共通で行われることになった。試験実施は各高等学校で行われるが、試験問題は同一で、受験生はその成績と志望順位によって入学する高校が決められた。生徒は、地方の高校で受験し、東京の一高を第一志望とするといったことが可能であった[32]

1908年(明治41年)3月に、先の規定は廃止され、高校別に生徒募集・入学試験を行う方式に戻った。七高の岩崎館長は交通不便な僻地に優秀な生徒を集めるためと称し、1908年度より数年にわたって東京と鹿児島の2か所で試験を行い、また期日も1か月早める等の施策をとった[33][34]。東京で浪人をしていた受験生も多く、一高受験に失敗していた石黒忠篤はこの時に入学した[35]

1926年(大正15年)の入学試験から行われていた、第1志望・第2志望の2校を受験できる二班試験制は、1928年(昭和3年)3月の試験から廃止されたが、受験生の負担軽減のために試験科目が制限され、口頭試験や身体検査が導入された[36]。同月には沖縄県庁でも選抜試験が行われた[37]。沖縄県での試験は1938年(昭和13年)に中止された[38]

七不思議

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第七高等学校造士館は、鶴丸城址に建てられた。 居城などの建物は火事で無くなっていたが、鉄の正門に続く擬宝珠の石橋や井戸は残っていた。そんな城跡にまつわるいくつかの不思議な話が残り言い伝えられていた[39]

  • 笑う擬宝珠
鶴丸城の築城時、橋や城壁の一枚の石を取れば全部が崩れるという仕掛けを作らせた。
そして、その秘密が外に漏れることを恐れ、設計や施工に携わった石工を殺した。
その石工の恨みが橋に残り、雨がちな夜、右欄干の奥から二番目の擬宝珠が髪を振り乱してへらへら笑うことがあるという。
恨みの主は、石工の女房だという話もあり、あるいは白髪の石工の死面を確かに見たという話もある。
  • ドッペり井戸
校舎正面の左手の教室の前にある井戸、これをのぞいたものは3度に1度はドッペる(落第留年する)。
これは、井戸底にひそむ亡霊が覗き込んだ者に祟って落第させるのだという。
3月15日は及落会議が朝から夜遅くまで続き、成績表が張り出される。59点以下が不合格、不合格科目には、50点台が赤マル、40点台は青マル、39点以下は黒マルのマークがつけられる。2度連続ドッペると、退学になる。
  • 大慈水の井戸
江戸の末期、城中で2人の小姓と1人の可憐な腰元とが三角関係になり、恋に狂った1人の小姓が奸策をもって殿中の長廊下に恋敵を誘い出し、殿の手によって成敗させ、その屍を庭の井戸に投げ込んだ。それから五月雨のしとしと降りしきる夜になると、井戸の底からとも地の中からとも知れぬところから哀れなる男子の声が聞こえるという。この井戸は元科学教室の南方の中庭にあったが、ここにプールが建設された。
  • 白馬の騎士
秋の空の美しい夜、不可思議な幻想曲の伴奏が流れて、白馬にまたがった若い騎馬武者が紺地錦の鎧直垂に紫下濃の着長、反った霊剣に白狐の皮の鞘かけ、白鷹の羽と鵲の羽を交せた征矢を肩高と荷い、塗籠の弓の真ん中を握り、白馬の鬣を東に向けて飛んでいくという。これも悲恋にまつわる一残影とか。
  • 便所の怪声
西寮の古便所の1つ。夜中ここに入って四隅の柱をなでるとキャーッという怪声が叫ばれるという。
  • 白髪の老婆
夜生徒課前の東寮の三つ目の便所に入り、用を済ませて出ようとすると、白髪の老婆がその戸を押さえ、どうしても開かないまま夜を徹するとか。
  • 秘密の抜け穴
西寮の裏には、城山に続く抜け穴がある。途中には水たまりがあって、何とも気味の悪い穴。
  • その他の不思議
  1. 便所にまつわるもう一つの伝説では、試験勉強に思わず夜を更かして足音寂しくひとり階段を下りて便所に行く。さて用を済ませて再び階段を上ろうとすると、どうしても階段が一段足らぬ。何度も上から下へ、下から上へと数えても1つ足りなくなるという。
  2. 薩摩義士の記念碑のある大手の濠、城山の雨水がちょろちょろと注ぐところに、丑三つ時に凍らんばかりの寒気をつんざいて絶え絶えに哀れな嬰児の声が流れてくる。勇をこらして濠の内へと忍び込めば、こんどはギャーッと嬰児の悲鳴が上がる、水芋の葉の下に嬰児の首がごろりと、唇から血を吐いて泣いているとか。

歴代校長

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鹿児島高等中学造士館 館長
  • 初代 - 島津珍彦(1887年(明治20年)12月 - 1891年(明治24年)8月16日)
  • 第2代 - 川上彦次(1891年(明治24年)8月16日 - 1893年(明治26年)3月13日)
  • 第3代 - 島津珍彦(1893年(明治26年)3月13日 - 1896年(明治29年)9月2日)
第七高等学校造士館・第七高等学校 校長
  • 初代 - 岩崎行親(1901年(明治34年)4月 校長心得(1902年(明治35年)5月から校長) - 1912年(大正元年)9月)
-(前)鹿児島県第一中学校長兼教諭、鹿児島県中学造士館館長 (後)依願退官
  • 第2代 - 小西重直(1912年(大正元年)9月 - 1913年(大正2年)8月)- (前)文部省視学官 (後)京都帝国大学分科大学教授
  • 事務取扱 - 井上恒二 館長事務取扱 (1913年(大正2年)8月 - 同年10月)
  • 第3代 - 吉田賢龍(1913年(大正2年)10月 事務取扱(1914年(大正3年)4月から校長) - 1920年(大正9年)4月)
- (前)第三高等学校教授 (後)広島高等師範学校校長
  • 第4代 - 渡部董之介(1920年(大正9年)4月 - 1925年(大正14年)4月)- (前)従四位勲三等 (後)依願免官
  • 第5代 - 由比質(1925年(大正14年)4月 - 1930年(昭和5年)4月7日病死)- (前)松山高等学校校長 (後)病死
  • 第6代 - 葉山万次郎(1930年(昭和5年)4月23日 - 1933年(昭和8年)9月)- (前)山形高等学校校長 (後)大阪外国語学校校長
  • 第7代 - 堀重里(1933年(昭和8年)9月 - 1937年(昭和12年)8月)- (前)静岡高等学校校長 (後)福岡高等学校校長
  • 第8代 - 岡田恒輔(1937年(昭和12年)8月 - 1943年(昭和18年)4月1日[40])- (前)新潟高等学校校長 (後)埼玉師範学校校長
  • 第9代 – 浅野孝之(1943年(昭和18年)4月1日[40] - 1947年(昭和22年)9月)- (前)姫路高等学校校長
  • 第10代 - 緒方健三郎(1947年(昭和22年)9月 - 1950年(昭和25年)3月)

著名な出身者

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【鹿】は前身の鹿児島高等中学造士館本科卒業生(尋常中学に相当する予科の出身者は「中学造士館」のページを参照。)

政治・行政

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社会運動・社会活動

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法曹

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経済・実業

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報道・マスコミ

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学術・研究(理・工・農・医系)

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学術・研究(人文学・社会科学・人間科学系)

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文学・評論・文筆

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芸術・工芸・芸能・スポーツ

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その他

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著名な教職員

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歴代校長と出身者は各節を、前身の鹿児島高等中学造士館教員は中学造士館のページを参照。

脚注

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  1. ^ 財界評論新社 1970.
  2. ^ 財界評論新社 1970, p. 25,131.
  3. ^ 同窓会 1960, p. 2.
  4. ^ 同窓会 1960, p. 140.
  5. ^ a b 財界評論新社 1970, p. 185.
  6. ^ a b 同窓会 1960, p. 293.
  7. ^ 『官報』第5502号、明治34年11月4日。
  8. ^ 同窓会 1960, p. 8-9.
  9. ^ 高等師範学校官制等中改正ノ件、2022年8月28日閲覧。
  10. ^ 財界評論新社 1970, p. 184.
  11. ^ 同窓会 1960, p. 8-14.
  12. ^ 鹿児島大学十年史. 鹿児島大学. (1960). p. 23-80 
  13. ^ 鹿児島大学医学部 医学部について”. 鹿児島大学. 2025年4月22日閲覧。
  14. ^ 黎明館敷地散策”. 鹿児島県 (2023年11月18日). 2025年4月22日閲覧。
  15. ^ 小学校校庭に残る地下壕。第二出水海軍航空隊は特攻隊の整備士を養成していた。「知ってほしい。空襲で少年たちも犠牲になったことを」”. 南日本新聞デジタル. 南日本新聞 (2022年8月28日). 2025年4月22日閲覧。
  16. ^ 文化財建造物保存技術協会 (1979-09). 重要文化財旧鹿児島紡績所技師館修理工事報告書. 鹿児島市. p. 43 
  17. ^ 筧田 1975, p. 10-11.
  18. ^ 筧田 1975, p. 6-20.
  19. ^ “第554号議案”, 元老院会議筆記 自 第五百三十四号 至 第五百五十八号: 1-19, (1887-09-21), doi:10.11501/1367170 
  20. ^ 田口卯吉 (1887). “薩長の勢力を永久に保持するの策如何”. 国民之友 (精文館) 1: 116-124. doi:10.11501/898274. 
  21. ^ 財界評論新社 1970, p. 5.
  22. ^ a b 島津珍彦書簡 樺山資紀 付属資料: 森有礼宛意見書・仁礼景範宛, 国立国会図書館, (1886-04-28), doi:10.11501/11898364 
  23. ^ 財界評論新社 1970, p. 20.
  24. ^ a b 筧田 1975, p. 123-126.
  25. ^ 筧田 1975, p. 126-127.
  26. ^ 財界評論新社 1970, p. 21.
  27. ^ 筧田 1975, p. 126-136.
  28. ^ 北原聡 (1996-10). “星亨のインフラストラクチュア構想”. 三田学会雑誌 (慶應義塾経済学会) 89 (3): 447(109)- 468(130). 
  29. ^ 財界評論新社 1970, p. 21-22.
  30. ^ a b 筧田 1975, p. 127-128.
  31. ^ 財界評論新社 1970, p. 25.
  32. ^ 筧田 1975, p. 179.
  33. ^ 筧田 1975, p. 195.
  34. ^ 財界評論新社 1970, p. 29.
  35. ^ 同窓会 1960, p. 48.
  36. ^ 財界評論新社 1970, p. 77.
  37. ^ 財界評論新社 1970, p. 252.
  38. ^ 財界評論新社 1970, p. 255.
  39. ^ 財界評論新社 1970, p. 59-60.
  40. ^ a b 『官報』第4865号、昭和18年4月2日。

参考資料

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関連書籍

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尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照
「主要高等教育機関一覧」参照

関連項目

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外部リンク

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