聖ゲオルギウスの聖母
『聖ゲオルギウスの聖母』(せいゲオルギウスのせいぼ、伊: Madonna di San Giorgio[1][2], 独: Die Madonna des heiligen Georg[3], 英: Madonna of Saint George[4])は、ルネサンス期のイタリアのパルマ派の画家コレッジョが1530年から1532年頃に制作した祭壇画である。油彩。コレッジョの代表作の1つで、画家が長年にわたって積み重ねてきた絵画的実験を集大成した作品と考えられている[5]。モデナの殉教者聖ペトロ同信会(Scuola di San Pietro Martire)の発注によって制作された[2][3][4][5]。モデナ=レッジョ公爵フランチェスコ1世・デステのコレクションを経て、現在はドレスデン国立美術館のアルテ・マイスター絵画館に所蔵されている[1][2][4][3][5][6]。また同じくドレスデンの版画素描館には額縁のデザインを含む全体の構想を描いた準備習作が所蔵されている[3][7]。
イタリア語: Madonna di San Giorgio 英語: Madonna of Saint George | |
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作者 | アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ |
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製作年 | 1530年-1532年頃 |
種類 | 油彩、板 |
寸法 | 285 cm × 190 cm (112 in × 75 in) |
所蔵 | アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン |
制作経緯
編集本作品は1530年から1532年頃、モデナのドミニコ会の殉教者聖ペトロ同信会の発注により、同地の礼拝堂の祭壇画として依頼された[2][3][4][5]。この礼拝堂はドミニコ会だけでなく、おそらく鞭打ち苦行者とも関係があった、神の家病院の兄弟会(confraternita dell’Hospitale della Casa di Dio)によって運営されていた[2]。この発注はコレッジョが1520年代半ばにモデナの聖セバスティアヌス同信会のために制作した祭壇画『聖セバスティアヌスの聖母』(Madonna di san Sebastiano)の成功を受けてのものと考えられている[2]。コレッジョがパルマ大聖堂で制作した最後の天井画『聖母被昇天』(L'Assunta)と同時期の作品で、おそらく画家が制作した最後の宗教画であった[4]。
作品
編集コレッジョは玉座に座る聖母子を中心とした聖会話を描いた。丸天井下の中央の玉座に聖母子が座り、その周囲に4人の聖人と、プットーたちが集まっている。聖人たちはそれぞれ、聖ゲミニアヌス、ヴェローナの聖ペトロ(殉教者聖ペトロ)、洗礼者ヨハネ、聖ゲオルギウスとされる[2][4][5]。
聖人たちのうち、聖ゲミニアヌスは4世紀頃のモデナの初代司教で、コンスタンティノープルでローマ皇帝の娘に憑いた悪魔を払った。またモデナの守護聖人で都市を2度の破滅から救ったとされ、1度目は神に加護を祈ることによりフン族の王アッティラの攻撃から、2度目は洪水から都市を救ったと伝えられている[9]。ロマネスク建築のモデナ大聖堂は11世紀に聖ゲミニアヌスの墓地の上に建設された。ヴェローナの聖ペトロはドミニコ会の異端審問官で、カタリ派であった2人のヴェネツィア貴族の財産を没収したことで恨みを買い、彼らが雇った暗殺者によって殺された[10]。本作品を発注した殉教者聖ペトロ同信会はヴェローナの聖ペトロを守護聖人とする。ゲオルギウスは竜殺しの伝説で知られる。フェラーラの守護聖人であり、エステ家の領地では篤い崇拝を受けていた[2]。
聖会話は15世紀半ば以降、祭壇画として頻繁に用いられてきた絵画様式で、コレッジョは玉座に座った聖母子を中央に配置し、左右に四聖人を対称的に配置した伝統的な祭壇画として描いた。この配置は明らかに主祭壇画として正面から観賞されることを意図しているが[2]、コレッジョは聖会話の伝統的な表現を用いながら、それを洗練させ、より豊かなものとしている[5]。
たとえば背景の建築要素は礼拝堂を表しており、両側のペンデンティブは花綱で飾られた2体の少年像を備え、アーチ状の内陣を形成しながら丸天井を支えている[2][5]。そして画面下の聖母子と聖人を取り囲み、円形のアーチの中に聖母子を収めているが[2]、さらに遠くの風景が聖母子の姿を際立たせる[5]。アーチ中央には天使の頭部をかたどった装飾が施され、上部の開かれた丸天井は神との交信を象徴し[2]、色鮮やかな果物や葉で飾られている[2][5]。
司教の祭服をまとった聖ゲミニアヌスは画面左奥の玉座に最も近い位置に立っている。聖ゲミニアヌスはプットーの助けを借りながら、モデナの都市[2][3][5]あるいはモデナ大聖堂の雛型を聖母子に捧げており[4]、幼児のイエス・キリストも両手を伸ばして欲しがる仕草をしている[2]。画面左前景では洗礼者ヨハネが立っている。ラクダの毛皮を身にまとい、左手に葦製の十字架の杖を持つ姿は典型的なものである。しかしその容姿は若々しく、左足を壇上に乗せ、聖母子に向かって身を屈めながら右手で聖母子を指さし、朗らかな表情で鑑賞者のほうを振り向いている[3][4]。同信会の守護聖人で、熱心な説教者であったヴェローナの聖ペトロは、白と黒の僧服を着て画面右奥で聖母マリアに拝謁しており[3]、聖母マリアも謙遜な態度で聖ペトロの言葉に耳を傾けている[2]。聖ペトロは暗殺者に殺されたため、しばしば頭部に剣や斧の攻撃を受けたり、胸を剣で刺し貫かれた姿で描かれた[10]。本作品でも聖ペトロの頭部に打ち込まれた剣がかろうじて見える[4]。最後に聖ゲオルギウスは画面右前景で鑑賞者に背を向けて立っている。甲冑を着込んだ聖ゲオルギウスのポーズは洗礼者ヨハネと対照的である。聖ゲオルギウスは右手に槍を持ち、剣で切り落とされたドラゴンの頭部を左足で踏みつけている[3][4][5]。しかし、肩越しに鑑賞者を見つめる聖人の立ち居振る舞いは、思慮深く美しい。聖ゲオルギウスの周囲には3人のプットーがおり、聖人の剣や兜を持って遊んでいる[2][4]。プットーたちはいずれも子供らしい幼さと生き生きとした動作であふれている。2人のプットーは聖人の兜を別のプットーの頭に被せようとするが、相手はそれから逃れようとしている。中央のプットーは優雅な身振りで聖人の剣を持ち上げ、他のプットーたちを微笑みながら観察している。さらに別のプットーは聖ゲミニアヌスの持つ雛型を支える仕事に熱中している[2]。
コレッジョは聖母子と聖人たちの絡み合う身振りと視線の表現において、その手腕を遺憾なく発揮している。コレッジョは登場人物に対照的な動きを与えた。構図の中心に配置された聖母子は、たがいに反対方向に視線を向けているため、鑑賞者の視線は異なる視点に誘導される。また聖人たちの頭部と身体の向きはそれぞれ異なり、その姿勢や、身振り、視線の対角線はたがいに交差し、照明、衣文、色彩と合わせて均衡のとれた動きや会話のネットワークを形成している。人物たちの演劇性は1520年代の作品と比べると、より穏やかで洗練された表現となっている[2]。画面に描かれた多くの人物たちはいずれも独自の空間を持ち、特に最前景のプットーはパルミジャニーノを思わせる生き生きとした動きを示している[5]。
また本作品の特徴として、絵画の場面が建築要素で囲まれていることが挙げられる。祭壇画の設置場所が教会ではなく礼拝堂の主祭壇であったことから、コレッジョは制作に当たって、より近距離から観賞されることを考慮したと思われる。そこでコレッジョは信者たちがより深い没入感を得ることができるように、聖母子と聖人たちを建築要素で囲み、彼らが信者たちと同じ空間にいることを強調した。前景の洗礼者ヨハネと聖ゲオルギウスの視線が鑑賞者に対して向けられている点も重要で、これにより礼拝堂に入って来る信者の視線は聖人たちの視線と交差することになる。こうした表現はいずれも聖人たちと信者たちの間の強い絆を表しており、開口部から取り入れられた光は信仰によって結ばれた教会の姿を浮かび上がらせている[2]。
プットーが多く描かれたことも特徴として挙げられる。これらの幼い子供たちの描写は、おそらく殉教者聖ペトロ同信会が捨てられた子供たちを養育していたことと関係がある。コレッジョは聖人たちと喜びを分かち合うことができる存在として、子供たちをプットーという形で画面に登場させたのだろう[2]。このプットーたちは、とりわけバロック期のボローニャ出身の画家グイド・レーニを魅了した[2]。
コレッジョは本作品の中でアンドレア・マンテーニャ、ロレンツォ・コスタ、フランチェスコ・フランチャ、ジョルジョーネ、ジョヴァンニ・ベッリーニ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンツィオから受けた諸影響を凝縮し、個性的な方法で統合している。背景の風景にはドメニコ・ベッカフーミを思わせるマニエリスム的な逆光を使用している[5]。
来歴
編集年代記作家ランチロットによると、完成した祭壇画は1532年に礼拝堂に設置された[5]。ジョルジョ・ヴァザーリはその著書の中で、本作品について「・・・殉教者聖ペトロの板絵は、コレッジョが同信会のために描いた作品で、信徒たちはその価値にふさわしく、極めて高く評価している。とりわけ、他の人物像の中で、聖母マリアの膝の上で生きているように見える幼児のキリストと、大変に美しい殉教者聖ペトロが描かれているからだ」と言及している。
祭壇画は1649年にフランチェスコ1世・デステによって購入された。その際にフランチェスコ1世はグエルチーノに代替品となる絵画『聖母子と四聖人』(Madonna col Bambino e quattro santi)を依頼した[4][8]。グエルチーノはこの依頼により、本作品と同じく聖母子と聖ゲミニアヌス、殉教者聖ペトロ、洗礼者ヨハネ、聖ゲオルギウスを異なる構図で描いた。この作品は1651年から1652年頃に完成し、礼拝堂内にあったコレッジョの祭壇画と置き換えられた[8]。同様にフランチェスコ1世はサン・フランチェスコ教会が所有していたコッレッジョの『聖フランチェスコの聖母』(Madonna di San Francesco)と『聖フランチェスコのいるエジプトへの逃避途上の休息』(Riposo durante la fuga in Egitto con San Francesco)、『聖セバスティアヌスの聖母』(Madonna di san Sebastiano)、『羊飼いの礼拝』(Adorazione dei pastori)といった重要作品を元の設置場所から移して自身の収集室に持ち込んだ。デステ家のコレクションに入った直後、祭壇画はオットネッリ神父とフランチェスコ・スカンネッリから賞賛された。しかしその後、フランチェスコ3世・デステは1745年から1746年にかけてザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世にエステ家のコレクションのうち最も優れた100の作品を売却しなければならなかった。こうして『聖フランチェスコのいるエジプトへの逃避途上の休息』を除いたエステ家が所有するコレッジョの絵画はイタリアからドレスデンに運ばれた[2][4][11]。
祭壇画はドレスデンへ輸送される際中に損傷を受けたため、一部修復を受けている。しかしアルテ・マイスター絵画館に所蔵されている他のコレッジョが描いた祭壇画の中で最も保存状態が良い[4]。
影響
編集祭壇画は礼拝堂に設置されると、すぐにモデナ出身の画家ジローラモ・コンティ(Girolamo Conti)によって模写された。この模写は祭壇画が好評を博したことを現代に伝えている。しかしコレッジョの創意工夫された祭壇画と比較すると、模写は静的かつ型通りの聖会話と化してしまっている[2]。さらに数十年後、ボローニャの画家バルトロメオ・パッセロッティは本作品に影響を受けて、同地のサン・ジャコモ・マッジョーレ聖堂のために祭壇画『玉座の聖母子と諸聖人』(Madonna in trono con Bambino e santi)を制作した。何人かの研究者はこの作品をパルマ派に対するオマージュと見なしているが、影響そのものは形式的なものにとどまり[12]、コレッジョの洗練された感情的・空間的構造についての理解を示していない[2]。
バロック期に入ると巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスが忠実な模写を作成した。ルーベンスはペンと茶色のインク、黒チョークの上に茶色と灰色のウォッシュで素描し、白の油彩で強調している。この模写はドイツ・オーストリアの美術収集家アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンのコレクションに由来し、現在はウィーンのアルベルティーナに所蔵されている[13]。
複製版画も多く制作された。早くも16世紀には、モデナ公国のリミニ出身の版画家クリストファノ・ベルテッリ[14]、17世紀にはボローニャ出身の画家・版画家ジャコモ・マリア・ジョヴァンニーニによって版画が制作された[15]。銅版画でよく知られているのは、1753年にフランス人版画家ニコラス・ドーファン・デ・ボーヴェが制作したものである[16][17][18]。これはアルテ・マイスター絵画館が所有する絵画の版画集『Galeriewerks』のために制作されたものであった[17]。19世紀半ばにもヒューゴ・ビュルクナーによって銅版画が制作された[19]。リトグラフではアンジェロ・ブシュロンが1849年にヴェローナの聖ペトロと聖ゲオルギウスの上半身のみを切り取った版画を制作した[20]。
ギャラリー
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バルトロメオ・パッサロッティ『玉座の聖母子と諸聖人』1560年-1565年頃 サン・ジャコモ・マッジョーレ聖堂所蔵
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クリストファノ・ベルテッリによる版画 16世紀[14]
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ヒューゴ・ビュルクナーによる銅版画 19世紀半ば[19]
脚注
編集- ^ a b 『西洋絵画作品名辞典』p. 237。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y “Madonna di San Giorgio”. Correggio ART HOME. 2025年8月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “Die Madonna des heiligen Georg”. ドレスデン国立美術館公式サイト. 2025年8月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “Correggio”. Cavallini to Veronese. 2025年8月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n ルチア・フォルナーリ・スキアンキ、p. 68。
- ^ 『ブリタニカ国際大百科辞典』8巻「コレッジオ」p. 33。
- ^ a b “Die Madonna des heiligen Georg (Madonna di San Giorgio)”. ドレスデン国立美術館公式サイト. 2025年8月22日閲覧。
- ^ a b c “La Vierge à l'Enfant avec quatre saints (Géminien, Jean Baptiste, Georges, Pierre martyr), dit à tort Les Saints Protecteurs de la ville de Modène”. ルーヴル美術館公式サイト. 2025年8月22日閲覧。
- ^ 『西洋美術解読事典』p. 121「ゲミニアヌス(聖)」。
- ^ a b 『西洋美術解読事典』p. 296「ペトルス、殉教者(聖)」。
- ^ “Die Madonna des heiligen Franziskus”. ドレスデン国立美術館公式サイト. 2025年8月22日閲覧。
- ^ “Madonna con Bambino in trono, Sant'Antonio abate, San Nicola, Sant'Agostino, Santo Stefano, San Giovanni Battista e i due committenti, Passarotti Bartolomeo”. イタリア文化財総合目録公式サイト. 2025年8月22日閲覧。
- ^ “[8229&showtype=record#/query/5c95d0e9-e749-40f9-8c9e-2c7482de0549 Die Madonna mit dem heiligen Georg, Peter Paul Rubens]”. アルベルティーナ公式サイト. 2025年8月22日閲覧。
- ^ a b “Madonna di San Giorgio”. Correggio ART HOME. 2025年8月22日閲覧。
- ^ “Madonna di San Giorgio”. Correggio ART HOME. 2025年8月22日閲覧。
- ^ a b “Die Madonna des heiligen Georg, Nicolas Dauphin de Beauvais”. ドレスデン国立美術館公式サイト. 2025年8月22日閲覧。
- ^ a b c “Die Madonna des heiligen Georg; Tafel 2 der Folge: Recueil d'estampes d'apres les plus celebres Tableaux de la Galerie Royale de Dresde, I. Volume”. ドレスデン国立美術館公式サイト. 2025年8月22日閲覧。
- ^ a b “Madonna di San Giorgio. Beauvais (de) Nicolas Dauphin”. Correggio ART HOME. 2025年8月22日閲覧。
- ^ a b “Thronende Maria mit vier Heiligen (Madonna des heiligen Georg), Hugo Bürkner”. ドレスデン国立美術館公式サイト. 2025年8月22日閲覧。
- ^ “Madonna di San Giorgio. Boucheron Angelo”. Correggio ART HOME. 2025年8月22日閲覧。
参考文献
編集外部リンク
編集- ドレスデン国立美術館オンラインコレクション