荊軻
荊 軻(けい か、拼音: 、? - 紀元前227年)は、中国戦国時代末期の刺客。姓は姜、氏は慶[1]、字は次非が確認できる[2]。衛の人。
荊軻 | |
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プロフィール | |
出生: | 不詳 |
死去: | 紀元前227年 |
各種表記 | |
繁体字: | 荊軻 |
簡体字: | 荆轲 |
拼音: | Jīng Kē |
英語名: | Jing Ke |
生涯
編集初期
編集荊軻は慶封らを輩出した斉の名族慶氏の末裔であり、衛の人々は荊軻のことを慶卿という尊称で呼んだ。燕に移ると、燕の人々からは荊卿と呼ばれた。
読書と剣術を好み、剣の腕前を頼みに衛の元君に仕官を求めたが用いられなかったため、それ以来遊侠に身を投じた。榆次を遊歴していた際、蓋聶という達人と剣術論のことで言い争って喧嘩になりかけたが、蓋聶が荊軻を睨むと荊軻はすぐに退散した。また邯鄲を訪れたとき、六博の規定をめぐって魯句践という者と喧嘩になりかけたが、魯句践が凄んで怒りを発すると荊軻はすぐに退散した。荊軻は臆病者と笑われたが、些細な事で命を落とす危険を冒すことはしなかったのである。
のちに燕に入り、一人の狗屠(犬の屠殺業)と高漸離という筑の名手と親しくなり、毎日2人と燕の市で酒を酌み交わした。高漸離が筑を奏で、荊軻がそれに和して歌って互いに楽しみ、やがては泣き始めるという有様はあたかも周りに誰も存在しないかのようであった(傍若無人)。荊軻は主に酒豪たちと交遊していたがその人となりは沈着にして思慮深く、諸侯のもとを遊歴してはその地の賢人・豪傑・有徳者たちと親交を結び、燕においても実力者として名高い田光に賓客として遇された。
推挙
編集紀元前232年、燕の太子丹が人質として秦に入った。丹は秦王政が趙で人質だった時期に親しくしていたが、秦王政は丹を見下し冷遇したため、同年に逃亡し帰国した。丹は帰国後、秦王政への報復を考えたが、燕の国力ではどうすることもできなかった。秦をどうにかしたいという願いは、丹の私怨だけでもなく、当時圧倒的に秦が強勢であり、何か手を打たなければ燕も遠からず滅ぼされることが明らかだったためである。
秦は勢いを増して諸侯を侵略し、ついにその鋭鋒は燕にまで迫ろうとしていた。あるとき、秦王政の怒りに触れて一族を処刑された樊於期という秦の将軍が燕に亡命してきたので、丹はこれを匿った。この事も加わり、迫る災禍に大いに憂えた丹は太傅の鞠武から田光に渡りを付けてもらい、荊軻は田光に推挙されて丹と謁見する運びとなった。丹が帰る時に「他言無用」と言ったことで、田光は荊軻に話を告げた後で「人に疑われるのは節義ある俠客ではない。私は既に死んだので他言されることないと伝えてくれ」と言い残して自害し、荊軻を激励した。
太子丹の礼遇
編集荊軻はその後すぐに丹のもとを訪れ、田光の遺言を伝えると丹は大いに嘆いた。荊軻が席に座ると、丹はあえて席を離れ、拝礼して荊軻に言った。
「田光先生が丹の不肖を知らず、あなたを引き合わせてくださったのは、天が燕を哀れんで見捨てなかったことの証です。秦王政は貪欲で、天下をことごとく併呑し、各国の王を臣従させなければ満たされぬのでしょう。秦は既に韓を滅ぼし(韓攻略)、今は趙に臨んでいます。趙は秦に対抗できず、趙が降伏すれば災禍は燕に及びます。燕は弱小で、幾度も戦乱に悩まされてきました。今や挙国を以て秦に当たっても抗うことはできないでしょう。諸侯は秦に服従し、合従しようとする者はありません。
そこで丹は愚かな一計を案じました。もし天下の勇士を得て、秦に使者として遣わし、大利をもって秦王を誘えば、貪欲な秦王は必ず乗ってきて望む状況を作ることができるだろうと。すなわち、秦王を生け捕りにし、諸侯から奪った地のことごとくを返還させるのです。それが叶わなければそのまま殺します。秦の外は将軍たちが専断しているので、内は混乱しています。秦の君臣たちは互いに疑い合い、その隙に乗じて諸侯が合従することができれば秦を破ることは必定です。これが丹の最上の願いですが、この大任を誰に託すべきか決めかねていました。どうか荊卿(荊軻)に託したい」
沈黙が続き、荊軻は「自分では力不足」と一度は断ったが、丹の意志が固いことを悟ると結局承諾した。荊軻は丹に上卿として厚遇され、上等の館を与えられた。荊軻の館に丹は毎日赴き、荊軻は欲するままに美食・珍品・車馬・美女などを贈られた。あるとき、荊軻と丹は東宮の池で遊んでいたが、丹は荊軻が瓦を拾って蛙に投げるのを見ると丸い金塊を荊軻に捧げた。また二人で千里馬に乗っていた時、荊軻が「千里馬の肝は美味そうだ」と言うと、丹は馬を殺して肝を捧げた。丹と樊於期が華陽台で酒宴を設けた時には、荊軻が琴を弾くのに長けた美女を見て「好い手だ」と言ったので、丹はその美女の手を切断して玉の皿に盛って荊軻に捧げた。このような丹の破格の待遇に荊軻の心は満たされた。
旅立ち
編集しかし、時が過ぎても荊軻は出発しようとしなかった。その間に秦は趙を滅ぼし(趙攻略)、北に進軍して燕の南境に近い中山に駐屯した。丹は恐懼し、荊軻に決行を促すと、荊軻は秦王政に接近する材料として、燕の督亢(肥沃な土地、現在の河北省保定市高碑店市を中心とする広い地域)の地図と秦から多額の懸賞をかけられている樊於期の首級が必要と求めた。これに丹は、私心で樊於期を殺すことはできないと拒否したため、丹の心情を察した荊軻は密かに樊於期に会い、「将軍の首を秦王に献上すれば喜んで私に会うでしょう。私は左手で秦王の袖を掴み、右手で胸を刺します。将軍の仇は報じられ、燕の屈辱も取り除かれます」と頼んだところ、樊於期は承知して自刎し、己の首を荊軻に与えた[3]。丹はこれを聞いて駆けつけると樊於期の屍を抱いて慟哭した。
丹は荊軻のために天下に比類なき匕首を求め、趙の徐夫人[4]の匕首を百金で入手した。さらに工人に命じて匕首に毒薬を塗布させ、試し斬りをしたところ僅かに刺して血が糸ほどに流れただけで即死するほどの威力であったという。
紀元前227年、出発に先立ち、丹は副使として燕将秦開の孫で勇士の秦舞陽を荊軻に同行させた。荊軻は秦舞陽を頼りにならないと見抜き、遠くに住む旧友を同行者に加えようと待機していた。しかし荊軻が出発を延ばすので丹は怖気づいたのではないかと疑い始めると荊軻は怒り、「太子がそれほど遅いと仰るならこれで決別といたしましょう」と旧友の到着を待たずに決行を宣言した。
荊軻の出立に際し、丹および事情を知る者たちはみな白衣白冠(喪服)を身に纏って送別に列し、易水(河北省西部を流れる河川)のほとりで道祖神の儀を開いた。いよいよ出発の途に就く時、友の高漸離が筑を奏で、荊軻がそれに和して歌い、やがて曲調が変徴の調べに移ると壮士たちは皆涙を流した。この時に荊軻が生還を期さない覚悟を詠んだ
風蕭蕭兮易水寒 |
風 |
という詩句は、史記の中で最も有名な場面の一つとされる。
さらに曲調が激しい羽声に転じると、誰もが憤怒と悲壮の感情の余りに目を見開き、髪は逆立って冠を突き抜けんばかりの凄まじい形相となった。そして荊軻は車に乗って去り、ついに振り返ることはなかった。
荊軻刺秦
編集荊軻たちは咸陽に到着した。燕王の使者として千金もの贈り物を携えて参じ、まず中庶子(侍中)の蒙嘉に賄賂を贈った。蒙嘉は秦王政に奏上するに、「燕王は大王の威光に恐れ慄き、あえて兵を挙げて逆らうことはできませぬ。郡県のように貢納の務めを果たし、先王の宗廟を守ることを望んでいます。ただ恐れ多くて自ら申し上げられず、使者を遣わして樊於期の首と燕の督亢の地図を函に封じて献上し、大王のご命令を仰ぎたいと申しております」と伝えた。秦王政はこれを聞いて大いに喜び、荊軻たちは最高位の九賓の礼で迎えられて咸陽宮で秦王政と謁見することとなった。
荊軻と秦舞陽は函を持って階段に至ると、秦舞陽は恐怖から顔色が変わり震え始めた。不審に思った群臣が尋ねると、荊軻は秦舞陽を見て微笑み、「北方の蛮夷の田舎者で天子にお目にかかったことがないため、震え慄いているのです」と取り繕った。
秦王政は秦舞陽が持つ地図を取るよう命じ、荊軻が差し出すと地図を開き始めたが、最後まで広げた所、そこには匕首が巻き込んであった[5]。荊軻は左手で秦王政の袖を掴み、右手で匕首を掴み取って突きかかったが、秦王政が驚いて身を引いて立ち上がった時に袖が破れたため、間一髪のところでかわされた。
秦王政は慌てふためいて腰の剣を抜こうとしたが、剣(鹿盧之剣)が長い上に堅く、すぐに抜剣することができなかった。群臣たちも思いもよらぬ事態に対応できず、完全に狼狽えていた。荊軻は秦王政を追い回し、秦王政は必死で柱の周りを逃げ回った。秦の法では殿上に侍る者は寸尺の武器も持つことができず、武器を持つ郎中はみな殿下に控えており、詔の召しがなければ上がることもできなかったため、群臣たちはなんとか素手で荊軻を取り押さえようとし、そのとき侍医の夏無且が薬箱を荊軻に投げつけた。荊軻がひるんだ隙に左右(側近)の者から「王よ、剣を背負われよ」と声が飛び、秦王政は剣を背中の方へ回して、背負うような形でやっと剣を抜くことができた。
荊軻は秦王政に左太腿を斬られて倒れ込み、匕首を秦王政に投じたものの、外れて柱に刺さった。秦王政はさらに荊軻を斬りつけ、荊軻は八つもの傷を負った。荊軻は失敗を悟り、柱にもたれて笑い、足を投げ出して座り込むと、「事が成らなかったのは、生け捕りにすることを望み、必ず約束の契約を得て、それを以って太子に報いたかったからだ」と罵って言った後、左右の者たちによって殺された。秦王政はしばらくのあいだ心が落ち着かなかったという。
その後、論功が行われ、群臣たちにはそれぞれ等級をつけて褒美を与えられた。中でも秦王政は「無且は私を愛してくれていた」と夏無且を讃え、金二百溢を下賜した。
その後
編集秦王政は激怒し、王翦に命じて燕を攻めさせ、燕・代の連合軍を易水の西で破り、翌年の紀元前226年には首都の薊を陥落させた。首謀者である丹もまた討ち取られ、あるいは捕虜にされ、あるいは代王嘉に勧められた燕王喜により講和の材料として殺された。燕は紀元前222年に秦に完全に滅ぼされた(燕攻略)。その翌年の紀元前221年に秦は天下を統一し、秦王政は皇帝の号を名乗った。
始皇帝によって荊軻の一族は七族[6]に至るまで根絶されたという。
高漸離は丹の食客と荊軻ゆかりの人々と共に放逐され、始皇帝への復讐を目論み、暗殺を実行したが失敗し処刑された。その後も張良など始皇帝暗殺を目論む者が出てきたが、結局誰も暗殺は成功しなかった。
評価
編集司馬遷は『史記』刺客列伝の末尾で、夏無且と付き合いのあった公孫弘や董仲舒からこの事の詳細を聞いたと述べ、その大義は成就しなかったものの「志は明らかであり、最後まで偽ることなく、その名は後世に伝わった。それがどうして虚しいことであろうか」と評している。
また、かつて六博のことで騒動となった魯句践は秦王政暗殺未遂の話を聞き、「彼が刺剣の術を修めていなかったのは、なんとも惜しいことだ。そしてそのような人物を叱り飛ばすとは私も人を見る目が無かった。さぞや私を憎んでいただろう」と嘆いたエピソードも記している。また詩人の陶潜は「詠荊軻」という詩の中で「すでに荊軻は死んだがその思いは残っている」と詠っている。
一方で、北宋の司馬光は、「荊軻は太子丹の私的に養われた立場から、(自分の)親族を顧みず、一尺八寸程度の匕首で燕を強くし秦を弱めようとした。なんと愚かなことだ」と述べ、さらに揚雄の「君子の道からすれば、荊軻は盗賊の輩にすぎない」などの評価を引用し、彼の行為を批判している(『資治通鑑』「秦紀二・始皇帝下」二十五年)。