荒川亀斎

島根県松江市横浜町出身の彫刻家

荒川 亀斎(あらかわ きさい、文政10年4月25日1827年5月20日[1] - 明治39年(1906年10月14日[2])は、島根県松江市横浜町出身[1]彫刻家である。名は明生[1]、通称は重之輔[1]。木彫りの彫刻等が有名であるが、機械器具の発明家でもある。

荒川亀斎作
出雲阿国

幼少期から彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家だった[1]。彫刻だけでなく、日本画国学書道金工などを幅広く身につけた[3]。1893年シカゴ万博に「稲田姫像」を出品して優等賞[3]、1900年パリ万博に「征韓図」を出品して銅牌を受賞した[3]。1890年小泉八雲と出会い[1]、その後も交流が長く続いた[3]。1906年死去。洞光寺に葬られた[1]

主な作品

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 八雲が愛した日本の美:彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲 The Japanese Aesthetic Hearn Loved: Sculptor Arakawa Kisai & Lafcadio Hearn”. www.hearn-museum-matsue.jp. 小泉八雲記念館. 2022年4月30日閲覧。
  2. ^ 『島根県画人伝』島根県美術協会、1935年、p.32。
  3. ^ a b c d 八雲が愛した日本の美:彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲”. 小泉八雲記念館. 2022年4月閲覧。 エラー: 閲覧日は年・月・日のすべてを記入してください。(説明