薛 懐義(せつ かいぎ、拼音: Xuē Huái yì、? - 695年[1])は、中国武周時代の僧。雍州鄠県の出身。本姓は、名は小宝[1]

略歴

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元来は洛陽で売薬を生業としていた。たまたま千金公主を通して武則天に知られるようになり、その寵愛を受けた。武后の奨めによって出家して僧となり、女婿の薛紹の族籍に編入したことから、薛氏を名乗るようになった。

垂拱年間(685年 - 688年)に洛陽の白馬寺寺主となった。武后の寵を受けた薛懐義の威勢は凄まじく、武氏一門の者でも媚びへつらったという。

688年(垂拱4年)、反対勢力を制圧した武后の栄誉を祝して巨大な明堂を建てた。また、武后を仏の転生であると説く「大雲経」を偽作し、全国の大雲経寺に頒布した。

その後、武后の寵が侍医の沈南璆に移ると、薛懐義は明堂に放火して抵抗の意志を表したが、侍御史の周矩によって誣告され、太平公主によって殺害された。

脚注

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  1. ^ a b 薛懐義」『改訂新版 世界大百科事典平凡社https://kotobank.jp/word/%E8%96%9B%E6%87%90%E7%BE%A9コトバンクより2025年6月14日閲覧 

外部リンク

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