藤原忠能
藤原 忠能(ふじわら の ただよし、嘉保元年(1094年) - 保元3年3月6日(1158年4月6日))は、平安時代後期の貴族。藤原北家中関白家、中納言・藤原経忠の長男。官位は正三位・参議。
経歴
編集白河院政期中期の康和5年(1103年)叙爵。少納言・右馬頭を経て、白河院政期末から鳥羽院政期初頭にかけて因幡権守・駿河守と地方官を務めた。
のち、左京大夫・内蔵頭・修理大夫と京官を歴任し、康治3年(1144年)従三位に叙せられて公卿に列した。公卿昇進後はしばらく修理大夫のみを帯びていたが、鳥羽院政期末の久寿3年(1156年)3月に参議に加えられる。同年7月に鳥羽法皇が没して保元の乱が発生したのちは、同年9月に大宰大弐、11月に皇太后宮大夫と次々に官職を得た。さらに、翌保元2年(1157年)には正三位に叙せられている。
官歴
編集注記のないものは『公卿補任』による。
- 康和5年(1103年) 正月6日:叙爵[1]
- 元永元年(1118年) 12月17日:見少納言[1]
- 保安2年(1121年) 6月26日:右馬頭(父譲)
- 大治元年(1126年) 2月17日:見因幡権守[2]
- 大治4年(1129年) 2月17日:駿河守、見正四位下[3][4]
- 長承2年(1133年) 7月13日:見駿河守[4]
- 保延2年(1136年) 11月4日:左京大夫
- 永治元年(1141年) 4月8日:内蔵頭
- 時期不詳:兼修理大夫
- 康治3年(1144年) 正月5日:従三位(朝覲行幸賞、院分、別当)、元内蔵頭、修理大夫如元
- 久安2年(1146年) 7月23日:服解(母)
- 久寿3年(1156年) 3月6日:参議、大夫如元。9月17日:兼大宰大弐。11月28日:兼皇太后宮大夫(皇太后・藤原多子)
- 保元2年(1157年) 10月22日:正三位(造宮大夫賞)
- 保元3年(1158年) 3月5日:出家(参議正三位兼修理大夫皇太后宮大夫大宰大弐)。3月6日:薨去
系譜
編集『尊卑分脈』による。