西園寺実輔

江戸時代前期の公卿。正三位・中宮権大夫・権中納言。西園寺家26代。鷹司房輔の次男。

西園寺 実輔(さいおんじ さねすけ)は、江戸時代前期の公卿関白鷹司房輔の子。官位正三位中宮権大夫権中納言

 
西園寺実輔
時代 江戸時代前期
生誕 寛文元年5月18日1661年6月14日
死没 貞享2年1月5日1685年2月8日
改名 兼敦→実輔[1]→春隆(法名)[2]
別名 円応院
官位 正三位中宮権大夫権中納言
主君 霊元天皇
氏族 鷹司家西園寺家
父母 父:鷹司房輔
母:大江竹子(毛利秀就の次女)
養父:西園寺公遂
兄弟 鷹司兼熙実輔鷹司輔信、房演、信覚、日顕、隆尊、一条兼香
安姫(西園寺公宣の娘)
致季
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経歴

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当主の死去により西園寺家に相続人がいなくなっていたため、実輔が鷹司家から西園寺公宣娘の婿養子になり、西園寺家を相続した。

天和元年(1681年)に権中納言となり、天和3年(1683年)に霊元天皇の中宮鷹司房子の中宮権大夫に就任しているが、貞享2年(1685年)1月、にわかに発狂し、妻を刺し殺し、御傍の女房四五人を負傷させたのち自害した[3]。25歳。

系譜

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脚注

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  1. ^ 天和2年11月30日、改名。
  2. ^ 『西園寺家譜』実輔条。
  3. ^ 『兼輝公記』同月5日条、『基熙公記』同月2日条。