貴族団長(きぞくだんちょう、ロシア語: Предводитель дворянства)は、ロシア帝国において、県(グベールニヤ)ないし郡(ウエズド)の貴族から選出された、帝国政府への代表者である。貴族団長は、貴族集会ロシア語版を主宰した。この役職は1917年に廃止された。

ヴォルィーニ県の貴族団長と貴族たちがイグナツィ・ドブジンスキロシア語版に発行した貴族特許状。

歴史

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貴族団長の役職は、1785年にロシア女帝エカチェリーナ2世が発布した『ロシア貴族の権利、自由および特権に関する憲章』によって創設された[1]

貴族団の自治は、貴族団長の制度を含め、エカチェリーナ2世の時代に誕生した[2]。貴族団長が初めて言及されたのは1766年である。その後、貴族団長は1775年の『県制度』によって常設の役職(任期2年の選挙制)として制定された。そして、1785年の『ロシア貴族の権利、自由および特権に関する憲章』の発布によって、その地位が確固たるものとなった。

貴族団長の地位は、ニコライ1世の治世末期まで厳密に規定されていた。しかし、大改革の時代以降、国家機構が複雑化するにつれて、貴族団長の職務は全国的な規模で組み込まれていった[3]

職務

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各県の貴族は、貴族団ロシア語版を形成することになっていた。貴族団は、選挙で選ばれた貴族団長を長として、貴族集会ロシア語版によって運営された[4]

郡の貴族団長

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各郡(ウエズド)にも、郡の貴族団長が存在した。郡の貴族団長は、県の貴族集会における郡部会よって3年の任期で選出され、県知事の承認が必要であった。この役職は無給であった。郡の貴族団長は、郡ゼムストヴォ会議(1864年以降)、郡教育委員会、郡軍事徴兵委員会、郡会[5]、その他多数の地方組織の議長も務めた。郡の貴族団長は、貴族階級としての自身の職務を果たすことに加え、国家的な活動にも積極的に関与した。

ロシア帝国の法律では、郡レベルでの統一的な行政は規定していなかったが、郡の貴族団長は郡のあらゆる機関を率いていたため、事実上の郡の長として機能した。

県の貴族団長

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各県(グベールニヤ)の貴族団長は、貴族集会によって選出され、皇帝によって承認された。県の貴族団長は、県ゼムストヴォ会議(1864年以降)を主宰した。県の貴族団長は、地方貴族の統治および地方行政(治安判事、教育、軍事徴兵などの評議会)と地方事業の資金調達を担当した。

貴族団長は、帝国議会(ドゥーマ)選挙のための多数の選挙集会や会議の議長も務めた。

県の貴族団長の役職は、名誉職かつ無給であり、伝統的に地方貴族に属する地主が務め、常勤職ではなかった。法律により、県の貴族団長は誰の許可も必要なく最長4か月の休暇を取ることができた。ただし、知事に連絡方法を知らせる義務があった。郡の貴族団長とは異なり、県の貴族団長が主宰する会議は少なく、地方行政の主要事項については主要委員会で1票しか投票権を持っていなかった。このため、県の貴族団長の地位は、より専門的で地域に根ざした役職である郡の貴族団長に比べ、名ばかりの名誉職であった。

県の貴族団長は、秘書1名と事務職員2名からなる、小規模な常設事務所を有した[note 1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 法律では、公務員権を持つ職員は2名までしか認められていなかった。貴族団長は裁量で追加の職員を雇用することができたものの、その職員は文民でなければならなかった。

出典

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  1. ^ 武田, 元有 (1 December 2008), “エカチェリーナ二世時代におけるロシア黒海貿易と南下政策 : 1787年仏露通商条約の経済的・政治的意義”, 鳥取大学教育センター紀要, 鳥取大学教育センター, 5: 38–39, ISSN 1349-9076, NCID AA12371402, 2025年9月15日閲覧{{citation2}}: CS1メンテナンス: dateとyear (カテゴリ)
  2. ^ ロシア帝国」 - ジャパンナレッジ
  3. ^ Дворянство // Dictionnaire encyclopédique Brockhaus et Efron : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890-1907.
  4. ^ Дворянский служебник. Предводители Дворянства всех наместничеств, губерний, областей, уездов и округов Российской Империи. 1767–1917 гг.
  5. ^ 堀込, 純一, ロシア法文化と二つのソビエト憲法, 2025年9月15日閲覧

関連図書

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