足利義稙

室町幕府の第10代将軍
足利義尹から転送)

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府の第10代征夷大将軍[14]。初名は、義材(よしき)。のちに、義尹(よしただ)、義稙と改名している。

 
足利 義稙 / 足利 義材 / 足利 義尹
足利義稙像(東京国立博物館蔵)
時代 室町時代中期 - 後期(戦国時代前期)
生誕 文正元年7月30日1466年9月9日
死没 大永3年4月9日1523年5月23日
改名 義材(初名)→義尹→義稙
別名 流れ公方[1]、島(嶋)公方[1]、島(嶋)御所、淡路御所[2][3]、阿州公方[2]、筑紫之御所[4]、九州大樹[5]、證善院殿[6]、今出川殿[7]、今出川御所[6]
戒名 恵林院殿道舜巌山大居士[8]、恵林院殿巌山道舜大禅定門、慧林院殿嘩山道凞[9]
墓所 西光寺
官位 従五位下正五位下左馬頭征夷大将軍従四位下右近衛中将参議従三位権大納言従二位
従一位左大臣→贈太政大臣[10]
幕府 室町幕府 第10代将軍 (1回目:延徳2年(1490年) - 明応3年(1493年)、2回目:永正5年(1508年) - 大永元年(1522年))
氏族 足利氏足利将軍家
父母 父:足利義視、母:日野良子日野重政の娘)
猶父:足利義尚[11]
兄弟 義稙維山周嘉了玄義忠祝渓聖寿[12]
正室:なし[13]
側室:茶阿局(山名豊重の娘)[13]
実子:なし[13]
養子:義維
猶子: 義堯九条政基息、三宝院門跡)、義晴?[7]
花押 足利義稙の花押
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父は室町幕府の第8代将軍・足利義政の弟で、兄の養子として一時継嗣に擬せられた足利義視。母は日野重政(裏松重政)の娘・日野良子日野勝光日野富子の妹)。

将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日1490年7月22日)から明応3年12月27日1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日1508年7月28日)から大永元年12月25日1522年1月22日)まで在職した。

略歴

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文明9年(1477年)、応仁の乱終結後、西軍側であった父の足利義視に従って京都を出て、美濃に下向した。

長享3年(1489年)、従兄で9代将軍の足利義尚が早世したため、後継者として上洛し、その父で8代将軍の足利義政の死後、第10代将軍に就任した。

就任後、管領細川政元と対立するようになり、明応2年(1493年)に将軍職を廃され、幽閉された(明応の政変)。だが、義稙は京都から脱出し、越中、ついで越前へ逃れ、畠山尚順らの助力を得て、復帰をめざした。

政元の横死後、周防大内義興の支援を得て、永正5年(1508年)に京都に帰還した。そして、11代将軍の足利義澄に代わる形で、将軍職に復帰した。復帰後、細川高国らを支柱とし、義澄や彼を擁する細川澄元に対抗した。

しかし、大内義興が周防に帰国すると、高国と対立し、大永元年(1521年)に京都から淡路に出奔した。その結果、高国が新たに擁立した12代将軍の足利義晴に将軍職を奪われた。

義稙はあきらめず、細川晴元三好元長を頼って阿波に赴くも、大永3年(1523年)に同地で死去した。

なお、義稙は自身の名を、越中亡命中の明応7年(1498年)に義材から義尹へ、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義尹から義稙へとそれぞれ改名している。

生涯

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美濃での生活

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足利義視

文正元年(1466年)7月30日、足利義視の嫡子(長子)として、父の近習・種村氏種村弁清か)の邸宅で誕生した[15][16]。母は日野(裏松)重政の娘・良子 [17][15]。幼名は不詳(以後、義材と表記)[18]

応仁元年(1467年)5月、応仁の乱が勃発すると、義材の父・義視は東軍総大将として擁立された[19]。だが、義視は兄である将軍の足利義政と対立して、応仁2年(1467年)9月には東陣から近江比叡山延暦寺に出奔し、ついで西軍に身を投じた[20][21]。この時、東軍の武田信賢が義材を護り、西軍に送り届けたという[22]

文明5年(1473年)12月、義政が将軍職を辞し、その嫡子・足利義尚が9代将軍となった[23][24]

文明9年(1477年)11月、応仁の乱が終結すると、同月に義材は義視や西軍の一角であった土岐成頼らと共に、その領国である美濃に下向した[23][25]。そして、土岐氏の重臣・斎藤妙椿から手厚い庇護を受け[26]、土岐氏の居城であり、妙椿の居館もあったとされる川手城(革手城)近くの茜部に落ち着き、承隆寺という禅寺を住居とした[27]。妙椿は主家の土岐氏に匹敵する力を持ち、京都の公家からは「無双福貴、権威の者なり」と評されており、義材らを庇護することで更なる権威を手に入れようとしたと考えられる[28]

文明10年(1478年)8月、義視が大御所となった義政に使者を送り、贈り物を献じると、義政もこれに返礼し、正式に和解した[29][30][16]。だが、両者が形式上完全に和解したのちも、義材と義視は京都に戻らず、美濃に留まり続けた[30]

文明19年(長享元年、1487年)1月2日、義材は美濃において元服した[31][32]。なお、義材はこの元服に際し、義尚の猶子となった[32]

8月29日、義材は義尚の母・日野富子(義材の母方の伯母でもある)らの推挙で美濃在国のまま、朝廷から従五位下左馬頭に叙位された[31][32]。義材の任官は、表向きは義尚が朝廷に推薦したことになっているが、朝廷の官吏らはその任官の公文書を富子に渡していることから、富子がその任官を取り計らったと考えられている[33]

また、義尚が翌9月から六角氏に対する征討(第一次六角征伐)を開始しており、土岐氏は応仁の乱の際に六角氏と同じ西軍に属していたことで、両氏が密接な関係にあったことを幕府に警戒されていた[34]。そのため、義材の叙位は、土岐氏が幕府に反旗を翻した場合、義視・義材父子が関与しないように懐柔するためだったと考えられている[34]

美濃からの帰還・将軍後継者として

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足利義尚

長享元年9月、義尚は多くの大名とともに京都から近江へ進軍し、六角勢を近江の山中に追い払った。だが、遠征の目的が達せられたにもかかわらず、京都に戻らず近江にとどまり、酒色におぼれた結果、延徳元年(1489年)3月には重病に陥った[35][36]

義尚の近臣らは義尚を養生のために京都へ帰還させることを考え、そのために美濃に在国中の義材か義視のどちらかに仮の総大将を任せようと考えた[35]。義視父子も義材が仮の総大将となれば、義材の将軍後継者としての地位がより確立されると考え、これに応じた[35]。そして、義材は義尚の猶子として、近江の鈎に出陣することになった[37]

ところが、義材と義視が美濃から近江に出立しようとしていた矢先、3月26日に義尚が死去した[35]。このとき、義尚には男子がおらず、後継者と考えられたのは左馬頭に任じられていた義材、もう一人は義視の兄である堀越公方足利政知の次男(義尚と義材の従兄弟)で、天龍寺香厳院主として在京していた清晃(後の足利義澄)であった[38]。義材が将軍位を継承すれば、義視の政治的復権が確実となるため、これを警戒する細川政元が清晃を支持していた[37]

在京している清晃の方が将軍に擁立される可能性があったため、義材と義視はすぐさま美濃を出立し、京都へと向かった[39]。なお、両者の上洛の表向きの理由は、義材が義尚の焼香のため、義視は出家の暇乞いのためであった[37]。このとき、上洛の手配をしたのが富子であり、義政はそれを知らなかったらしい[40]

4月14日、義材と義視は入洛し、義材の妹(義視の娘)・祝渓聖寿のいる京都三条の通玄寺に入った[39]。義材にとって、およそ12年ぶりの京都であった[39]。なお、義材と義視が居住した通玄寺は三条通りに面していたため、三条御所と呼ばれるようになった[41]

4月19日、義材は伯母の富子に招かれ、その邸宅である小川御所(小川第)に居住したが、ここは義尚がかつて将軍御所として居住した場所であり、これは富子が次期将軍として義材を支持していることを意味していた[42][39]。一方、政元が清晃を支持したという風聞も流れていたが、政元にこのとき大きな動きはなかった[39]。将軍位に関しては、富子を味方につけた義材が優勢な状況であった[39]。なお、義材が小川第に居住したのは一時期のみで、再び三条御所に戻り、義視と暮らしている[41]

だがここにきて、同日に義政が義尚亡き後の政務は、自分が執り行うことを宣言した[39][40]。また、義政は朝廷に願い、後土御門天皇から「義持の例をはじめ、摂関家や将軍家でも隠居の身でも執政しているので、義政が政務を執り行うことは問題ない」との勅語まで出させた[43]。結局、義尚の没後、義政が政務を執ることになった[44]

4月27日、義視が義政の強い態度を受けてか、三条御所で出家した[40]。だが、この出家は同月13日の段階で決まっており、次期将軍が義視ではなく、義材であることを世間に示す意図もあったようである[40]

8月、義政は卒中で倒れたのち、回復したものの右手が不自由な状態になり、花押も書けなくなったが、それでも義視と義材には政権を譲ろうとしなかった[44]

10月、義政はまたしても卒中で倒れたが、ここでも回復し、政務をとり続けた[45]。また、同月21日には義材と義視が見舞いに赴き、上洛以来半年間許されてこなかった義政への面会を許可されている[46]

延徳2年(1490年)1月7日、義政がついに病死した[47]。義政が死去した当日、義材は一部の奉公衆から参列を受けたほか、義政が入棺した13日には後土御門天皇が「参賀すべき」との勅命を下したことで、公家らが義材や義視への参礼の日取りを談合している[48]。以後、義材は「室町殿」と呼ばれるようになった[48]

結局、義政は死ぬまで義視父子に権力の座を譲ろうとはしなかった[46]。その背景には、義政と義視の間にはなおも確執があり、応仁の乱以後も両者の蟠りを解消できなかったことが指摘されている[49]

将軍就任・第一次政権の開始

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義政の死後、義視と富子の提携により、義材が足利将軍家の家督を継承するようにすすめられた[50]。他方、清晃を将軍に推す声もあったが、まだ幼く、こちらはあまり京都で支持者を集められず、加えてその実家は京都から遠く離れた伊豆にあった[50]。だがその後、義視は富子と折り合いが悪くなり、次第に対立するようになった[51]

延徳2年4月27日、伊勢貞宗が政所頭人を辞任し、息子の貞陸にその地位を譲った[52]。貞宗は前将軍の義尚が幼少時から側近として仕えて養育に尽くし、富子の信任が厚かったが、その父・伊勢貞親文正の政変の際に義尚のために義視殺害を義政に進言して失脚しており[53]、義材の将軍就任後に後難を恐れたためといわれている。

4月28日、義材は富子から足利将軍家の重宝である甲冑「御小袖」を譲り受けたが、その前日の27日に富子が清晃に対し、かつて義尚が居住していた小川御所を譲ることを決めた[54][55]。富子が清晃のために小川御所を譲渡しようとした背景には、いきなり権力の座に就いた義材や義視が暴走しないように牽制する意図があったとされる[54]。だが、富子が政元と共に清晃を次期将軍に立てるとの噂が流れたこともあり、義視は義材を軽視するものと激怒して、5月18日に小川御所を破却し、富子の所領も差し押さえてしまった[54][56]

7月5日、義材は朝廷から征夷大将軍に任じられ、10代将軍に就任した[52][57]。その任官の際には、細川政元の邸宅が一時的な将軍御所とされ、ここで任官の公文書を受け取り、政元や将軍直臣からの拝賀を受けた[52]。また、同日に判始など代始の儀式も行われた[58]

8月28日、義材は清晃と対面した(『政覚大僧正記』延徳2年閏8月9日条)[59]。これは両者の和睦とされ[57]、政元や彼の意を受けた葦洲等縁の奔走によるものであった[60]

義視の死

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義材が朝廷から正式に将軍に任命され、義視も准三宮の地位を与えられると、しばらくは父子による二頭体制が続くかと思われた。また、義政と義尚が父子で激しく対立していたのと対照的に、義材は義視と良好な関係にあった[61]。義視はかつて大乱中に西軍諸将を率い、政治経験を積んできた存在であり、彼の存在は政治経験のない義材にとってかなり頼もしいものであった[57][62]。だが、その状況も長くは続かなかった。

延徳2年10月、義視が腫物を患って体調を崩し、病床に就いた[57][61]。義材は義視が倒れるとひどく狼狽し、義視が安眠できるよう三条御所内で音を出すことを厳禁とし、義材自身も義視の居室近くでは縁側を歩かず庭を歩くほどであった[61]。義材の徹底ぶりは尋常ではなく、下の者が御所内で音を出せば激怒し、義視にたしなめされるほどであったという[61]

しかし、その甲斐も虚しく、義視の病状は一向に快方に向かわなかった[61]。そのため、義材は苛立ち、義視の主治医を次々に交代し、名医という噂を聞けば、怪しげな藪医者ですら治療にあたらせたという[61]

延徳3年(1491年)1月7日、義視が死去し、義材は大きな後ろ盾を失った[57][62]。義材が将軍家を相続してから一年後の出来事であり、その死が与えた影響は大きかった[62]。義材は義視の葬儀を義政と同様にするよう命じ、2月24日には義視に朝廷から従一位太政大臣が追贈されるなど、義政と同格に扱われた[63]

義視の死により、義材は自身の政治的立場を固めるため何らかの方策を考えざるを得なかったが、伯母の富子との関係は悪化しており、その協力を得られる見込みもなかった[62]。そのため、義材が近臣たちと相談のうえで出した結論が、有力な大名を討伐し、権威を高めることであった[62]

六角征伐・河内征伐

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細川政元

延徳3年4月21日、義材は近江の六角高頼討伐の号令を発し、軍事的強化を図った[64][65]。この第二次六角征伐は、義材自らが出陣することを発表し、細川政元や細川一門をはじめ、畠山氏斯波氏赤松氏大内氏など多くの大名が義材のもとに馳せ参じた[64]。このとき、大乱以降領国に下っていた多くの大名が京都に上がり、参陣の命令を受けていない者まで参陣したほどであった[66]

一方、義材は寺院である三条御所から出陣するのを不吉と考えたのか、阿波細川氏の当主・細川義春の一条油小路の邸宅に移り、ここで出陣の準備をした[66]。以後、義材が新たな住居としたこの邸宅は、一条御所と呼ばれるようになった[66]

8月22日、義材は朝廷から治罰の綸旨錦の御旗を得て、高頼を朝敵として対峙するという体裁を得た[67]。これは義尚の時にはなかったことであり、義材が自身の正統性に不安を感じたため、大名の協力を得やすくするために行ったとみられる[68]

8月27日、義材は大軍を率いて京都から出陣し、近江へと向かい、大津の園城寺(三井寺)光浄院を本陣とした[69]。そして、義材は圧倒的な武力で高頼を甲賀へ、さらに伊勢へと追い払い、この征伐は成功裡に終わった[70][71]

明応元年(1492年)11月18日、義材は1年半に及んだ六角征伐の成果に満足し、金剛寺の本堂に大名らを集めて凱歌をあげ、六角征伐の戦後処理を行うと、12月14日に京都に凱旋した[71][72]。諸大名もこれに従い、入京した[73]。戦後、政元がこの征伐に反対したことや[74]、征伐中に政元の家臣・安富元家が六角軍に大敗したことから、義材は政元への依存を減らすため、以後はほかの大名を頼るようになった[75]

明応2年(1493年)正月、義材は帰京してすぐ、河内畠山基家(義豊)を討伐するために号令を発し、再び大名たちへ出兵を要請した[76]。これは前管領・畠山政長が敵対する基家の討伐のため、義材に河内への親征を要請したことに起因するものであった[76]。畠山氏は応仁の乱終結後も分裂状態が続き、この当時は政長と基家で二分されていたため、政長が義材に自身のもとで再統一することを願い、義材はそれを聞き入れた[76]

2月15日、義材は大名らの軍勢を率いて、京都から河内に向けて出陣した[76]。この時もまた、畠山政長や細川一門、斯波氏、大内氏、赤松氏など、六角征伐の際と同じく多数の大名が参陣した[76]。同時の史料には、「雲霞の如き」大軍であったと記されている[76]

2月24日、義材は河内の正覚寺に入って本陣とし、自ら最前線に立った[76]。大名らもまた、畠山基家が籠城している高屋城周辺に陣を敷き、城を包囲した[76]。そのため、基家方の小城は次々に陥落し、3月の段階で基家は孤立を余儀なくされ、義材や政長の勝利は目前となった[76]

だが、政元は畠山氏の再統一が自身の不利益になることから、この遠征に反対し、参加していなかった。そして、政元は畠山氏の再統一を避けるため、政長の宿敵たる基家と結託した。すでに政元は河内征伐の開始直前までに基家の家臣と接触しており、大乗院門跡の尋尊の記録では基家の重臣が河内征伐の直前、「将軍が攻めてきてもこちらは何ら問題はない。なぜならば、伊勢貞宗以下、大名らとはすでに話がついているからだ」と豪語していたと記している(『大乗院寺社雑事記』明応2年2月23日条)[77]。政元は義材に不満を抱き始めた伊勢貞宗をはじめ、赤松政則といった大名、そして富子までを味方に引き入れ、叛乱計画を着々と練っていた。

明応の政変と幽閉

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足利義澄

明応2年4月22日夜、細川政元は富子や伊勢貞宗の協力を得て、ついに決起した[78][57]。政元は清晃をすぐ遊初軒に迎え入れて保護し、義材の関係者邸宅へと兵を向けた[78]。その兵によって、23日には義材の関係者邸宅のみならず、義材の弟や妹が入寺する三宝院曇華院慈照寺などが襲撃・破壊された[78]。これを明応の政変と呼ぶ[79]

同日、政元は義材を廃して清晃を新将軍に擁立すること、畠山政長を河内守護職から解任すること、畠山基家の赦免を公表し、事態を収めようとした[80][81]。そして、4月28日に政元は清晃を還俗させて義遐(よしとお)と名乗らせ、11代将軍として擁立した[78][注釈 1]。義遐はのちに名を義高、義澄と改めている(以下、義澄で統一)。

この報を聞いた義材や諸大名、奉公衆・奉行衆ら将軍直臣は激しく動揺した。その上、伊勢貞宗から義材に同行する大名や奉公衆ら将軍直臣に対して、新将軍に従うようにとする内容の「謀書」[83]が送られると、大名や将軍直臣は27日までにほとんどが河内から京都に帰還してしまった[84][85]。その後、直臣は京都の義澄のもとへと参集し、大名も畠山政長を除いて義材を支援した者はいなかった[86]

他方、4月23日に朝廷は政元から政変の報告を受けた際[87]後土御門天皇が自分の任じた将軍が廃されるという事態に激怒するとともに、勝仁親王(後の後柏原天皇)も成人したので譲位をしたいと述べた。だが、廷臣らがこれに反対したため、天皇も譲位を思いと留まっている[注釈 2]

閏4月7日、政元は上原元秀、安富元家からなる軍勢を京都から河内へと派遣した[89][90]。義材は細川軍に追い詰められ、正覚寺に籠城したが、徹底抗戦の構えを崩さず、100余りの櫓を立て、一番高い櫓に義材の御座所を置くなど、寺を要塞化した(正覚寺城)[91]。また、義材には政長の軍勢8千もおり、その軍勢は意気盛んであった[79][91]

やがて、同月中旬に政長の領国の一つ・紀伊より、根来衆など数千から1万ともいわれる大軍が正覚寺城に向けて出発した[92][89]。だが、紀州勢はで政元に味方した赤松政則による足止めをくらい、閏4月21日に数時間に及ぶ戦いの末、赤松勢に打ち破られた[89][93]。紀州勢が勝利すれば、政変そのものを覆せる可能性もあったが[92]、その望みが消え去り、すでに正覚寺城の食料も尽きかけていたこともあって、義材と政長はこの知らせに大いに絶望した[94]

閏4月24日、細川軍が正覚寺城に総攻撃を開始し、25日朝に城は陥落した[95][81]。政長は嫡子の畠山尚順を逃したのち、河内守護代の遊佐長直などの重臣らとともに自害し果てた[95][81]。政長の自害後、同日に義材とその側近らは、足利将軍家伝来の御小袖と御剣を携えて、上原元秀の陣に投降した[95][注釈 3]。降伏後、義材は細川方によって、その身柄を近くの四天王寺に移された[95]

閏4月29日、義材の側近である公家の葉室光忠が、政元の命を受けた上原元秀によって殺害された[96]。光忠は父の義視以来の側近で、義材からも重用され、明応2年にはその奏請によって上首18人(現任8人、前官10人)を超越して権大納言に任じられるなど[96]、一時的ではあるが摂家・寺院・管領などを凌ぐ権勢を握っていた。政元でさえ光忠の申次を通さずには義材に具申できない有様であり[97]、政元にとっては政長同様に排除すべき存在でもあった。京都の葉室邸もまた、政元の挙兵時に破却されている[78]

5月2日、義材は大群衆による見物の中、京都に連れ戻され、北山龍安寺に幽閉された[95]。この時、義材は古い板輿に乗せられ、6人の近臣を供にすることしか許されなかった[89][95]

5月6日夜、義材が夕食に毒を盛られ、苦悶の末に薬によって一命をとりとめるという事件が起きた[98]。細川方による義材の食事係の取り調べにより、そのうちの一人が「毒は富子から渡された」と言ったとされる[98]。この頃、義材が毒殺されたという噂が京都で広まっていたことから、義材の毒殺未遂事件は実際の出来事であったと考えられる[99]

5月18日、義材は龍安寺から政元の家臣・上原元秀の邸宅に身柄を移され、ここに幽閉された[98]。龍安寺での幽閉は、上原邸に義材の幽閉部屋ができるまでの一時的なものであったとみられる[98]。ただし、義材が讃岐小豆島に流されるという噂が流れていることから、この上原邸での幽閉もまた一時的な措置であったようである[100]。なお、上原邸での食事は先の毒殺未遂事件を受けて、 義材の同朋衆である木阿弥とその息子が世話している[98]

越中・越前への下向

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神保長誠

明応2年6月29日夜、義材はひどい嵐の中、数人の近臣を連れ、幽閉されていた上原元秀の邸宅から脱出した[100]。義材は京都を脱出すると、近江を経由して、畠山氏の領国の一つでもある北陸の越中に下向した[101][102]。そして、故畠山政長の家臣で越中の有力者でもある、越中守護代神保長誠に迎えられ、放生津の正光寺に落ち着いた[103][104][105]。そのため、義材は越中公方(越中御所)と呼ばれた[104]

越中は畠山尚順(かつては父の政長)が守護を務めており、義材はすぐさまこの地より活動を開始し、北国のみならず、全国の大名に支持を呼び掛けた[104]。 義材が檄を飛ばすと、能登畠山氏、越前朝倉氏、越後上杉氏、加賀富樫氏などの北陸の大名が参列して忠誠を誓い、九州の大友氏をはじめとする遠国の大名も協力の意思を示した[103]。これにより、足利将軍家は2つに分裂し、義材にとってはその生涯にわたる戦いが開始された[106][107]

9月上旬、義材派の越中勢が細川政元の派遣した軍勢を迎撃し、大いに勝利した[108]。これにより、越中とその周辺は完全に義稙が掌握し、当時の史料(『大乗院寺社雑事記』明応2年10月2日条)には「皆以て上意(義材の意向)に従う」と記されるほどになった[109]

明応3年(1494年)9月21日、義材は神保氏の館である放生津城に移ると、旗揚げの儀式を行い、正式に義澄と政元打倒の宣言を行った[110]。こうした情勢により、京都では同年の正月頃から「義材が九州の諸大名を率いて上洛する」「政元が義材の帰京を認めた」「畠山政長が実は生きている」などといった怪情報が流れ始めた[109]。また、京都の公家の中にはこれらの情報に恐怖し、義材に通じる者も出始めた[109]

だが、明応4年(1495年)、明応5年(1496年)と時が過ぎても、義材は北陸で一定の権威を保ちつつも、京都の義澄や政元に対して決定打を出せず、状況は膠着したままであった[111]。義材が越中に下向した際、北陸の大名らはこぞって協力を約束したものの、畿内最大の勢力をもつ政元との全面対決に及んでまで支援するつもりはなかった[112]。これは、義材が当時は最高の貴人であったため、北陸の大名らは「礼」に従い、使者や書状を送って挨拶したに過ぎなかったと考えられる[112]

これにより、義材の陣営では今後の路線を巡り、近臣や越中の有力者らの間で2つの案が出るようになった[113]。一つは、周防を本国とする大内氏の当主・大内義興の助力を得て政元を討伐し、京都の奪還を目指す案で、種村視久ら一部の近臣が主張した[113]。もう一つは、政元と和解し、帰京を果たすべきという案で、吉見義隆ら多くの近臣のみならず、神保長誠ら越中の有力者もこれを支持した[113]

大内氏は応仁の乱の際、西軍の主力を成したほか、義興の父・大内政弘が義材の父・義視に最後まで忠誠を誓っており、義材との関係も強かった[114]。だが、当時の大内氏は菩提寺の興隆寺の焼失や内紛による重臣らの横死、加えて義興を後見してきた前当主の政弘が死去するなど、とても出兵できる状況ではなかったため、政元との和平案が注目されるようになった[115]

和平案が主流となった理由として、義材に従ってきた人々の多くは、越中に滞在する期間が長くなり、焦りを募らせるようになったからと考えられる[116]。また、神保長誠ら越中の人々も大内氏に自身の手柄が取られること嫌い、和平案に賛成したと考えられる[116]。そのため、義材はこの和平案の実行を命じ、明応6年(1497年)夏ごろより和平交渉が開始されると、長誠がその中心を担った[117]

明応6年(1497年)6月末、神保長誠の家臣・倉川(鞍川)兵庫助が越中より上洛し、7月14日には政元の邸宅に赴くことに成功している[118]。倉川は長誠から交渉のため、数千貫もの巨額の工作費を渡されており、それを政元の重臣らにばらまいた結果であった[119]。その後、義材の近臣・吉見義隆も上洛し、和平交渉に参加している[118][120]

他方、種村視久はこの状況を快く思わず、家臣の杉川平左衛門を畿内に送り、和平工作の妨害を行った[118]。視久は政元の安易な和平は危険との考えであり、義材に安易な上洛をやめるよう同志と共に諫言し、さらには和平になれば「遁世する」とまで申し入れた[118]。だが、全体的には和平案の方が優勢であった[118]

明応7年(1498年)5月、和平案を推進する吉見義隆が政元によって京都に招かれると、義材の帰京を予測した公家らはこぞって義隆に贈り物をし、親交を結ぼうとした[118]。だが、細川一門の細川政賢が和平に反対したため、政元はこうした意見を聞き入れざるを得ず、7月の段階で和平交渉を断念した[121][122][123]

これを受け、義材も和平案を断念し、大内氏の助力による京都の奪還を目指すようになった[121]。とはいえ、義材が頼りにする大内氏もまた、同年後半より豊後の大友氏との戦いを始めていたことから、上洛はままならなかった[121]。義材は大内氏に代わる武力を調達する必要に迫られたが、神保氏に政元を討伐する武力はなかったため、越前の朝倉氏を頼ることにした[123][124]

8月、義材は改名し、義尹と名乗った[125][注釈 4]。越前に移るにあたり、改名によって心機一転を図ろうとしたと考えられる[125]

9月、義材は自ら朝倉氏を説得するべく、13人の近臣のみを連れて密かに越中を去り、一乗谷に赴いた[125][104]。義材が密かに越中を去ったのは、神保長誠らに引き取留められることを懸念したと考えられる[125]

同月、義尹は一乗谷の安波賀の在所に入ると、朝倉氏の当主・朝倉貞景によって含蔵寺に迎え入れられた[126]。だが、貞景は他の北陸大名と同じく、政元との全面対決には慎重で、義尹の協力要請をすぐに承諾しなかった[126]。義尹は越前ではあまり厚遇されず、10月には一乗谷から国府に移ったようである[126]。そのためか、かねてから連絡を取り合っていた大内氏の本国・周防に下向できないか模索している[127]

10月26日、義尹は政元との和平交渉に失敗した吉見義隆を自害させた[120]。義尹は義隆が細川方に内通したと疑ったとされる[121]

畠山尚順との連携・京都奪還の失敗

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大塩八幡宮

明応8年(1499年)2月、義尹に味方する畠山尚順が河内において、畠山基家を敗死させた[128]。尚順はそこから一気に河内・和泉・大和を制圧し、畿内南部に一大勢力を築いた[127]。尚順は天王寺に陣を置き、義尹と共闘して、京都の義澄や細川政元を南北から挟み撃ちにできる状況を作った[129]。これにより、義尹は近臣の木阿弥らを畿内に送って、尚順とやり取りを行い、上洛の準備を進めている[128]

京都では動揺が広がり、義尹や尚順が攻め込むことを恐れた人々が、家財を安全なところに隠そうとする有様であった[128]。そのため、7月に政元は家財の隠匿行為を禁止し、違反者は家財を没収すると布告せざるを得なかった[128]

同月、近江の比叡山延暦寺が義尹に味方し、義尹派の武士らと共に根本中堂などに籠った[128][130]。さらに、僧兵らが義尹の失脚に関わった伊勢貞宗の孫が住持を務める南円院という寺を破却したほか、直後には貞宗自身も討たれるという噂が流れたため、貞宗が政元に合力を求める有様だった[128]。これに対し、政元は京都から家臣の赤沢朝経(宗益)らを派遣し、延暦寺内にいた義尹派を悉く攻め滅ぼした(比叡山焼き討ち[130]。その際、義尹に内通していた者らの書状が寺内で発見され、その処分が問題になるなど、義澄方に内通者が続出していたことが判明している[131]

7月13日、義尹は大塩八幡宮で戦勝祈願を行い、20日に越前の府中を出陣し、今庄を経て、21日に敦賀に入った[132]。そして、政元と尚順の戦いを予測しつつ、緩やかに兵を進めた[132]。他方、尚順は義尹と連携し、政元を討つために活発な軍事活動をしながら兵を参集させ、尚順の領国である越中からも神保氏や椎名氏の兵が向かっている[132][133]

9月、細川方と尚順ら畠山方との間で、京都の南方において戦いが始まった[134]。戦況は一進一退で決着がつかず、政元は配下に命じて洛中に堀を造らせ、人々には京都から米や塩を持ち出すことを禁じた[134]。また、京都近郊では混乱に乗じた土一揆も発生し、細川方を苦しめた[134]。このとき、義尹が朝倉氏の軍勢を率い、尚順と京都の政元を南北から挟み撃ちにすれば、勝利は確実であった[135]

だが、朝倉氏は義尹のために出兵しなかった[135]。その理由として、明応8年は「天下飢饉におよぶ」「もってのほか、不熟」と記されるほど酷い飢饉の年であり、兵糧米の調達もままならなかった[136]。そのため、義尹は朝倉氏から京都への出兵延期を申し入れられていたが、これを拒否し、わずか500~600人の手勢のみで京都に向けて出陣せざるを得なくなった[137]

11月中旬、義尹は朝倉氏の軍勢もなく、京都に向けて進んだ[138][137]。このとき、義尹は越前から京都に直接向かわず、若狭に向かおうとするが、これは義澄陣営の若狭武田氏が「密かに義尹の方に心を寄せている」という噂が流れていたことを受けて、若狭の国人衆の協力を得るためであったと考えられる[139]。だが、これはうまくいかなかったため、義尹は敦賀でいったん体勢を立て直したのち、京都に向けて南下している[140]

11月16日、義尹は近江の坂本に到着し、ここに陣を張った[140][141]。このとき、義尹の軍勢は少数であったため、その行軍速度は非常に早く、また政元は尚順との戦いに注力していたため、義尹に対しては十分な警戒ができていなかった[140]。かくして、義尹が京都に迫ったことで、政元は義尹と尚順の両方を相手にせねばならず、危機的な状況に陥った[142][143]

11月21日、政元は義尹を討つべく、細川一門の細川政春高国父子を坂本に向かわせた[130][142][144]。義尹も細川勢が坂本に接近すると、黒革・白糸で装飾された美麗な鎧を纏い、迎え撃つ準備をした[144]。だが、細川勢との決戦を間近に控える中、六角高頼が坂本に接近しつつあった[145][146]

11月22日、義尹は六角勢に坂本を奇襲され、鎧を着る間もないほどに慌てて逃げざるを得ず、少数の義尹軍も壊滅状態に追いやられた[145][146]。義尹は六角勢の接近を把握しており、陸側から攻めてくることを想定していたが、琵琶湖を渡って攻められたことで虚を衝かれ、総崩れとなった[147]

義尹は延暦寺に逃げたが、比叡山を六角勢に包囲された[147]。結局、義尹は安全を確保できず、延暦寺を離れざるを得なかった[145][147]。政元は義尹に味方した者の首に賞金を懸け、義尹らの行方を探した[148]

義尹の敗北が伝わると、政元と対峙していた尚順は南北から挟撃する作戦が不可能になったと考え、12月には本拠である紀伊に引き上げた[145]。尚順もまた、同年の飢饉で兵糧が底をついていたと考えられる[145]

周防への下向

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大内義興

明応8年12月、義尹は周防に下向し、大内氏の当主である大内義興のもとに身を寄せた[123][148][101]。義尹が越前や越中に戻らなかったのは、北陸の諸将は頼りにならないと判断したからと考えられる[149]。また、かねてから大内氏と連絡を取り合っていたことも、周防下向の大きな要因となったと見られる[149][150]

義尹が周防のどこに滞在していたのかはあまりよくわかっていないが、府中国分寺や大内氏ゆかりの浄福寺にいたことが分っている[149]。以後、義尹は大内氏の庇護のもと、周防で8年間過ごした[149]

義尹の下向は大内氏から大いに喜ばれ、明応9年(1500年)3月には義興が山口の自邸(大内氏館)において、歓迎の宴を開いた[149]。また、義尹が府中に滞在している間、義興は重臣らを月ごとに派遣し、その警固にあたらせている[149]。義興は義尹を庇護することで、他大名との仲介役を手に入れたばかりか、自身の行動を義尹の上意として主張できるようになり、その正当性を確保した[151]。実際、義興は義尹の下向を「面目の至り」として、周辺の勢力に誇示している[114]

だが、義興は義尹を厚遇したものの、その帰京のために積極的に動くことはなかった[151]。京都の細川政元は畿内最大の勢力を誇り、その打倒は容易ではなく、加えて大内氏は豊後の大友氏の動きを警戒しなければならなかった[151]。大内氏が義尹を庇護すると、大友氏も義澄や政元に接近したため、大内氏は義尹を奉じて上洛した際に手薄になった領国を襲撃される可能性を危惧していた[151]

そのため、義尹は大内氏と大友氏の和平成立の調停を試みたほか[151]、安芸の毛利弘元、肥後の相良長毎や阿蘇惟長らに協力を求めた[152]。また、義尹は各地の大名や国人衆に協力を求めるべく、近臣らを派遣し、その一人である伊勢貞仍は、周防から石見出雲伯耆因幡但馬丹後と山陰地方を巡回して、義尹への支援を呼びかけた[153][150][注釈 5]。義尹に協力する姿勢を見せた者もいたが、安芸の毛利氏のように義尹と義澄の両者に協力を申し出るなど、双方に誼を通じる者もいた[154][155]

一方、義澄もこの義尹の動きに対して、義興と対立する大友氏や、肥前少弐氏に協力を呼び掛けたほか、文亀元年(1501年)5月には朝廷から治罰の綸旨を獲得し、義興を朝敵としている[114][155]。義尹は朝敵とはならなかったものの、この時点でそれまで保持していた官職を解官されたとする見方もある[114]

明応9年9月、義尹に味方する尚順ら畠山方が、政元との戦いで再び大敗させられると、京都では次第に安心感が広がった[156]。義尹は北陸よりさらに遠い周防に下向し、上洛する気配をみせなかったことで、徐々にその存在を人々から忘れ去られていった[157]。京都の公家らの日記を見ても、義尹が北陸にいたころは脅威とする記事がしばしば見られたが、周防に去った後はそうした記事も見られなくなった[157]

他方、義澄は義尹の脅威から解放されると、自ら政務を行おうとしたため、政元と激しく対立するようになった[158][159]。両者の対立の過程で、文亀2年(1502年)8月に義澄は政元に義尹の弟・義忠の殺害を要求し、これを実行させている[160][161]。この当時、幕臣や公家の中に義尹と内通する者が相次いでおり、義澄は義尹の親族の扱いにかなり神経質になっていた[160]。義澄はまた、政元が義忠を新将軍として擁立し、義尹と和睦したのち、自身を追放するのではないかと疑っていたと考えられる[162]

永正元年(1504年)9月、摂津守護代の薬師寺元一らが政元に反乱を起こすも、政元によって同月中に鎮圧された[163]。このとき、元一と連携していた尚順が紀伊から和泉に攻め込んだが、彼らの援軍には間に合わなかった[163]

永正2年(1505年)末、尚順が畿内で孤軍奮闘しつつも、その勢力を盛り返した[164]。義尹はこれを知ると、義興と共に山口から府中まで兵を進めた[164]。だが、京都では義澄と政元の対立が続いていたものの、畿内では政元を中心に細川一門が依然として団結しており、この時の義尹の上洛は見送られた[164]

義尹は周防在国中、京都奪還の意欲を失わず、畿内の情勢をにらみながらもその機会をうかがっていた[164]。だが、政元の力は強大であり、上洛の機会は訪れず、時間のみが虚しく過ぎ去っていった[164]

細川氏の混乱・京都奪還

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細川澄元

永正4年(1507年)6月23日夜、細川政元が香西元長薬師寺長忠ら家臣の反逆によって、突如として殺害されるに至った[165][166]

政元は後継者となる男子をもうけず、細川高国、細川澄之細川澄元の3人を養子としていた[165][167][168]。このうち、政元は澄元を後継者としたが、彼の出身である阿波細川氏の家臣・三好之長が台頭したため、他の家臣らは不満を持った[169][166]。そのため、一部の家臣らは九条家出身の細川澄之のもとに参集し、澄之を新たな惣領にすべく、京都で決起したのであった(永正の錯乱[165]。この結果、澄之派が澄元を京都から放逐するなど[167][168]、細川氏は大混乱に陥り、その情報はすぐさま周防にも伝わった[170]

6月末、義尹は周防で大内義興の庇護を受ける中、政元の死を知ったとされる[170]。当初、義尹はこの情報を信じようとしなかったが、その後の続報により、政元の死を確信した[170]。義興をはじめ、義尹の周囲の人々は喜んで祝ったが、義尹はこれを喜ばず、なおも慎重であったと伝わる[170]。そして、義尹と義興は上洛のため、出陣の準備を進めた[170][171]

7月8日、澄之が義澄から政元の後継者として、細川一門の惣領(京兆家の家督)と認められた[172]。だが、8月1日に澄之は高国や細川政賢、細川尚春ら細川一門らによって自邸を攻められ、香西元長や薬師寺長忠らと共に殺害された(遊初軒の戦い[173][172][174]。そして、澄元が新たな惣領となるも、彼は庶家の阿波細川氏の出身でしかなく、三好之長ら阿波細川氏の家臣の専横が目立つようになると、多くの細川一門や家臣らから反発を受けた[175]

永正5年(1508年)正月頃、義尹は義興と共に大船70艘を中心とした大艦隊を率い、周防の三田尻を出発し、同月27日に同国の大畠、2月22日には安芸の蒲刈に入った[176]。義尹らはこの地で1ヶ月ほど逗留したが、それは豊後の大友氏が手薄になった大内氏の領国に攻め込む可能性を危惧したからであり、その動きを見極める必要があった[170]。また、義尹が早期に上洛すると、混乱状態にある細川氏が団結して立ち向かってくる可能性もあったため、あえて行軍速度を遅くしたと考えられる[170]

他方、義尹らが接近しているにもかかわらず、細川氏はなおも混乱状態にあった。惣領の澄元は自身に反発する細川一門に圧力をかけるため、3月17日に高国を伊賀に追い払った[175][177][178]。だが、4月に高国が軍勢を率いて伊賀から京都に迫ると、同月9日に澄元は之長と共に京都から甲賀に逃げた[175][177][179]。高国が上洛すると、細川一門や重臣による評議が開かれ、新たな惣領に選出された[175]。ここに、細川氏も畠山氏や足利将軍家に続いて、高国流と澄元流に分裂するに至った(両細川の乱[177][180]

3月16日、義尹と義興は豊後の大友氏が動かないことや、細川一門の混乱が泥沼化していることを好機と見て、蒲刈を出航した[181]。義尹らは瀬戸内海を東に進み、同月25日に備後の、4月14日には備前の下津井に入った[181]。そして、4月16日には備前の牛窓に進出した[182]

義尹と大内勢が京都に迫ると、高国は義澄を奉じて京都を守らなくてはならなかったが、惣領として一門を掌握できておらず、また高国の惣領就任に反発する者もいた[183]。そのため、高国はこの状況で戦うことは不可能と考え、義尹に降伏することを決断した[183]。これは細川一門が義澄を見捨てることを意味していたため、4月16日に義澄は近臣らと共に京都を脱出すると、六角高頼の配下である九里氏の居城・水茎岡山城に入った[180][183][184]

義澄が京都を去ると、4月24日に義尹らは摂津の兵庫に至り、27日には堺に到着し、引摂寺に入った[182][185]。義尹は堺に1ヶ月ほど滞在し、京都から赴いた高国の降伏を受け入れたほか、自身のために奮闘してきた畠山尚順らの参礼を受け、上洛の準備を進めた[182]

6月6日、義尹は義興ら大内勢をはじめとする大軍を率いて堺を出発し、同月8日に大群衆に見守られながら、遂に上洛を果たした[182]。上洛後、義尹は一条室町にある吉良氏の邸宅に入り、ここを仮御所とした[182]

将軍再就任・第二次政権の開始

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細川高国

永正5年7月1日、義尹は朝廷から将軍に再任され、第二次政権を開始した[186]。復権した義稙は多くの大名から支持され、帰京の祝儀として様々な贈り物が送られた[186]

帰京後、義尹は細川高国や大内義興、畠山尚順、尚順の一族である能登の畠山義元ら4人の在京大名によって支えられた[187]。前将軍の義澄は細川氏に依存し過ぎたため、政元の死によって細川一門が混乱すると、その地位が不安定化し、結果的に近江に没落した[187]。ゆえに、特定の勢力に依存せず、複数の在京大名から支えられるこの体制は理想的であり、義尹はこの体制の維持に努めた[188]

義尹は高国と義興に軍功の褒賞として、高国を幕府の管領に[189]、義興を管領代[189][190]及び、将軍家の重臣が任じられてきた山城守護に任命した[191]。当初、義尹が義興に当初与えたのは相国寺領の堺南荘(貿易港として知られる堺の港)であったが、義興は寺社本所領の受け取りを拒否し、相国寺に返還した[191]。そのため、義尹は堺南荘の代わりとして、重職である山城守護の地位を与えると、義興も納得してこれを受けた[191]

7月23日、義興が「述懐(不満)」を理由として、突如「帰国する」と言い出した[192]。そのため、義尹はこれに慌て、義興に使者を遣わしたほか、さらには朝廷から勅使も下させ、慰留させた[192]。義興はこれに一時抵抗するも、義尹が自身の要求を受け入れたことで思いとどまった[192]。この当時、義興は義稙に満足に意見が言えなかったようであり、また本国の周防から遠く離れた京都に居続けることへの不安もあったと考えられる[192]

8月11日、義尹は帰京後最初の御成先として、自身に忠節を尽くし続けてきた尚順の邸宅を選んで赴いた[192][193]。これは、義尹が尚順を自身の復権における最大の功労者として認めたに等しかったが、義興がこれに抗議するために宴会を途中で退席し、高国もこれに同調した[193]。以後、義興と高国は尚順の厚遇に不満を持ち、軋轢が生じるようになったが、義尹が義興ばかりを贔屓しなかったのは、四大名の間のバランスを保とうとしたと考えられる[192]

12月、義尹は伊勢貞宗に対し、将軍のもとに持ち込まれた訴訟案件を今後も処理するように命じた[194]。貞宗は明応の政変で義尹を失脚に追い込み、義澄の側近として幕政に深く関与したが、義澄の近江下向には従っていなかった[194]。そのため、貞宗は義尹から厳罰に処されても不思議ではなかったが、義尹はこれを赦免し、訴訟案件の差配を命じた[194]。貞宗の厚遇は高国が義尹に取り成しをしたからと考えられており、貞宗に義澄に付き従わないよう説得したのも高国であった[194]

永正6年(1509年)6月、義尹は3代将軍の足利義満の時代より途絶えていた、禁裏小番を復活させた[195][196]。そして、6月10日に義尹は禁裏小番を務め、就寝せずに夜明けまで御所で過ごし、宿直の仕事を行った[195]。後柏原天皇はこの義尹の奉仕に大いに喜んだ[195]。義尹が天皇を尊重する姿勢を見せたのは、最大の政敵である義澄に対抗し、自身こそが正当な将軍であるということを内外に示すためであったと考えられる[195]

義澄との戦い

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三好之長

永正6年5月、義澄と細川澄元は連携し、澄元の重臣・三好之長に命じて、近江から京都に軍勢を進発させた[197][198]。そして、その軍勢は京都に迫り、6月中旬には京都近郊の如意ヶ嶽に到達した[197][198]

だが、義稙はこれに立ち向かい、細川氏や大内氏、畠山氏など2~3万人の大軍を集め、如意ヶ嶽を包囲した[197][198]。そのため、3千人の澄元軍は戦意を喪失し、6月17日の夜半に暴風雨に紛れて近江に撤退した(如意ヶ嶽の戦い[197][198]

7月、先の戦いで伊勢の山田に逃げ、兵を募っていた三好長秀が、義尹に味方する伊勢国司の北畠材親志摩の国人衆らに攻められ、弟や配下らと共に自害に追いやられた[198]。長秀の首や捕虜になった者達は京都に送られた[198]。長秀が伊勢で兵を募っていた理由は、澄元がかつて伊勢守護職を与えられていたからと考えられるが、この伊勢における再挙計画は頓挫した[198]

閏8月、澄元が義澄に断ったうえで、近江甲賀を去り、実家である阿波に戻った[199]。これは、澄元が甲賀を拠点とすることでは勝利が難しいと判断したためであったが、義澄にとっては大きな支柱の喪失であった[199]。これにより、義尹は第二次政権における最大の危機を脱した[199]

10月26日午後1時頃、義尹が就寝中、何者かが御所に放った刺客に襲われ、暗殺されかかる事件が起こった[199][198][114][注釈 6]。だが、義尹は一人で賊と戦い、衣服や立烏帽子などを斬り裂かれ、体に7~8か所の傷を受けながらも刃をうまく受け流し、そばに立てかけてあった長刀まで使い、これを追い払うことに成功した[202][114]。この事件は、劣勢からの巻き返しを図った義澄やその与党の仕業とされたことで、義稙はその報復を計画した[198][199]

永正7年(1510年)正月、義尹は高国に義澄征伐を担当させることにし[199][201]、2月16日に高国の近臣である雲龍軒(等阿弥)に率いられた軍勢2万人が、京都から近江に向けて出陣した[203]。そして、この軍勢は20日には琵琶湖を渡り、義澄のいる水茎岡山城に近い守山に布陣した[203]。だが、義澄に味方する近江の国人衆がこれを迎撃し、21日に高国勢は京都への退路を断たれて総崩れとなり、雲龍軒も討ち死にした[204]

高国の軍勢が敗北した要因としては、高国自身が細川一門の惣領となって日が浅かったことや、大内義興の協力がなかったことがあげられる[204]。高国はこの頃、義興とは関係は不仲ではなく、互いの邸宅を訪問し合うなどしており、大内勢がこの戦いに参加しなかったのは、高国が義興の協力を謝絶したからと考えられる[204]。また、高国は細川氏の惣領家出身ではなく、惣領として一門を率いるための武威を示すため、あえて自身と近臣のみで戦いを進めさせようとも考えられる[204]。とはいえ、この戦いに勝利した義澄らの士気は大いに上がり、義稙に雌雄を決する戦いを挑もうとした[205]

永正8年(1511年)6月、義澄が義尹包囲網を形成すべく、自身の2人の息子である義維義晴を、阿波の澄元と播磨の赤松義村のもとにそれぞれ遣わした[206]。他方、義澄を庇護していた六角高頼が義尹と内通しているとの噂が流れたため、2人の息子を別々の地域に送ろうとしたとする説もある[207]

同月下旬、義澄を支持する澄元が阿波で挙兵し、四国から瀬戸内海を渡り、細川政賢や細川尚春、播磨の赤松義村も味方につけ、高国の領国である摂津などを侵した[208][189]。高国はこれを迎撃したが、今回も苦戦し、8月上旬に総崩れとなった(芦屋河原の合戦[209]。河内でもまた、畠山尚順が澄元派に敗北するなど、形勢が悪化した[209][210]。これらの敗戦を受けて、京都は大混乱に陥った[209]

8月14日、義澄が義尹との決戦を間近に控える中、水茎岡山城で病死した[206][211]。義尹との決戦直前での急死であることから、義尹側による暗殺も否定できないとする見方もある[212]

8月16日、義稙は事態の悪化を受けて、自身の居所である吉良邸に火を放ち、一戦も交えることなく京都を離れた[209]。そして、義稙は高国や義興、畠山義元らに守られながら、高国の領国の1つ・丹波の神吉に退いた[210][209]。その結果、澄元の先遣隊である細川政賢が京都に入城した[179][209][184]

8月20日、義尹は細川氏や大内氏、畠山氏の軍勢を率いて、丹波の神吉を出発し、23日に京都の高雄に向かって進軍した[213]。そして、同日には義尹の率いる軍勢が京都北方の山々に布陣した[210][214]。これに対し、澄元方は船岡山に陣取り、迎撃しようとした[210]

8月24日、義尹方の軍勢は京都に突入し、澄元の軍勢と船岡山で激突した(船岡山合戦[210][215]。このとき、大内軍の奮戦により、船岡山に陣取る澄元の主力軍はたちまち壊滅状態となった[215]。澄元方は細川政賢ら多くの有力武将を失い、西方に潰走した[216][215]

澄元が受けた打撃は大きく、その死者は3千人から5千人ともいわれる[215]。敗戦直後、9月に細川成之も死去したため[211]、澄元は義澄を失ったことも相まって、阿波でしばらく雌伏の時を過ごした[198][217]

四大名支柱体制の軋轢と再生

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義尹は船岡山での勝利を知ると、本陣としていた高雄尾崎坊を出て、永正8年9月1日に入京し、妙本寺に入った[218]。船岡山での勝利は、義尹が自身の支柱とする細川高国や大内義興、畠山尚順、畠山義元ら四大名の間を調整し、協力する体制を整えていたからであった[218]。だが、細川澄元ら義澄方に大勝したことにより、軍事的脅威から解放された結果、義尹の政権内部で軋轢が生じるようになった[219]

9月、義興が周防に帰国するとの噂が世間で流れた[220]。だが、後柏原天皇が大内勢の帰国による京都の治安の悪化を危惧し、義興の船岡山における戦いの奮戦を褒めたたえ、帰国を思いとどまらせた[220]。すでに、義興の在京期間は3年に及んでおり、在京していた安芸や石見の者の多くが、その負担に耐えきれずに帰国していた[220]

11月、義尹は船岡山での勝利を祝うべく、将軍御所において、四大名が主催する猿楽の宴が催された[221]。このとき、11月14日に高国と義興の共催で一回目が開かれ、その3日後の11月17日に尚順と義元ら畠山氏の主催によって2回目が開かれている[222]。このように、義尹は自身を支える四大名間のバランスを保つべく腐心していたことが伺える[221]

永正9年(1512年)3月、後柏原天皇が義尹の意向に反して、義興を武士としては高位である従三位に叙した[220][223]。これは、義興の帰国を思いとどまらせようとする意図で行われたと考えられる[220]

6月、義尹は高国や義興、義元らとともに石清水八幡宮に参詣に出かけたほか、高国や義元の邸宅を訪問した[224]。これは、支柱大名らとの親睦を深め、団結力の再生を図るためであったとされる[225]

8月、義尹は澄元の陣営の切り崩し工作によって、澄元と同盟していた赤松義村を臣従させた[226]。義村は澄元とともに義澄を支持しており、義澄の子息の一人・義晴の養育を委ねられていたことから、この義村を臣従させたことは義尹にとっては大きな成果であった[227]

永正10年(1513年)2月、義尹は赤松義村のもとにいた義晴やその近臣らと和解した[227]。その結果、義尹は明応の政変以来続いた旧義澄派との関係に一応の決着をつけ、自身の政治的立場を安定させた[227]。なお、義尹はこの和睦以降、義晴を猶子にしたとする史料[228]もある[229][230]

同月、義興が周防に帰国すると申し出ると、義尹は「帰国してもよい」と申し渡した[231]。これは、義興がかつて帰国を申し出た際、義尹が必死に慰留した時の対応とは対照的であり、義尹が先の勝利で自信を高めたことに加え、両者の軋轢が深刻さを増したことが原因と考えられる[231]

3月18日夜、義尹は突如として、僅かな供を連れて京都を出て、近江の甲賀に出奔した[184][227]。当時の史料(『尚通公記』永正10年3月18日ほか)によると、義尹は高国や義興に不満があり、それが出奔に繋がったと記録されている[184][224]。これは、義澄という共通の敵がいなくなったことにより、支柱大名らとの団結力が低下し、緊張感が失われた結果と考えられる[224]

高国や義興、尚順、義元ら四大名は義尹の出奔に驚き、同日に政所頭人の伊勢貞陸の邸宅に集まり、評議を行った[219][232]。その結果、義尹に改めて忠誠を誓うことで、帰京させる運びとなった[232]

4月3日、義尹は高国ら四大名に対して、7ヶ条の条件を出し、自身への忠誠を求めた[219]。これを受けて、4月12日に四大名も連名で将軍の下知に背かない旨の起請文を送り、その帰京を求めた[232]。だが、義尹はこれに応じず、甲賀に留まったままであった[232]

5月1日、高国ら四大名は自ら義尹を迎えるべく、京都を離れ、近江の大津・坂本にまで出向いた[232]。これを受け、5月3日に義尹は一ヶ月半振りに京都に戻り、その入京の際には四大名が付き従った[232]。このとき、義尹は四大名の軍勢3万を率い、大群衆に見守られながら堂々と帰京したとされることから、自身が四大名の支持を受け、彼らを服属させていることを内外に示そうとしたと考えられる[233]。また、自身の出奔により、軋轢が生じて団結力が低下した大名らとの関係を再生させている[234]

10月、義元が能登における領国経営が不安定化したことにより、その混乱に対処すべく、帰国してしまった[235][236]。この段階で、四大名の一角が脱落した[235]

11月9日、義尹は改名し、義稙と名乗った[237][238][注釈 4]。諸大名との関係が新たな段階に入ったと感じ、改名することにより、気分を一新しようとしたと考えられる[237][239]

三条御所の完成・大和侵攻の成功

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興福寺

永正12年(1515年)12月、義稙の新たな居所・三条御所(三条万里小路亭とも)が京都の下京において、2年の歳月を経て完成した[237]。この御所の造営は、細川高国ら支柱大名の支援を受けたことによるものであった[237]

三条御所は義稙がかつて御所とした通玄寺と別の場所であるものの、その近くに存在した[240]。なお、この三条御所のあった地は、2代将軍の足利義詮や4代将軍の足利義持も御所を置いた地であり、足利将軍家ゆかりの地であった[240]

義稙の三条御所は壮麗な邸宅であり、これを見た公家が「美麗、驚目しおわんぬ」と驚いている[240]。この御所の建設は、義稙が大名らに支持され、自身が十分な器量を保持していることを内外に印象付けた[240]

永正14年(1517年)4月、義稙は側近の畠山順光に命じ、大和に侵攻させた[240]。当時、大和では諸勢力が抗争しており、義稙はその抗争を鎮めることを目的として、同国に侵攻させている[240]

順光は将軍上使として、大内義興の軍と共に大和を攻め、たちまち同国を制圧した[240]。そして、順光は大和各地に兵糧米など諸税を課し、さらには官符衆徒の地位を手に入れようとするなど、大和守護の興福寺をはじめとする諸勢力にその力を示し、5月に帰京した[240]

義稙が順光を大和に侵攻させた理由としては、足利将軍家に独自の基盤がなく、そのために大名らに依存するという状況が続いていたが、義稙はこの状況からの脱却を図り、大和を将軍家の独自基盤にしようとする意図を持っていたとされる[241][242]。大和は興福寺など大寺院の力が強く、一国を統括するような大名権力が生まれにくい環境にあって、義稙はそこに目をつけ、順光に大和を制圧させることでその武威を示し、大和を独自基盤とする第一歩にしようとしたと考えられる[241]。また、順光は義稙の側近であったが、大名以外の人的基盤を形成すべく、自身の手足となる側近の育成のため、この侵攻を行ったとも考えられる[243]

義興の周防帰国・高国との微妙な関係

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永正14年閏10月2日、義稙は日頃から中風に悩まされていたこともあり、有馬温泉湯治に出かけた[244]。このとき、義稙が京都を離れることから不穏な噂が広まり、後柏原天皇から有馬行きを延期することを求められたほか、細川高国から警備を増強することを進言されたが、これらを聞き入れなかった[244]。これらは、義稙が船岡山での勝利や大和侵攻の成功などにより、自信を深めた結果だと考えられる[245]

閏10月4日、義稙が有馬に向けて出発して2日後、大内義興が突如として京都を去り、堺に下向した[246]。義稙はこれを知ると、義興に帰京するように求めたが、義興はこれに応じず、永正15年(1518年)8月に周防に帰国した[246][247]。義興は本国を離れること10年に及び、その負担が大内氏に重くのしかかり、山陰地方では尼子経久率いる尼子氏が台頭してきたこともあって領国を防衛する必要に迫られ、帰国を決断したと考えられる[248][247]。この結果、義稙を支える支柱大名は高国と尚順の二人になり、義稙の権力基盤は弱体化を余儀なくされた[249]

永正15年12月、義稙は赤松義村に対し、澄元やその家臣らを成敗するように命令を出している[247][250]。 これは、義興の帰国によって、義稙への軍事的支えが無くなり、好機と見た澄元が蠢動し始めたことによるものであった[247]

永正16年(1519年)5月、淡路守護の細川尚春が、三好之長によって殺害された[247]。尚春は澄元方であったが、之長とかねてから折り合いが悪く、永正15年8月に高国に味方したことを理由として、之長によって淡路から堺に追放されていた[179][247]

8月、和泉守護の細川澄賢が京都から和泉に帰還した[189]。これは、和泉を澄元方から防衛するためであり、澄賢の弟・細川尹賢も摂津を固めている[189]

9月27日、義稙は朝廷から源氏長者に補任された[251]。後柏原天皇は父帝の後土御門天皇崩御後に践祚したが、義稙の復帰後も即位式を挙行できておらず、同月頃に即位式が実現しつつあったが、義稙が費用の不足を理由に延期を申し入れていた[251]。そのため、天皇は即位式の実現を義稙に期待し、父帝が即位式の際の先例を鑑みて、義稙を源氏長者に任じたのであった[252]。義稙は室町幕府の将軍としては、最後の源氏長者となった[252]

10月、澄元が上洛するとの風聞が流れ[253]、11月には澄之と三好之長が瀬戸内海を渡ると[253]、之長率いる澄元勢が高国の領国である摂津に攻め込み、高国方の尹賢と対峙した[249][254]。これは、義稙の権力基盤が弱体化した隙を狙った攻撃であった[249]。他方、高国も摂津を防衛するため、同月に京都から出陣した[249][254]

11月3日、義稙は赤松義村に対し、高国に味方するように命じた[255]。もっとも、義村は永正9年に義稙に臣従するまで、義澄 - 澄元派の大名であり、義稙がこの頃から赤松氏を通じて、澄元と秘かに関係を持っていた可能性がある[256]

永正17年(1520年)2月、摂津の要衝たる越水城のほか、摂津国内の主要な城が澄元方によって落城させられた結果、高国軍は総崩れとなり、高国は京都に逃げざるを得なかった[249][254][257]。時を同じくして、尚順も澄元方の攻勢に苦しめられており、尚順の嫡男・畠山稙長は河内の高屋城を包囲され、籠城を余儀なくされていた[258]。義稙を支える高国と尚順が苦戦したことで、義稙を取り巻く環境が悪化した[258]

2月17日、高国が京都に戻った[258]。翌18日、義稙は高国と面会し、高国から近江の六角定頼を頼ることになったので、近江下向に同行することを求められた[258][259]。だが、義稙はこの直前、澄元から恭順の意を示す内容の書状を送られており、同行を拒否した[258]。事実上、義稙は高国を見捨て、軍事的に優位にあった澄元と同盟する決断を下した[258]。そのため、高国は義稙を伴わず、自身の軍勢と共に近江坂本に下向せざるを得なかった[254][259][260]

3月27日、三好之長率いる澄元方の軍勢2万が入京した[261][262]。そして、5月1日に之長が澄元の代理として三条御所に参上すると、義稙は馬や太刀、甲冑、銭貨を澄元の家督継承の礼物として献じられた[261][254][263]。だが、京都は之長が掌握したにも関わらず、澄之は病床にあったため、上洛できずにいた[264][254]

他方、高国は六角定頼の軍2万を味方につけると、5月3日には京都付近の如意ヶ嶽に兵を進めた[265]。翌4日には、六角氏のみならず、朽木氏や越前の朝倉氏、美濃の土岐氏、丹波の内藤氏が高国の援軍として、洛北に陣取った[254]。之長は義稙の住む三条御所に近い等持院(等持寺)付近に布陣し、これを迎撃した(等持院の戦い[265][254][266]

澄元の軍勢は入京時には2万人だったが、高国軍の優勢が伝えられると、離反や脱走が相次いでおり、4~5千人ほどであったという[267]。一方、高国の軍勢は六角氏の軍勢も含めて、4~5万人であったとされる[267]。之長は奮戦したものの、味方であるはずの海部氏久米氏東条氏河村氏ら阿波の国人衆にまで裏切られ、三条御所に近い曇華院に逃げ込んだ[254][267]

5月7日、高国方は之長が曇華院に潜んでいることを把握し、9日に寺を包囲した[268]。曇華院には、義稙の妹・祝渓聖寿が入寺しており、彼女は寺を包囲した高国の兵が之長の引き渡しを要求しても、頑なにこれを拒否した[267]。だが、之長は寺に災いが及ぶことを恐れたのか、5月11日に自ら寺を出て高国方に捕縛されたのち、知恩寺で切腹させられた[268][267]。之長の死により、澄元の軍勢はわずか2か月ほどで壊滅するに至った[269]

そして、高国が澄元方と入れ替わる形で、帰京を果たした[270][271]。義稙は支柱である四大名の一人である高国を自ら裏切り、信頼関係を破壊したため、いつ没落してもおかしくない状況に追いやられた[272][271]。だが、高国は帰京すると、何事もなかったかのように義稙と対面し、友好関係を構築しようとした[272]。つまり、義稙と高国の関係は険悪にはならなかった[272]

6月10日、澄元が上洛することもなく、阿波において病没した[254][269]。義稙が高国から澄元に鞍替えした2月の時点で、澄元は死につつあり、実際に2月中旬から3月にかけて「澄元が死去した」との噂が流れていたことから、このときすでに死去していた可能性もある[269]。義稙としては、澄元が32歳の若さで死去することは想定していなかったと思われる[269]

8月、義稙の居住する三条御所にて、高国が盛大な猿楽の宴を開催し、義稙を接待した[272]。義稙はこれに大変満足した様子であったと伝わる[272]

10月、高国の命により、摂津の瓦林正頼ら国人衆が切腹させられた[210]。これは、義稙や国人衆が先の戦いで高国を裏切ったため、高国が猜疑心に駆られた結果だとされる[210]

高国は義稙の裏切り後も、義稙との関係を重視したが、それは各地の大名らと誼を通じるうえで、義稙の存在が不可欠であったからであった[273]。当時、大名らは将軍の偏諱や特権の許可といった栄典を求めたが、高国ができるのは栄典の斡旋であり、実際に授与するのは義稙であった[13]。また、前将軍の義澄には2人の遺児である義晴と義維がいたが、この当時、義晴を擁する赤松義村は澄元方に味方して高国と敵対しており、義維も澄元亡き後はその遺児・細川晴元と阿波にいたため、共に義稙に代わる新将軍としての擁立は厳しかった[274]。これらが、高国が義稙を切り捨てることができなかった大きな要因であった[274]

出奔と最期

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足利義晴

永正18年(大永元年、1521年)2月、義稙は朝廷に対し、後柏原天皇の即位式の費用を献上した[275]。これにより、翌月に即位式が挙行されることが決まり、天皇も当日が荒天にならぬよう、石清水八幡宮や春日社に祈りを捧げている[275]

3月7日、義稙は細川高国との対立により、突如して京都から出奔した[274][266]。そして、堺を経由して、3月10日に淡路に到着した[266][271]。やはり、義稙が高国を裏切ったという事実は消し難く、両者の間にできた溝を修復することは厳しかったようである[274][276]

義稙はかつて甲賀に出奔した際、高国ら支柱大名に忠誠を誓わせることに成功していることから、今回もそれを狙い、あえて出奔したとする見方がある[274]。他方、高国の影響下にある京都を離れて、高国討伐の軍を起こそうとしたとも考えられている[277]。だが、これに従ったのは側近の畠山順光やごく一部の奉行人ら数名のみで、政所頭人の伊勢貞忠や奉行人のほとんどは京都に留まって、義稙を見限ることになった[277]

義稙の出奔により、同月に予定されていた後柏原天皇の即位式の開催が、直前になって危ぶまれる事態となった[275]。だが、天皇は義稙の出奔に激怒して、即位式を予定通りに強行するよう命じ、3月22日に実施させた[275][278][注釈 7]。天皇の即位式は践祚から20年を経た出来事であり[271]、高国やその被官らが警固の任を果たした[251][275]

7月6日、高国が赤松義村の重臣・浦上村宗の力を借り、義澄の遺児である義晴を京都から上洛させた[266][279]。高国は義稙との関係破綻を予測し、村宗と前々から連絡を取り合い、義晴の擁立を準備していた可能性が指摘されている[279]。なお、義晴は義村のもとにいたが、村宗が両者を引き離させたうえで上洛させている[280]

義晴が上洛すると、高国らによって、その将軍就任に向けた準備が着々と進められた[281]。高国が即位式における警固の責任を果たしたことで、後柏原天皇は高国による義稙の放逐と義晴の擁立に同意を与えていた[278]。これにより、義稙は厳しい立場に追い込まれたため、高国を実力で討ち、京都を奪還することにした[279]

10月下旬、義稙は淡路を出陣し、堺にまで軍を進め、浄土真宗の樫木屋道場に陣を置いた[2]。だが、義稙に味方する者は少なく、諸大名も畠山尚順を除いて、誰も味方しなかった[2][210]。義稙に長年忠節を尽くしてきた尚順もまた、家臣らに叛かれており、義稙を十分に支えることができない有様であった[2]

11月、義稙は堺から淡路に下向した[2][266]。淡路は細川晴元の勢力下にあり、この地を居所としたことから、義稙は京都の人々から「淡路御所」と呼ばれるようになった[2]

12月25日、義稙に代わる形で、義晴が朝廷から新たな将軍に任命された[282][283]。幕府は義晴を擁立した高国の主導で運営されることになったが、義稙はそれでも将軍復職を諦めなかった[282]

その後、義稙は淡路を出て、晴元の本拠である阿波に下向した[2]。とはいえ、晴元はまだ幼く、晴元を支える三好元長(之長の孫)もまた若年であり、実力が不足していた[284]。そのうえ、阿波の三好領は高国によって、之長を裏切った阿波の国人衆に分配されており、晴元や元長は高国派勢力と戦わねばならず、義稙の上洛支援は厳しかった[284]

他方、義稙は阿波において、義澄のもう一人の遺児である義維を養子とした[282][285]。義稙は出奔してもなお、将軍復職を諦めてはおらず、義晴と高国に対抗するため、義維を自身の養子にしたと考えられる[282]。だが、義稙は阿波に逼塞を余儀なくされ、還暦間近に突き付けられた新たな忍従の日々に耐えきることができず、病に陥った[286]

大永3年(1523年)4月9日[注釈 8]、義稙は病により、阿波の撫養(現在の鳴門市)で死去した(『足利系図』、『足利家官位記』、『公卿補任』、『応仁後記』、『足利季世記』)[286][288]享年58(満56歳没)。

没後

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義稙が阿波で没したのち、訃報が京都にすぐには伝わらなかったことから、その死は非常に寂しいものだったと思われる[286]。豊後の大友氏は京都方面の情報を探るも、義稙没後の一年後の大永4年(1524年)3月10日付書状において、「阿州公方様、近日一向その沙汰なく候」と記しており、この段階でもまだ義稙の死を知らずにいた[286]

だが、義稙の闘争は養子の義維に引き継がれた[282]。そして、義稙は細川晴元や三好元長の協力を得て畿内に進出すると、堺を拠点とする堺公方として、義晴と激しい争いを繰り広げた。義稙系と義澄系に割れた将軍家の分裂は、織田信長足利義昭を奉じて上洛するまで続き、義稙の執念は結果として室町幕府の終焉に至るまで影響することになった[282]

人物・評価・逸話

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  • 義稙は将軍職を追われて諸国を流浪した経緯から、「流れ公方」「島公方」などと称された[1][289]。『陰徳太平記』には、細川高国と対立して出奔した義稙が乗った船に、「たぞやこの 鳴門の沖に 御所めくは 泊り定めぬ 流れ公方か」という狂歌が貼り出されたと記されている。
  •   塵塚物語』の「恵林院殿様御事」項に、義稙が流浪時代を回顧したという逸話が見える。この中で、不安に襲われた自身や困窮する人々を目の当たりにした義稙が、「政治に携わるものは常に慈悲の心をもって臨まねばならない」という心境に至ったと述べている。
  • 義稙は将軍の座を追われたものの、大内義興らの助力を得て、再び返り咲いている。鎌倉幕府源頼朝から、江戸幕府徳川慶喜に至るまで、将軍を一度退任して再任されたのは、義稙がただ一人だけである[179]。また、義稙は生涯で二度改名したが、室町幕府の歴代将軍で二度も改名したのは、義稙と次代の義澄だけである[97]
  • 公家の三条西実隆が記した『実隆公記』には、義稙が刺客に暗殺されかかった事件の際、義稙自身が武勇を示して撃退したと記されている[290]。また、実隆はこれを「末代の美談」と称している[290]。当時の史料には、義稙が武芸全般に興味を示したことが記されており、刺客を撃退できたのは決して偶然ではなかったと考えられる[290]
  • 山田康弘は、義稙が武芸全般に造詣が深かったと指摘し、不意をつかれながらも刺客に立ち向かって撃退した義稙は見事であり、剣の腕に秀いた足利義輝に比肩しうるとしている[203]。山田はまた、義稙が明応の政変で幽閉された際にも毒殺されかかったことから、「危難にあいやすい人」とも評している[203]
  • 義稙は美濃にいた頃、居住した承隆寺の平僧(無役の僧)・祖庭教敬の世話を受け、忠節を尽くされた[291]。また、ほかに2人の僧も義稙の世話を行ったが、その名は伝わっていないことから身分が低かったと思われる[292]。山田康弘は、義稙が少年期から青年期にそうした市井の人々と日常を接したことにより、何度挫折しても決してあきらめず立ち向かう「たくましさ」を得たと述べている[292]。美濃にはまた、義視に京都から付き従ってきた近臣らもおり、この時の近臣はのちに義稙を支える存在となった[290]
  • 義稙は美濃在国中の文明19年(1487年)正月に22歳で元服したが、これは当時としては遅い元服であり、過去の足利将軍家の男子の中でも高齢での元服であった[293]。なお、義稙は元服する以前は童形であり、幼名を名乗っていたと思われるが、当時の史料では「今出川(義視)殿若君」などと呼称されており、その幼名は定かではない[18]
  • 政元が義稙に反逆した最大の原因は、義稙が政元に政務を任せると約束しながら、その反対を無視して六角征伐と河内征伐と2度も大規模な軍事作戦を行ったことであった[294]。これは政元自らが朝廷に報告したことや、尋尊の記録からうかがい知ることができる[87][295]。義稙が将軍就任時、政務を管領だった政元に任せると言いながら自ら政務を行おうとしたため、すなわち将軍と管領のどちらが幕政の主導権を握るかで両者の対立に至ったと見られる。
  • 義稙は政元の排除を計画していたとされ、尋尊は政変の原因に関して、義材が自分の政策に反対する政元を討とうとしたことが原因であると記している[295]。実際、義稙は政元の対抗馬として、細川一族の最有力庶家・阿波細川氏の当主である細川義春を急速に重用しており、将軍家通字の「義」の字を与え、「義春」と名乗ることを許したほか、三条御所から一条油小路にあった細川義春の邸宅に居を移して、その寵愛ぶりを見せるなど、政元の対抗馬として着実にその地位を上げさせた[296]。加えて、義稙が最前線でその武勇を示し、義尚がなしえなかった六角征伐を成功、さらには河内征伐をも成功させようとして、その権威を上昇させ[297]、天下の政治は義稙を中心に回りつつあった一方、政元は周囲から孤立を深めていったことは想像に難くない[294]。そして、義稙が政元を冷遇し、義春や畠山政長らに接近していったのであるから、政元がいずれ義稙や政長といった与力大名らに自分が討たれるという恐怖に駆られたとしても不思議でなく、それが政元を将軍廃立の蜂起に駆り立てた直接的な理由であったとも指摘されている[294]
  • 伯母の日野富子とは、義稙が日野家の血を受け継いでいたこともあり、当初は良好な関係にあった[50]。義政が没したのち、義稙の家督継承を朝廷に伝えたのもまた、富子であった[50]。だが、父の義視が富子と対立し、関係が険悪になると、義稙との関係も悪化していった[298][299]。富子は義稙の権力の暴走を危惧していたが、義稙が六角征伐や河内征伐と立て続けに負担の大きい外征への出兵を大名らに求め、大名らに不満が広まったことで、さらに危機感を強めたとされる[300]。実際、義稙は六角征伐のさなか、斯波義寛から応仁の乱で朝倉氏に奪われた越前の奪還を要請されていたが、これに応じて、河内征伐の後は自ら越前征伐を実行しようとしていたといわれる[301]。義稙がこのまま将軍であり続けたら、越前征伐をはじめ連続して外征が行われる可能性があり、大名がさらなる不満を抱くのは必至で、将軍家を長年担ってきた富子は幕府の存立に重大な危機が迫っていることを感じたと推測される[300]。最終的に義材の廃立を決断したのは政元ではなく、富子であったとする見方もある[300]
  • 山田康弘は、義稙が龍安寺に幽閉後に毒殺されかかった事件について、富子が黒幕であったかは定かではないが、彼女が義稙を毒殺しようとしても何ら不思議はないとしている[99]木下昌規は、富子の妹(義稙の母)である日野良子が生存していたら、義稙と富子の関係改善も見込めた可能性もあったと指摘する[302]
  • 義稙は越中の放生津に下向すると「越中公方」と称され、幕臣や公家なども下向し、その総勢は70名ほどになった[104]。この時の義稙は単なる無力な逃亡者ではなく、越中でそれなりの陣容を整えた政権を樹立していることから、後の足利義維の「堺幕府」や足利義昭の「鞆幕府」にならい、「放生津幕府」などと呼ぶこともある。奉公衆の四番衆は多くが義稙に従っていたが、越中に下向した公家や奉公衆、奉行衆を全体的に見れば、軽輩の者が多く、京都で不遇な状況にある者達だった[104]。とはいえ、義稙は公家衆を通して、京都との連絡を取ることができた[104]
  • 義稙が越前を離れた理由については、政元側との和睦を見込んだ上洛説、義澄追討のための西進説、長誠との不和に起因する越前没落説など、さまざまな説がある。山田康弘は、朝倉氏に義澄追討への協力を求めるため、「みずから朝倉氏の本拠一乗谷におもむいて朝倉氏を説得しようと決意し」ての行動だったとしている[125]。一方、萩原大輔は、越前に赴いた際の御供がわずか13人だったことなどを元に、「義尹の越前動座は、武力上洛戦争のための西進ではなく、神保長誠らとの対立による越中退去、越前への没落と解釈すべき」としている[303]
  • 大内義興が義稙を支援したのは、周辺の諸大名より優位に立つことのほか[114]日明貿易の利権を大内氏で独占することも目的であった[235]。実際、義稙の復帰後、永正13年(1516年)に義興は義稙から日明貿易に関する諸権限を与えられ、明との貿易を独占する目途をつけている[235]。後年、毛利輝元足利義昭を擁して自らを副将軍とし、織田信長と戦いを繰り広げているが、それは義稙を擁した義興が貿易利権の独占に成功したことを鑑み、その先例に倣おうとしたからとされる[304]
  • 義稙の側近は義政や義尚に仕えていた者のほか、父の義視の時代から仕え、美濃下向にも付き従った者達もいた[97][57]。たとえば、大舘視綱一色視元種村視久らのように義視に供奉し、その偏諱を得ている人物の名が知られている[97][57]。義稙は「殿中申次」と呼ばれる10人の側近集団が義稙に訴訟など取り次ぐ役割を担ったが、義政や義尚の側近のほか、義視の側近も登用された[97]
  • 義稙に側近として有名なのは、父・義視の代から従ってきた公家の葉室光忠であり、義稙の第一次政権でも重要な役割を果たした[97]。義稙の第一次政権では当初、殿中申次が義稙に訴訟など取り次いでいたが、次第に光忠に一本化されるようになり、細川氏ら諸大名も光忠が取次として申し入れなければ、直接話もできない状況となった[305]。当時、義稙の側近の公家には、阿野季綱松殿忠顕高倉永康らがいたが、光忠の権力には到底及ばなかった[82]。そのため、光忠は大名らから憎悪の対象とされ、明応の政変の際に悪政の張本人として葬られた[82][306]
  • 義稙の流浪中、阿野季綱や松殿忠顕、烏丸冬康など公家衆が付き従っており、義稙が将軍に再任されると、彼らの官位は昇進している[307]。第二次政権では、季綱が側近の筆頭として活躍し、公武関係のみならず、各種訴訟の取次や差配などを担当するなど、かつての葉室光忠と同様の存在となった[307]。季綱は義稙が将軍に復帰して3年ほどで没したが[306]、光忠のように諸大名から憎悪の対象にはならなかった[307]
  • 阿野季綱の死後、義稙は神祇伯を務めた白川雅業を重用し、雅業を高倉永家が補佐した[307]。雅業と永家は先の季綱や葉室光忠ほどの働きをせず、武士の畠山順光が重用されるようになり、側近筆頭となった[308]。順光は義稙が流浪していた時からの側近であり[242]、義稙から大和侵攻を任され、その1年後の天正15年3月には義稙が順光の邸宅を訪問し、「不慮の果報、不思議」と当時の史料(『二水記』永正15年3月17日条ほか)に記されるほどの厚遇を受けた[306]
  • 義稙は細川澄元の攻勢に際し、細川高国を切り捨てる決断をしたが、義稙にとって支柱となる大名は高国でも澄元でもどちらでもよく、臨機応変に対応して生き残ろうと考えたと思われる[261]。また、親裁志向の強かった義稙は若い澄元を利用して、政務の実権を掌握しようとしたとも考えられる[309]。だが、この時は高国が巻き返し、義稙の賭けは結果的に失敗した[261]。なお、義稙が澄元と同盟した際、澄元の死が噂されていたことから、山田康弘は義稙が「死人と同盟し、全てを賭けてしまった」可能性を指摘している[270]。山田はこの決断を義稙の政治活動における最大の失敗としつつも、テレビ電話インターネットもないこの時代において、これまで敵対していた人物の状況を短期間で把握することは困難を極めたとし、決断そのものは長期的に見れば間違っていなかったとする[310]
  • 義稙は将軍に復帰すると、前将軍となった義澄との差別化を図るべく、朝廷との関係を重視し、天皇を尊重した[311][310]。義澄への対抗上、尊王の姿勢を示すことで、自分こそが天皇を守護する正統な将軍であると世に示そうとしたと考えられる[312]。例として、以下があげられる。
    • 永正6年(1509年)6月、義稙は近臣たちによる犬追物京都御所の近くで開催される予定を知ると、その騒ぎが後柏原天皇を悩ますのではないかと心配し、天皇から感心されている[311]
    • 同年6月、義稙は将軍自らによる禁裏小番を復活させ、同月10日には御所に参上し、宿直した[195]。だが、義稙が禁裏小番を務めたのはこの時のみで、その後は継続されなかった[312]
    • 同年8月、義稙は寺院の修繕費用を集める猿楽の催しが京都御所の近くで開催されることを知ると、これも天皇を悩ますのではないかと心配し、中止する命令を出した[311]
    • 永正8年(1511年)4月、義稙は前関白九条政基の子息である義堯猶子とし、醍醐寺三宝院住持として入寺させた[195]。だが、政基がかつて、唐橋在数九条家家司)の殺害で後土御門天皇勅勘を蒙っていたこともあって、義稙はこの猶子の件を後柏原天皇に伺った上で決めている[195]
    • このほか、義稙は後柏原天皇の即位式挙行のため、しばしばその費用を朝廷に献上していたことが知られる(『実隆公記』永正7年3月29日条、永正17年6月20日・10月6日条ほか)[313]
  • 義稙は自身の権威上昇のため、諸国の大名たちに自身の偏諱授与や朝廷への官位斡旋を行い、栄典として与えていた[314]。だが、永正14年(1517年)には義稙の拒否にもかかわらず、高国の判断によって、伊達高宗が偏諱を与えられて「稙宗」と名乗り、左京大夫に任官している[315]
  • 義稙は楽器のを学び、演奏していたことで知られており、それは第一次政権のみならず、第二次政権でも継続されている[316]。初代将軍の足利尊氏以降、室町幕府の歴代将軍は就任後数年以内に「笙始」を行っていたが、義稙も同様にこの例に倣っている[316]。なお、ライバルの義澄は笙始を行っておらず、以後の将軍は笙と疎遠になった[317]。義稙が笙を重視し、嗜んだ理由としては、自身が公家の一員であることや、公家社会への接近を意識したものと考えられる[317]
  • 義稙には息子がなかったが、自身の対抗者であった義澄の次男(または長男)・義維を養子とした[282][285]。義稙の死後、義維は将軍職を継いだ兄弟の義晴と激しく争い、足利将軍家は義稙流(義稙・義維・義栄義助)と義澄流(義澄・義晴・義輝義昭)の両流に分かれ、新たな戦乱の火種となった。

肖像・木像

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足利義稙木像(等持院霊光殿安置)

他に、鑁阿寺像の容貌を模して造られた木像が、徳島県阿南市同市立阿波公方・民俗資料館にある。また、銅像が富山県射水市放生津橋に2体設置されており、そのうちの1体は狩衣姿、もう1体は甲冑姿の騎馬像である。

墓所

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足利義稙墓(西光寺内)

法号は恵林院巌山道舜。墓所は徳島県阿南市西光寺[注釈 10]。また、没地である同県鳴門市岡崎城跡に将軍塚と呼ばれる場所があり、ここも義稙の墓所と伝えるが、盗掘されたのか、被葬者はこの中には見あたらないという。

系譜

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義稙はその生涯において、正室たる御台所を置かなかった[13]。これは、8代将軍・足利義政の正室である日野富子が政治に介入し続けたことを鑑みた結果とされる[13]

義稙にはまた、後継者となる男子もいなかった[13]。永正12年(1515年)10月に因幡山名氏出身の側室・茶阿局の懐妊が判明したものの、男子が生まれることはなかった[13][注釈 11]

なお、『阿州足利平島伝来記』(平島記)では、清雲院細川成之の娘)が義稙の正室と記されているが、上記の通り、これは正確な記述ではない。また、後世の記録である『系図纂要』では、義稙には男子の竹王丸と一人の娘がいたと記されているが、その実在を示す当時の史料は存在しない[注釈 12]

年譜

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偏諱を与えた人物

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「義」の字

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「材」の字

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「尹」の字

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「稙」の字

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死後

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(※上に挙げた人物の子孫が「稙」の字を用いた例。)

  • 公家
    • 九条(稙通の妹・経子(二条尹房室)の子孫にあたる)
  • 武家
    • 石川(稙光の子・石川晴光の別名)
    • 朽木(福知山藩朽木家初代、戦国武将・朽木稙綱(上記)の曾孫)
    • 朽木(稙綱(初代)の子、福知山藩朽木家2代、丹波福知山藩初代藩主)
    • 朽木(稙昌の子、福知山藩朽木家3代、同藩第2代藩主)
    • 朽木(稙元の子、福知山藩朽木家4代、同藩第3代藩主)
    • 朽木(稙元の弟、福知山藩朽木家5代、同藩第4代藩主)
    • 朽木(稙元・稙治の弟)
    • 富樫(稙泰の孫)

関連作品

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小説
  • 宮本昌孝「妄執の人」(徳間文庫『将軍の星』収録)
テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ とはいえ、義材の将軍職は形式上、義澄(清晃)の将軍宣下までは失われなかった[82]
  2. ^ だが、後土御門天皇はその後も政変をなかなか承認せず、清晃(義澄)の将軍宣下は政変から8ヶ月以上経った12月27日に行われた。この事情のためか、『公卿補任』では、義材から義澄への将軍交代は後土御門天皇の死後に行われたことになっている。もっとも、将軍宣下の遅れは政元側の献金不足によって、朝廷の動きが鈍かっただけとする説もある[88]
  3. ^ 『蔭涼軒日録』明応2年閏4月25日条には、「今日(25日)正覚寺代敗績之由。自方々告之。不知其実。暮夜九峯来云。正覚寺落居一定也。注進有之。義材公。葉室(葉室光忠)公。妙法院。種村(種村視久)方。上原左衛門大夫(上原元秀)陳所江御降参云々。御小袖并二銘等御所持云々」と記されている。
  4. ^ a b 義材から義尹に改名する際、当時越中にいた阿野季綱が京都の東坊城和長に対して、義材の改名を請う書状を送り、和長は15の改名候補を撰んだ。その中から、義材は義尹の名に改めたと、『和長卿記』明応7年(1498年)8月19日条・8月29日条にある。また、義尹から義稙に改名するときも、東坊城和長がその名を勧進したと『拾芥記』永正10年(1513年)11月9日条にある。
  5. ^ 伊勢貞仍が回った国々を見ると、但馬は山名持豊(宗全)、因幡は山名勝豊、伯耆は山名教之、丹後は一色義直がかつて支配しており、彼らは大乱中に西軍の盟主である義視に忠誠を誓っていた守護大名達であった[150]。明応9年(1500年)の段階で、但馬は山名致豊(持豊の曽孫)、因幡は山名豊時(勝豊の子)、伯耆は山名尚之(教之の孫)、丹後は一色義直が守護を務めており、かつての西軍を軸とした関係が継続していたと考えられる[150]
  6. ^ 公家の三条西実隆が記した『実隆公記』永正6年10月26日条等では、刺客の数は2人で、実際に襲撃したのは1人であったことや、将軍御所内に内通者がいたこと、前将軍の義澄の仕業であったことなどが記されている[200][199]。また、『瓦林正頼記』によれば、義尹を襲った刺客は「夜討ノ上手」なる円珍であったという[201]
  7. ^ 廷臣の鷲尾隆康が今回も延期かと嘆き、後柏原天皇のもとに参ったところ、天皇は隆康に即位式を強行する意思を示した[275]。隆康は天皇の判断を妥当としつつも、費用を捻出する幕府にどう説明するかを懸念している[275]。結局、3月20日に高国が朝廷に赴くと、即位式の警固に関する話し合いが行われ、21日が祈ったにもかかわらず雨となったため、22日に即位式が挙行された[275]
  8. ^ または同年4月7日とも[287]
  9. ^ 三条西家旧蔵『不審申条条』には、その問い合わせの内容が残されている。
  10. ^ 阿南市立阿波公方・民俗資料館の館内解説によると、義維が当地に納めたのは遺髪。
  11. ^ a b 『厳助往年記』永正12年(1515年)11月条には、「自公方(義稙)御著帯加持之事、山名治部少輔(豊重)女、茶阿局、当門跡被仰出、為御手代報恩院謹仕、中山亭有之云々」と記されており、義稙自らが懐妊した茶阿局のために安産祈願の儀式を行ったことが確認できる。だが、同年12月条には、「同御産平安、御祈事被仰出、於住坊准胝護摩被行、御手代報恩院修中、妊者有絶壽之事云々、太珍事歟、果御産不平、血孃或流産、不知其実云々」と記されており、茶阿局が流産し、その際に死去したことがわかる。
  12. ^ 系図纂要』には、「童 竹王丸」「女 尼 村山御所尼上人」と記されている。
  13. ^ 『公卿補任』では、延徳2年7月5日付、右中将兼帯となっているが、翌年以降の記事では、左中将となっている。また、足利義稙御判御教書(延徳2年8月18日付。東寺文書 書12)では、参議・左近衛権中将の官職名となっている。
  14. ^ 『公卿補任』には、明応9年(1500年)まで「征夷大将軍」の記載がある。
  15. ^ a b 晴重(稙信)のもう一人の子(守信(稙清)の弟)である葛西晴胤の別名が義稙復職前の将軍・足利義澄(初め義高)から1字を受けたとみられる「高信」であることから逆転現象が生じてしまっており矛盾している。このため、実際に名乗っていたか否かはわからない。

出典

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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