近藤照男

日本のテレビプロデューサー(1929-2006)

近藤 照男(こんどう てるお、1929年 - 2006年2月20日)は日本テレビプロデューサー香川県出身。代表作は『スパイキャッチャーJ3』、『キイハンター』、『Gメン'75』など。

こんどう てるお
近藤 照男
生年月日 1929年
没年月日 2006年2月20日
出生地 日本の旗 日本・香川県
職業 テレビプロデューサー
活動期間 1952年 - 2006年
事務所 近藤照男プロダクション
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来歴

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1952年武蔵工業大学建築科を卒業後、美術スタッフとして東映入社[1]。劇場用作品の美術監督として『陸軍残虐物語』(1963年)『ジャコ萬と鉄』(1964年)などの作品に関わったのち、1960年代中盤からプロデューサーに転身し、主にテレビ映画制作に携わる。

1982年に東映から独立し、テレビドラマ制作を業務に近藤照男プロダクションを設立、数々のTBS作品を制作する。中でも東映と馴染みの深い付き合いの石ノ森章太郎による原作の「HOTEL」を映像化、ロングランシリーズとなった。

2006年2月24日、脳内出血により2月20日に都内の自宅で死去したことが公表された。享年77[1]

人物

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深作欣二小山内美江子佐藤純彌を含めた4人はウマが合い、時々会って、付き合いを続けていたと小山内は話している[2]

倉田保昭によれば、『Gメン'75』では、歴代の女性刑事に欧米モデル系の近藤が好みのモデルや女優を起用していてたという[3]。また、倉田は降板にあたり、降板したい原因の一つが近藤の存在であると近藤に告げると、降板後も数年間に渡って近藤が他の放送局にも影響を行使し、倉田が他のドラマに出るのを妨害していたため、倉田は干された状態であったという[4]原田大二郎も近藤との揉め事の末に番組から降板すると、降板後は干された状態になり、近藤が影響力を行使して自身のことを妨害したのだと感じたと、倉田と同様の経験を話した[5]

藤田三保子によれば、近藤から藤田の自宅に頻繁に電話があるなど、近藤が藤田に入れあげていて、その後の基準で言えば、セクハラやパワハラにあたる様な事もあったという[3]。また、藤田が婚約を発表するとすぐに番組から降板させられたことに加え、東映は出入り禁止状態になったという[3]

脚注

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  1. ^ a b “プロデューサー近藤照男さん死去”. nikkansports.com. (2006年2月25日). オリジナルの2006年3月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20060325132445/http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/f-et-tp0-060224-0025.html 2014年7月7日閲覧。 
  2. ^ 立松和平「第三章 私自身の『復活の日』」『映画主義者 深作欣二』(第1刷)文藝春秋、2003年6月1日、143 - 147頁。ISBN 4-89036-181-2OCLC 54088600 
  3. ^ a b c 「プロデューサーから“お風呂入った?”とかセクハラが」「降板理由は…」 今だから話せる「Gメン75」ウラ話 藤田三保子×倉田保昭5”. デイリー新潮 (2025年5月11日). 2025年9月29日閲覧。
  4. ^ 「プロデューサーから“お風呂入った?”とかセクハラが」「降板理由は…」 今だから話せる「Gメン75」ウラ話 藤田三保子×倉田保昭6”. デイリー新潮 (2025年5月11日). 2025年9月29日閲覧。
  5. ^ 【放送50年特別インタビュー】原田大二郎が振り返る『Gメン’75』の思い出、今だから話せる「関屋警部補が殉職した理由」 降板後も続いた丹波哲郎との良好な関係”. NEWSポストセブン (2025年6月23日). 2025年9月30日閲覧。

外部リンク

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