青山 忠揚 (あおやま ただたか、1886年12月25日[1] - 1938年1月17日[1])は、日本の華族(子爵)、教育家。青山家当主。 

経歴

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篠山藩藩主青山忠良の子である青山忠惇の二男として1886年(明治19年)に生まれる。はじめは「惇揚」と名乗った。第五高等学校を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学を卒業。佐賀県立鹿島中学校私立大倉商業学校奈良県立高田高等女学校長野県立上田高等女学校などで教鞭を執った。1934年(昭和9年)に旧丹波篠山藩主青山家を継ぎ、名を「忠揚」と改め、郷土の育英に尽力した。1935年(昭和10年)に襲爵し、子爵となった[2]

家族

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脚注

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  1. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 編『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年。ISBN 4642036717 
  2. ^ 日外アソシエーツ 編『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。ISBN 4-8169-1853-1 
日本の爵位
先代
青山忠敏
子爵
篠山青山家5代
1935年 - 1938年
次代
青山忠博
当主
先代
青山忠敏]
篠山藩青山家(宗家)
1934年 - 1938年
次代
青山忠博