鴨居 玲(かもい れい、男性、1928年2月3日 - 1985年9月7日[1])は、日本の洋画家である。社会や人間の闇を描いた画家であった。

下着デザイナー鴨居羊子は姉。

来歴

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石川県金沢市生まれ[2]1941年、旧制金沢中学校(現在の金沢高等学校)に入学。1946年、金沢市立金沢美術工芸専門学校(現在の金沢美術工芸大学)に入学。宮本三郎に師事する[2]1950年、金沢市立金沢美術工芸専門学校洋画科専攻を卒業[3]二紀会同人に推挙される。1952年芦屋・田中千代服装学園の講師となる。

1959年、31歳で初渡欧[2][3]1961年に帰国し[3]、二紀会を退会。1964年、創作活動に行き詰まり、南米フランスの首都パリ、イタリアの首都ローマを渡り歩く。1965年、帰国。1966年、ル・サロン(パリ、グラン・パレ)に出品し、褒賞を受賞する[3]1967年、二紀会同人に推挙される。1968年、初の個展を開催する。この時、下着デザイナーをしていた姉の鴨居羊子を通じて知り合った小説家司馬遼太郎と親交を持つ。1969年昭和会賞安井賞を受賞する[3]1971年スペインラ・マンチャ地方バルデペーニャスアトリエを構え[3]、制作に没頭する。1973年、二紀会第27回展文部大臣賞受賞[3]1984年心筋梗塞で倒れる[2]金沢美術工芸大学の非常勤講師を務めた。1985年兵庫県神戸市の自宅で急逝[3]。排ガスによる自殺であり、心臓の病気と、創作の行き詰まりから、自殺未遂を繰り返した末の死であった。享年57。

2015年、没後30年を迎え、笠間日動美術館に生前の作品や遺品を展示した「鴨居玲の部屋」が開設された[4]

自画像を含む人物画で目の玉や視線を描かないのが特徴で、その理由として「仏像の影響」を語っていた[2]。心筋梗塞で倒れる数年前、美術史家の坂崎乙郎との対談で死ぬことへの恐怖におののくことがあると語り、「自分の滅びゆく自画像」を描き続けることを「全くうまい方法」と表明し、絶筆を含めて、晩年に自画像を何枚も描いた[2]

画中のサインは初期にはRei Kamoiであったが、1971年頃からRey Camoyに改めている。

出生について

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生年月日と生地に異説があり、生年月日には1927年10月3日説が、生地には大阪府高槻市説がある。

出生届が出されていなかったため、二つ存在する戸籍謄本には「出生を認む」と書かれてあった。鴨居が病床の母・茂代(モヨ)に尋ねると、「たしか焼きいもの甘かった時バイ…」との答えが帰って来たが、どちらも焼きいもの甘い季節なので本当の生年月日は分からずじまいである。

過去には長崎県平戸市出身と書かれているものもあるが、それは後に本人が「嘘である」と訂正している。しかし両親は長崎県の人間であり、鴨居自身の本籍も長崎県である。

主な作品

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著書

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  • 『鴨居玲素描画集<酔って候>』神戸新聞出版センター、1979年
  • 『鴨居玲画集 夢候 作品1947-1984』日動出版部、1985年
  • 『鴨居玲素描集』日動出版部、1988年
  • 『鴨居玲画集』日動出版部念
  • 『踊り候え』風来舎、1989年

関連書籍

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  • 瀧悌三『一期は夢よ 鴨居玲』日動出版部 1991年
  • 伊藤誠『回想・鴨居玲』神戸新聞社 1993年
    • 新版『回想の鴨居玲 「昭和」を生き抜いた画家』神戸新聞総合出版センター 2005年
  • 牧野留美子『哀しき道化師<鴨居玲の絵画と生の軌跡>』神戸新聞総合出版センター 2003年
  • 長谷川智恵子『鴨居玲 死を見つめる男』講談社 2015年5月
  • 植松三十里『羊子と玲 鴨居姉弟の光と影』河出書房新社 2023年2月

脚注

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  1. ^ 鴨居玲』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f 【アートの扉】鴨居玲 自画像 絶筆 自問繰り返す表情毎日新聞』夕刊2022年10月3日(特集ワイド面)2022年10月23日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h 没後25年 鴨居 玲”. www.nichido-museum.or.jp. 笠間日動美術館. 2025年8月25日閲覧。
  4. ^ 鴨居玲の部屋”. 笠間日動美術館 (2015年7月1日). 2022年10月29日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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