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自身の奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示品の掲載見直し。
 
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{{日本の古墳|
|名称 = 黒塚古墳|
|画像 = [[File:Kurozuka Kofun, funkyu-1.jpg|280px]]<br/>墳丘(左に前方部、右に後円部)
所在地=奈良県天理市柳本町|
|別名 =
位置={{ウィキ座標2段度分秒|34|33|35.73|N|135|50|35.21|E|}}|
|所属 = オオヤマト古墳群<br/>(うち[[柳本古墳群]])
形状=前方後円墳|
|所在地 = [[奈良県]][[天理市]]柳本町1115ほか(字クロツカ)(柳本公園内)
規模=全長130m、高さ11m|
|緯度度 = 34|緯度分 = 33|緯度秒 = 36.15
築造年代=3世紀末~4世紀前半|
|経度度 = 135|経度分 = 50|経度秒 = 34.50
出土品=[[三角縁神獣鏡]]など|
|ISO = JP-29
史跡指定=[[平成]]13年([[2001年]])国指定|
|形状 = [[前方後円墳]]
画像=[[画像:Kuroduka kofun01s3872.jpg|250px]]<br />黒塚古墳}}
|規模 = 墳丘長130m(推定復元134m)<br/>高さ11m(後円部)
[[ファイル:Kurotsuka kohun aerial.jpg|thumb|256px|({{国土航空写真}}昭和54年度撮影画像)]]
|埋葬施設 = [[竪穴式石室]](内部に[[割竹形木棺]])
[[画像:Kuroduka kofun02s3200.jpg|thumb|200px|周濠に架かる橋]]
|出土品 = 画文帯神獣鏡1面・三角縁神獣鏡33面・武器・甲冑・農工具
|陪塚 =
|築造時期 = [[3世紀]]後半
|被葬者 =
|陵墓 =
|史跡 = 国の[[史跡]]「黒塚古墳」
|有形文化財 = 出土品(国の[[重要文化財]])
|特記事項 =
|地図 = Japan Nara
|アイコン = 前方後円墳-西
|ラベル = 黒塚古墳
|ラベル位置 = top
}}
{{OSM Location map
| coord = {{Coord|34|33|31|N|135|50|45|E}} | zoom = 16
| float = right
| width = 350| height =300
| caption = {{center|周辺古墳分布図}}
| scalemark = 60
| mark-coord1= {{Coord|34|33|25.95|N|135|50|45.75|E}}
| mark1 = blue_pog.svg
| mark-size1=8
| label1=[[大和天神山古墳|大和<br/>天神山古墳]]
| label-pos1=left
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| mark-coord2= {{Coord|34|33|27.00|N|135|50|57.48|E}}
| mark2 = blue_pog.svg
| label2=[[行燈山古墳]]<br/>(崇神天皇陵)
| label-pos2=left
| label-color2=black
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| mark-coord3= {{Coord|34|33|32.43|N|135|50|49.77|E}}
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| label3=アンド山古墳<br/>(崇神陵陪冢)
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| mark-coord4= {{Coord|34|33|29.42|N|135|50|48.20|E}}
| mark4 = blue_pog.svg
| label4=南アンド山古墳<br/>(崇神陵陪冢)
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| mark-coord5= {{Coord|34|33|36.15|N|135|50|34.50|E}}
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| label5='''黒塚古墳'''
| label-pos5=top
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| mark-coord6= {{Coord|34|33|36.27|N|135|50|38.63|E}}
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| label6=黒塚古墳<br/>展示館
| label-pos6=top
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| mark-coord7= {{Coord|34|33|32.17|N|135|50|38.50|E}}
| mark7 = green_pog.svg
| label7=柳本小学校<br/>([[柳本陣屋|柳本陣屋跡]])
| label-pos7=bottom
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}}
'''黒塚古墳'''(くろづかこふん/くろつかこふん)は、[[奈良県]][[天理市]]柳本町にある[[古墳]]。形状は[[前方後円墳]]。オオヤマト古墳群(うち[[柳本古墳群]])を構成する古墳の1つ。国の[[史跡]]に指定され、出土品は国の[[重要文化財]]に指定されている。
 
ほぼ未盗掘状態の竪穴式石室の発掘調査が実施され、画文帯神獣鏡1面・[[三角縁神獣鏡]]33面からなる銅鏡群や武器・甲冑などの多量の副葬品が出土したことで知られる。
'''黒塚古墳'''(くろつかこふん、くろづかこふん)は、[[奈良県]][[天理市]]柳本町にある前期(3世紀末頃)[[前方後円墳]]。33面の[[三角縁神獣鏡]]が出土したことで有名。
 
== 憤形・形状概要 ==
[[奈良盆地]]東縁、[[行燈山古墳]]([[崇神天皇]]陵)の西約500メートルの位置において、東西方向の尾根状地形上に築造された大型前方後円墳である。[[中世]]に地震による石室の崩壊後に盗掘に遭っているほか、中世・近世に柳本城の付城や[[柳本陣屋]]の一部として利用され、墳丘は大きく改変されている。[[1961年]]([[昭和]]36年)以降に5次の調査が実施されており、特に[[1997年|1997]]-[[1998年]]([[平成]]9-10年)の学術調査の際に多数の三角縁神獣鏡が出土している。
後円部3段、前方部2段で前方部と後円部の落差が大きい。前方部正面にわずかな弧状のふくらみが見られ撥形であることが分かる。これらは、前期古墳の特徴である。周濠を持っている。
 
墳形は前方後円形で、前方部を西方向に向ける。墳丘は、後円部では3段築成、前方部では2段築成で<ref name="展示解説"/>、大部分は盛土により、墳丘長は130メートル(推定復元134メートル)を測る{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。墳丘外表で[[埴輪]]は確認されておらず、[[葺石]]もなかったとみられる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。埋葬施設は後円部中央における[[竪穴式石室]](竪穴式石槨)である。全長8.2メートルを測る長大な石室で、内部に[[割竹形木棺]]を据えたとみられる。石室内の人骨は失われていたが、棺内から画文帯神獣鏡1・鉄刀1・鉄剣1・刀子状鉄製品1が、棺外から[[三角縁神獣鏡]]33面・刀剣・鉄鏃・Y字形鉄製品・U字形鉄製品・甲冑・工具・土師器など豊富な副葬品が出土している。
== 発掘調査とその後 ==
[[1997年]]([[平成]]9年)から翌年にかけて[[奈良県立橿原考古学研究所]]が行った第3次発掘調査で、[[三角縁神獣鏡]]33面と画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見された。
 
築造時期は、[[古墳時代]]前期前半の[[3世紀]]後半頃と推定される<ref>[https://www.city.tenri.nara.jp/kakuka/kyouikuiinkai/bunkazaika/kurozuka/1391480910776.html 黒塚古墳竪穴式石室](天理市ホームページ)。</ref><ref name="八木書店">[https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/2177 黒塚古墳の研究](八木書店)。</ref>。初期[[ヤマト王権]]の中枢を構成するオオヤマト古墳群において、ほぼ未盗掘の状態で発掘調査が実施されて埋葬施設の全容が判明した唯一の例であり、銅鏡や鉄製品の多量出土によって、前期古墳の定点として古墳時代研究において不可欠な位置づけにある古墳である<ref name="八木書店"/>。
棺内には被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡と両側に[[刀]]1・[[剣]]1をおき、棺外に東壁側15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を内側に向けて木棺と壁のわずかな間に立てられていた。刀剣類や鉄鏃・小札(こざね)・用途不明の鉄製品などを配置してあった。玉類や腕装飾品類は出ていない。
 
古墳域は[[2001年]](平成13年)に国の[[史跡]]に指定され、出土品は[[2004年]](平成16年)に国の[[重要文化財]]に指定されている。現在では史跡整備のうえで柳本公園内で公開され、石室は[[天理市立黒塚古墳展示館]]内で複製展示されている。
後円部の埋葬施設は[[竪穴式石室]]で、内法長約8.3メートル、北小口幅0.9メートル、高さ約1.7メートルで、二上山麓の春日山と芝山の板石を[[持ち送り]]に積んで合掌造状の天井を作り出している。石室内では、粘土棺床が設けられ、断面半円形の全長1メートル以上の刳抜式木[[棺]]が納められている。木棺には中央部の長さ2.8メートルの範囲のみ[[水銀]][[朱 (顔料)|朱]]を施し、両端は[[弁柄|ベンガラ]]の[[赤|赤色]]で塗られていた模様である。水銀朱のところに安置されていたものと考えられている。なおこの縦穴石室は、ほぼ真北を向いており、被葬者の頭も真北に向けられていたことは推定できる。この真北は単なる偶然ではなく、ヤマト王権の中に被葬者の頭を真北に向けて埋葬する風習があったらしいと考えられている。
 
== 遺跡歴 ==
* [[鎌倉時代]]頃、地震で石室が崩壊。その後に石室の盗掘{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
* [[元亀]]2年([[1571年]])、[[十市氏]]が柳本に付城を築城(黒塚古墳の城郭化:柳本城付城)<ref name="展示解説"/>。
* [[天正]]5年([[1577年]])、松永金吾が「クロツカ」で自害<ref name="展示解説"/>。
* [[寛永]]年間([[1624年|1624]]-[[1644年]])、[[柳本陣屋]]の設置(黒塚古墳の陣屋の一部への取り込み)<ref name="展示解説">天理市立黒塚古墳展示館展示解説。</ref>。
* 幕末-明治期、盛土{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
* [[1961年]]([[昭和]]36年)、児童公園整備に伴う墳丘測量・前方部発掘調査(奈良県教育委員会、[[1963年]]に報告)。
* [[1981年]]度(昭和56年度)、墳丘測量調査(奈良県立橿原考古学研究所、[[1983年]]に報告)。
* [[1988年|1988]]-[[1989年]](昭和63-[[平成]]元年)、公園整備の護岸工事に伴う墳丘裾部の発掘調査(天理市教育委員会、[[1992年]]に概要報告){{Sfn|天理市埋蔵文化財調査概報 昭和63・平成元年度|1992}}。
* [[1997年|1997]]-[[1998年]](平成9-10年)、学術調査(奈良県立橿原考古学研究所・天理市教育委員会、[[1999年]]に概要報告・[[2018年]]に本報告)。
* [[2001年]](平成13年)1月29日、国の[[史跡]]に指定。
* [[2002年]](平成14年)10月12日、[[天理市立黒塚古墳展示館]]の開館。
* [[2003年|2003]]-[[2004年]]度(平成15-16年度)、史跡整備(天理市教育委員会、[[2005年]]に報告){{Sfn|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}。
* 2004年(平成16年)6月8日、出土品が国の[[重要文化財]]に指定。
 
== 墳丘 ==
古墳は天理市によって整備が行われ、柳本公園となっているほか、古墳に隣接して竪穴式石室の実物大模型などを展示する「[[天理市立黒塚古墳展示館]]」が設けられている。[[平成]]13年([[2001年]])[[1月29日]]国の[[史跡]]に指定された。
[[File:080515 Kuroduka Kofun aerial.jpg|thumb|300px|right|{{center|黒塚古墳の空中写真(2008年)}}{{Small|{{国土航空写真}}。}}]]
墳丘の規模は次の通り{{Sfn|続日本古墳大辞典|2002}}<ref name="展示解説">天理市立黒塚古墳展示館展示解説。</ref>。
* 墳丘長:約130メートル(推定復元134メートル)
* 後円部
** 直径:約72メートル
** 高さ:約11メートル
* 前方部
** 高さ:約6メートル
墳丘は東西方向の尾根状地形上にあり、南北両側には谷地形が認められる<ref name="展示解説"/>。墳丘の大部分は盛土による{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
中世・近世に柳本城の付城や[[柳本陣屋]]の一部として利用されたため、墳丘は大きく改変されている。墳丘周囲の三方は池に囲まれ、前方部と後円部に堤が築かれているが、これらは[[江戸時代]]以降の築堤とされる{{Sfn|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には古墳に柳本城を築城、[[江戸時代]]織田家が城跡に[[柳本陣屋]]を構築し[[柳本藩]]藩庁とした。
<gallery>
Kurotsuka kohun aerial.jpg|空中写真(1979年)
Kurozuka Kofun, funcho.jpg|後円部墳頂
Kurozuka Kofun, funkyu-2.jpg|墳丘<br/>{{small|左に前方部、右奥に後円部。}}
Kurozuka Kofun, kouenbu.jpg|前方部から後円部を望む
Kurozuka Kofun, zenpoubu.jpg|後円部から前方部を望む
</gallery>
 
== 周辺情報埋葬施設 ==
[[ファイル:黒塚古墳 復元竪穴式石室 北上から.JPG|thumb|250px|right|{{center|[[竪穴式石室]](複製)}}{{small|北から南方向。天理市立黒塚古墳展示館展示。}}]]
*[[行燈山古墳]] ([[崇神天皇]]陵)
埋葬施設としては、後円部中央において[[竪穴式石室]](竪穴式石槨)が構築されている。石室の主軸は南北方向で、墳丘主軸と直交する。地震や盗掘に遭って大きく破壊されているが、南小口部は完存する。地震によって早い段階で石室床面が埋もれたことで、調査時に床面の約9割は原位置を保っていたが、逆に完存した南小口部は盗掘で撹乱されていた{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。石室を納める墓坑は、墳丘構築途中で築かれた構築墓坑で{{Sfn|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}、復元規模で南北約19メートル・東西約15メートル・深さ約4メートルを測る{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。また鞍部から後円部までの切り通し状の石室作業道(墓道)や、石組暗渠の排水溝が確認されている{{Sfn|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}。
*[[渋谷向山古墳]] ([[景行天皇]]陵)
 
*[[西殿塚古墳]]([[手白香皇女]]衾田陵)
石室の内法規模は、長さ8.20メートル・幅0.89-1.22メートル・高さ1.58メートル(南端)を測る{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。石室の石材は、[[花崗岩]]を主体とする川原石と[[二上山]]南麓産の板石(春日山安山岩・芝山玄武岩){{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。下部1/3の約50センチメートルは川原石を小口積みで3-4段垂直に積み、その上に板石を強く持ち送りながら小口積みで積んでおり、天井は合掌形を呈する{{Sfn|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。明確な天井石を架構せず、石室上部は板石と粘土で被覆する{{Sfn|続日本古墳大辞典|2002}}。床面には両小口部に0.5-1.0メートルの空間を残して、中央部に長さ約6.3メートル・幅約0.7-0.85メートルの範囲で粘土棺床を形成して木棺を据える{{Sfn|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}。
*[[櫛山古墳]]
 
*[[長岳寺]]
石室内に据えた木棺は、粘土棺床の形状から[[割竹形木棺]]とみられる。木棺は腐朽しているが、長さ6.09メートル・直径0.92-1.01メートル程度に復元される{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。棺中央部では水銀朱が、それ以外の部分ではベンガラが確認されており、中央部の長さ約2.7メートル・幅0.45メートル分だけを刳り抜いて他の部分は刳り残したとされる{{Sfn|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。鏡付着木片からは[[クワ]]属の巨木とみられ、[[コウヤマキ]]を一般的に使用するオオヤマト古墳群の他の古墳とは異にする{{Sfn|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}。木棺内の人骨は失われていたが、北側がやや高いことから北頭位とみられ<ref name="展示解説"/>、頭部付近とみられる刳り抜き部の北端では文様面を内側(南側)に向けて画文帯神獣鏡を立てかける{{Sfn|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}。また木棺内からは鉄剣・鉄刀各1口が出土しているが、装身具類は出土していない{{Sfn|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}。
 
棺外では、三角縁神獣鏡33面・刀剣類・鉄鏃・小札・土師器などが出土しており、東棺外・西棺外に多くが集中する。東棺外では三角縁神獣鏡15面のほか素環頭大刀など刀剣・ヤリ・Y字形鉄製品・有機質製品を、西棺外では三角縁神獣鏡17面のほか素環頭大刀など刀剣・ヤリ・刺突具・不明鉄器を配しており、いずれも木棺と石室側壁の隙間から木棺蓋上にかけて重ねる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。三角縁神獣鏡は個々に布に包まれたか布袋に容れられたとみられ、刀剣類は抜き身で布に巻かれたとみられる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。北棺外では東西約1.1メートル・南北約0.7メートル程度の礫敷きの空間があり<ref name="展示解説"/>、木棺北小口に立てかけた漆塗り大型有機質製品の上に三角縁神獣鏡・刺突具・U字形鉄製品を置いたと復元される{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。南棺外の撹乱からは甲冑小札・鉄鏃・工具類・土器類が出土している{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。鉄鏃は、約270点以上が16群に分かれ、棺外各所から出土している{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
現在では、天理市立黒塚古墳展示館において竪穴式石室の実物大複製が展示されている。
<gallery>
黒塚古墳 復元竪穴式石室 東壁.JPG|東壁
黒塚古墳 復元竪穴式石室 北から-2.JPG|北小口から南小口方向
黒塚古墳 復元竪穴式石室 西壁.JPG|西壁
</gallery>
 
== 出土品 ==
=== 一覧 ===
黒塚古墳の調査で出土した副葬品は次の通り{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
; 棺内出土
:* 画文帯神獣鏡 1
:* 刀 1
:* 剣 1
:* ヤリ 1
; 棺外出土
:* 北棺外
:** 三角縁神獣鏡 1(17号鏡)
:** 刺突具 2
:** U字形鉄製品 1
:** 漆塗り大型有機質製品
:* 南棺外(撹乱)
:** 甲冑小札 約1700(実数約1100) - 小札革綴冑など。
:** 鉄鏃
:** 刀子
:** 鉄斧
:** 鎌
:** 鉇
:** 土器 - 小形甕2・椀形低脚高坏1など。
:* 東棺外
:** 三角縁神獣鏡 15(18-32号鏡)
:** 素環頭大刀 1
:** 直刀 3
:** 剣 1
:** ヤリ 6
:** Y字形鉄製品 2
:** 有機質製品 2
:* 西棺外
:** 三角縁神獣鏡 17(1-16・33号鏡)
:** 素環頭大刀 2
:** 直刀 10
:** 剣 1
:** ヤリ 6
:** 刺突具 1
:** 不明鉄器 1
 
=== 銅鏡 ===
銅鏡として、棺内から画文帯神獣鏡1面、棺外から三角縁神獣鏡33面、合計34面が出土している。[[椿井大塚山古墳]]では銅鏡32面以上の出土が知られ、それに匹敵する出土数になる。棺内外で画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡の使い分けが明確な点で注目される{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
画文帯神獣鏡1面は、直径13.5センチメートルとやや小型の鏡で、棺内頭部付近において鏡背面を南に向けて立った状態で出土している{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。鏡背には伯牙・西王母・東王父などの古代中国の道教の神々を描き、文様の外側には「吾作明竟自有紀□□公宜子」の銘文を刻み、鏡縁の画文帯には雲車・走獣・仙人などを描く{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。後漢末-三国時代初め頃の作とみられる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
三角縁神獣鏡33面は、全て舶載鏡(中国製鏡)とされ、そのうち7種15面は同笵鏡・同型鏡の兄弟関係にある<ref name="展示解説"/>。木棺北半部に沿ったコ字形で棺西側に17面、北小口に1面、棺東側に15面が出土しており(木棺蓋上に置いたものが床面上に落ちた状態か<ref name="展示解説"/>)、個々に布に包まれたか布袋に容れられたとみられる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。鏡背には西王母・東王父などの古代中国の道教の神々や神獣を描く{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。ほとんどの鏡で銘文を刻んでおり、銘文の大部分は吉祥句であるが、一部に「銅出徐州」(3・22号鏡)・「同出徐州」(32号鏡)・「師出洛陽」(3号鏡、師は鏡工匠を指す)の中国の地名がみられ、三角縁神獣鏡の製作地を[[魏 (三国)|魏]]に求める根拠となっている{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。出土した33面は、調査時点での出土総数の約1割になるが、新鏡種は3種類のみでその他は既知鏡種の同笵鏡・同型鏡である{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。そのため、今後に三角縁神獣鏡の出土数が増えたとしても、既知鏡種の同笵鏡・同型鏡が増えるのみで、新鏡種はあまり増えないと想定される{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
{| class="wikitable" style="text-align:left;background:#ffffff;white-space:nowrap;font-size:85%"
|+黒塚古墳出土鏡{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}
!番号!!鏡式!!面径!!同笵鏡・同型鏡!!複製鏡<ref>天理市立黒塚古墳展示館展示。</ref>
|-
|colspan=6 style="background-color:#C0C0C0;"|'''棺内出土'''
|-
|'''画文帯<br/>神獣鏡'''||画文帯神獣鏡||13.5cm||
|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 画文帯神獣鏡 (複製).JPG|画文帯神獣鏡
</gallery>
|-
|colspan=6 style="background-color:#C0C0C0;"|'''棺外出土'''
|-
|'''1号鏡'''||三角縁張是作六神四獣鏡||22.9cm||[[宮谷古墳]]<br/>[[内里古墳]]
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 1号鏡.JPG|1号鏡
黒塚古墳 2号鏡 (複製).JPG|2号鏡
黒塚古墳 3号鏡 (複製).JPG|3号鏡
</gallery>
|-
|'''2号鏡'''||三角縁天王・日月・獣文帯四神四獣鏡||23.8cm||[[石塚山古墳]]<br/>[[備前車塚古墳]]<br/>[[新山古墳]]<br/>黒塚古墳27号鏡<br/>黒塚古墳33号鏡
|-
|'''3号鏡'''||三角縁新作徐州銘四神四獣鏡||23.2cm||備前車塚古墳<br/>[[北山古墳 (向日市)|北山古墳]]<br/>[[綾部山古墳]]<br/>[[茶臼塚古墳 (柏原市)|国分茶臼山古墳]]
|-
|'''4号鏡'''||三角縁吾作四神四獣鏡||20.0cm||石塚山古墳<br/>[[中小田古墳群|中小田1号墳]]<br/>[[万年山古墳]]<br/>[[椿井大塚山古墳]]M7<br/>椿井大塚山古墳M8<br/>[[西求女塚古墳]]
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 4号鏡 (複製).JPG|4号鏡
黒塚古墳 5号鏡 (複製).JPG|5号鏡
黒塚古墳 6号鏡 (複製).JPG|6号鏡
</gallery>
|-
|'''5号鏡'''||三角縁天王・日月・獣文帯五神四獣鏡||22.5cm||[[桜井茶臼山古墳]]<br/>[[前橋天神山古墳]]
|-
|'''6号鏡'''||三角縁陳是作四神四獣鏡||22.0cm||伝上野国三本木
|-
|'''7号鏡'''||三角縁陳・是・作・竟・四神四獣鏡||22.3cm||西山2号墳<br/>伝岡山県
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 7号鏡 (複製).JPG|7号鏡
黒塚古墳 8号鏡 (複製).JPG|8号鏡
黒塚古墳 9号鏡 (複製).JPG|9号鏡
</gallery>
|-
|'''8号鏡'''||三角縁神人龍虎画像鏡||22.3cm||
|-
|'''9号鏡'''||三角縁天王日月・獣文帯四神四獣鏡||23.3cm||椿井大塚山古墳M34<br/>[[龍門寺古墳群|龍門寺1号墳]]<br/>[[持田古墳群|持田古墳]](推定)
|-
|'''10号鏡'''||三角縁吾作三神四獣鏡||21.8cm||[[水堂古墳]]<br/>西求女塚4号鏡<br/>[[芝ヶ原11号墳]]
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 10号鏡 (複製).JPG|10号鏡
黒塚古墳 11号鏡 (複製).JPG|11号鏡
黒塚古墳 12号鏡 (複製).JPG|12号鏡
</gallery>
|-
|'''11号鏡'''||三角縁吾作四神四獣鏡||22.0cm||黒塚古墳25号鏡
|-
|'''12号鏡'''||三角縁吾作四神四獣鏡||21.8cm||黒塚古墳31号鏡
|-
|'''13号鏡'''||三角縁張是作四神四獣鏡||21.8cm||椿井大塚山古墳M6<br/>黒塚古墳26号鏡
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 13号鏡 (複製).JPG|13号鏡
黒塚古墳 14号鏡 (複製).JPG|14号鏡
黒塚古墳 15号鏡 (複製).JPG|15号鏡
</gallery>
|-
|'''14号鏡'''||三角縁画文帯六神三獣鏡||21.8cm||桜井茶臼山古墳<br/>東天神18号墳
|-
|'''15号鏡'''||三角縁天・王・日・月・吉・獣文帯四神四獣鏡||22.2cm||[[佐味田宝塚古墳]]
|-
|'''16号鏡'''||三角縁張氏作三神五獣鏡||22.7cm||奥3号墳<br/>[[権現山51号墳]]2号鏡<br/>椿井大塚山古墳M21<br/>[[連福寺古墳]]<br/>伝上野国三本木<br/>黒塚古墳18号鏡<br/>[[泉屋博古館]]蔵M23<br/>泉屋博古館蔵M24
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 16号鏡 (複製).JPG|16号鏡
黒塚古墳 17号鏡 (複製).JPG|17号鏡
黒塚古墳 18号鏡 (複製).JPG|18号鏡
</gallery>
|-
|'''17号鏡'''||三角縁波文帯盤龍鏡||24.7cm||[[和泉黄金塚古墳]]東槨<br/>椿井大塚山古墳M35<br/>伝奥津神社
|-
|'''18号鏡'''||三角縁張氏作三神五獣鏡||22.6cm||(黒塚古墳16号鏡)
|-
|'''19号鏡'''||三角縁吾作四神四獣鏡||22.3cm||西求女塚古墳2号鏡<br/>泉屋博古館蔵M25
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 19号鏡 (複製).JPG|19号鏡
黒塚古墳 20号鏡 (複製).JPG|20号鏡
黒塚古墳 21号鏡 (複製).JPG|21号鏡
</gallery>
|-
|'''20号鏡'''||三角縁王氏作徐州銘四神四獣鏡||22.3cm||[[老司古墳]]<br/>[[古冨波山古墳]]<br/>黒塚古墳32号鏡<br/>[[フーリア美術館]]蔵
|-
|'''21号鏡'''||三角縁張氏作四神四獣鏡||23.7cm||西山古墳<!--香川--><br/>椿井大塚山古墳M4<br/>伝奥津神社
|-
|'''22号鏡'''||三角縁吾作徐州銘四神四獣鏡||22.5cm||椿井大塚山古墳M5<br/>佐味田宝塚古墳<br/>内山1号墳<!--岐阜--><br/>西求女塚古墳9号鏡
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 22号鏡 (複製).JPG|22号鏡
黒塚古墳 23号鏡 (複製).JPG|23号鏡
黒塚古墳 24号鏡 (複製).JPG|24号鏡
</gallery>
|-
|'''23号鏡'''||三角縁吾作三神五獣鏡||21.9cm||[[コヤダニ古墳]]<br/>伝椿井大塚山古墳<br/>古冨波山古墳<br/>[[上平川大塚古墳]]
|-
|'''24号鏡'''||三角縁天王日月・唐草文帯四神四獣鏡||23.7cm||[[吉島古墳]]1号鏡<br/>吉島古墳2号鏡<br/>佐味田宝塚古墳<br/>椿井大塚山古墳M3<br/>[[雪野山古墳]]<br/>[[赤門上古墳]]<br/>[[東京国立博物館]]蔵
|-
|'''25号鏡'''||三角縁吾作四神四獣鏡||22.0cm||(黒塚古墳11号鏡)
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 25号鏡 (複製).JPG|25号鏡
黒塚古墳 26号鏡 (複製).JPG|26号鏡
黒塚古墳 27号鏡 (複製).JPG|27号鏡
</gallery>
|-
|'''26号鏡'''||三角縁張是作四神四獣鏡||21.8cm||(黒塚古墳13号鏡)
|-
|'''27号鏡'''||三角縁天王・日月・獣文帯四神四獣鏡||23.4cm||(黒塚古墳2・33号鏡)
|-
|'''28号鏡'''||三角縁天王日月・獣文帯四神四獣鏡||22.5cm||椿井大塚山古墳M12<br/>[[石切剣箭神社|石切神社]]蔵
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 26号鏡 (複製).JPG|26号鏡
黒塚古墳 27号鏡 (複製).JPG|27号鏡
黒塚古墳 28号鏡 (複製).JPG|28号鏡
</gallery>
|-
|'''29号鏡'''||三角縁天王・日月・獣文帯四神四獣鏡||22.0cm||石塚山古墳3号鏡<br/>[[御陵韓人池古墳]]<br/>黒塚古墳30号鏡
|-
|'''30号鏡'''||三角縁天王・日月・獣文帯四神四獣鏡||22.0cm||(黒塚古墳29号鏡)
|-
|'''31号鏡'''||三角縁吾作四神四獣鏡||22.0cm||(黒塚古墳12号鏡)
|rowspan=3|<gallery mode="packed" heights="120">
黒塚古墳 31号鏡 (複製).JPG|31号鏡
黒塚古墳 32号鏡 (複製).JPG|32号鏡
黒塚古墳 33号鏡 (複製).JPG|33号鏡
</gallery>
|-
|'''32号鏡'''||三角縁王氏作徐州銘四神四獣鏡||22.3cm||(黒塚古墳20号鏡)
|-
|'''33号鏡'''||三角縁天王・日月・獣文帯四神四獣鏡||23.7cm||(黒塚古墳2・27号鏡)
|}
 
=== 武具 ===
甲冑などの武具は、石室内南端部に集中する。この部分は盗掘に遭っているため、具体的な位置・状態は明らかでない{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
武具を構成した小札は、破片を含めた総数として約1700点、実数として約1000点があり、フレームとなる鉄板類も出土している{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。小札のなかには小札革綴冑として復元可能なものがあるが、その他の詳細は明らかでない{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。古墳出土の武具としては最古級の部類になり、最初期から日本列島独自の仕様として注目される{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
=== 武器 ===
武器としては、素環頭大刀・直刀・ヤリ・剣・鉄鏃など多数がある。棺内からは直刀・ヤリ・剣が各1点出土し、棺外からは素環頭大刀3点を含む直刀16点・ヤリ13点・剣2点が出土しており、刀剣類は34点におよぶ{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。棺外の直刀には木製柄は認められるものの木製鞘は認められず、抜き身で数点を布に容れて配置したとみられ、複数点が固まって錆びついた状態で出土している{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
鉄鏃は270点以上があり、13型式が認められる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。柳葉式・定角式・鑿頭式・A字形の短茎鏃を中心として、柳葉式無茎鏃・三角型式の有稜系鉄鏃・腸抉柳葉式などが伴う{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。10数本ずつの束で出土しているため、靫などの盛矢具に入れたとみられる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。弓は確認されていない{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
三角縁神獣鏡の多量出土と合わせて、鉄製武器の多量出土としても特色を示し、特に鉄鏃の出土量は前期古墳としては全国で最多になる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
=== 鉄製威儀具 ===
武器・工具類に属さない特殊な鉄器として、Y字形鉄製品・U字形鉄製品がある。いずれも実用ではなく、儀仗用と推測される{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
Y字形鉄製品は、2点がある。「Y」字形に二股に分かれた鉄器で、茎部を木製柄等に装着したとみられる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。類例は、[[安土瓢箪山古墳]]・[[妙見山古墳]]・[[東之宮古墳]]で知られる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
U字形鉄製品は、1点がある。「U」字形の大小の鉄製フレームの間を鉄管で鋸歯文状に繋いだ形状である{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。フレーム間には布を張ったとみられる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。使用方法は明らかでないが、旗や幡になる可能性がある{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。類例は知られず、非常に特殊な製品になる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
=== 農工具 ===
農工具としては、石室南小口から鉄鎌3点・鉄斧10点(大型6点・小型4点)・刀子12点・鉇9点以上が、刺突具3組が石室北小口・西棺外から出土している{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。その他にも、ピンセット状鉄器4点が布に包まれて出土するなど、用途不明の製品がある{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
=== 土器 ===
土器としては、約1470点の破片が出土している{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。石室内出土土器としては小形甕2点・椀形低脚高坏1点があり、埋葬儀礼の際に使用されたとみられ、布留0式新相に位置づけられる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。盗掘坑内からは赤彩二重口縁壺が出土しており、石室上か墓坑上に配された可能性がある{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。墓坑埋土や墳丘盛土からも多数の土器が出土しているが、これらは古墳築造時以前の集落や包蔵地の資料とされる{{Sfn|黒塚古墳のすべて|2018}}。
 
== 後世の城郭化 ==
[[File:Kurozuka Kofun, hori.jpg|thumb|250px|right|{{center|後円部・前方部間の掘割標示}}{{small|左奥に後円部墳丘。}}]]
黒塚古墳のある柳本の地には、中世には興福寺領荘園の楊本庄が置かれ、荘官を楊本氏が務めた<ref name="展示解説"/>。楊本氏は15世紀後半-16世紀前半に[[十市氏]]と抗争して没落し、その後は十市氏が支配した<ref name="展示解説"/>。十市氏は[[元亀]]2年([[1571年]])に柳本に付城を造らせたとされ、この頃に黒塚古墳が城郭化した可能性が高いとされる<ref name="展示解説"/>。
 
[[天正]]3年([[1575年]])には、[[松永久秀]]の一族の松永金吾が入城<ref name="展示解説"/>。天正5年([[1577年]])に[[織田信長]]の松永攻めが始まった際に、松永金吾は「クロツカ」で自害したという<ref name="展示解説"/>。
 
[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])には、[[織田長益]]の五男の[[織田尚長]]が初代柳本藩主となり、[[寛永]]年間([[1624年|1624]]-[[1644年]])に[[柳本陣屋]]を構えたとされる<ref name="展示解説"/>。柳本陣屋の御殿は天理市立柳本小学校の位置にあり、明治の[[廃藩置県]]まで存続し、[[嘉永]]7年([[1854年]])の「柳本陣屋絵図」では黒塚古墳を陣屋の一部に取り込んでいた様子が示されている<ref name="展示解説"/>。
 
黒塚古墳の城郭遺構として、後円部では4郭(郭1-4)、前方部では3郭(郭5-7)のひな壇状の造成が認められる。また後円部と前方部の間には、幅約6.7メートル・深さ約3.4メートルの大規模なV字状の掘割が確認されている<ref name="展示解説"/>。
 
== 文化財 ==
=== 重要文化財(国指定) ===
* 奈良県黒塚古墳出土品(考古資料) - 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館保管。2004年(平成16年)6月8日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|201|00010620|奈良県黒塚古墳出土品}}</ref>。
** 銅鏡 34面
** 鉄製品 210点
** 土師器 3点
** 附 木製品 1点
 
=== 国の史跡 ===
* 黒塚古墳 - 2001年(平成13年)1月29日指定<ref>{{国指定文化財等データベース|401|3283|黒塚古墳}}</ref>。
 
== 現地情報 ==
[[File:Kuroduka kofun museum01s3200.jpg|thumb|250px|right|{{center|[[天理市立黒塚古墳展示館]]}}]]
[[File:Yanagimoto Domain Residence, gaikan.jpg|thumb|250px|right|{{center|[[柳本陣屋|柳本陣屋跡]](天理市立柳本小学校)}}]]
; 所在地
:* [[奈良県]][[天理市]]柳本町1115ほか(柳本公園内)
; 交通アクセス
:* 鉄道:[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[桜井線]](万葉まほろば線)[[柳本駅]](徒歩約5分)
; 関連施設
:* [[天理市立黒塚古墳展示館]](天理市柳本町) - 黒塚古墳に隣接。竪穴式石室複製・出土複製品を展示。
:* [[奈良県立橿原考古学研究所]]附属博物館(橿原市畝傍町) - 黒塚古墳の出土品を展示。
; 周辺
:* [[柳本陣屋|柳本陣屋跡]](現在は天理市立柳本小学校)
:* [[行燈山古墳]](崇神天皇陵)
:* [[櫛山古墳]] - 国の史跡。
:* [[大和天神山古墳]] - 奈良県指定史跡。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
{{small|(記事執筆に使用した文献)}}
* 史跡説明板(天理市教育委員会、2010年設置)
* {{PDFlink|[https://www.city.tenri.nara.jp/material/files/group/36/46977018.pdf 「史跡黒塚古墳 -復元竪穴式石室と三角縁神獣鏡-」]}}天理市立黒塚古墳展示館、2002年(黒塚古墳パンフレット、リンクは天理市ホームページ)
* 奈良県立橿原考古学研究所発行
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2018|chapter=|title=黒塚古墳のすべて|series=奈良県立橿原考古学研究所附属博物館特別展図録第88冊 橿原考古学研究所創立80周年関連事業 平成29年度秋季特別展|publisher=奈良県立橿原考古学研究所附属博物館|isbn=|ref={{Harvid|黒塚古墳のすべて|2018}}}}
* 天理市教育委員会発行
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1992|chapter=黒塚古墳(第1・2次)|title=[https://sitereports.nabunken.go.jp/740 天理市埋蔵文化財調査概報]|volume=昭和63・平成元年度|publisher=天理市教育委員会|isbn=|pages=|ref={{Harvid|天理市埋蔵文化財調査概報 昭和63・平成元年度|1992}}}} - リンクは奈良文化財研究所「全国文化財総覧」。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2005|chapter=|title=[https://sitereports.nabunken.go.jp/1472 史跡黒塚古墳整備事業報告書]|publisher=天理市教育委員会|isbn=|ref={{Harvid|史跡黒塚古墳整備事業報告書|2005}}}} - リンクは奈良文化財研究所「全国文化財総覧」。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2015|chapter=黒塚古墳|title=天理の古墳100|publisher=天理市教育委員会|isbn=|pages=|ref={{Harvid|天理の古墳100|2015}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2024|chapter=黒塚古墳|title=山辺の古墳文化 大和古墳群と柳本古墳群|publisher=天理市教育委員会|isbn=|pages=|ref={{Harvid|大和古墳群と柳本古墳群|2024}}}}
* 事典類
** {{Cite book|和書|editor=|author=[[大塚初重]]・新井悟|year=|chapter=黒塚古墳|title=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|publisher=[[小学館]]|isbn=|ref={{Harvid|日本大百科全書(ニッポニカ)}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1981|chapter=黒塚古墳|title=奈良県の地名|series=[[日本歴史地名大系]]30|publisher=[[平凡社]]|isbn=4-582-49030-1|ref={{Harvid|奈良県の地名|1981}}}}
*** {{Wikicite|reference=刊行後版(ジャパンナレッジ収録)、2006年|ref={{Harvid|奈良県の地名 刊行後版|2006}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=|author=岡林孝作|year=2002|chapter=黒塚古墳|title=[[日本古墳大辞典|続 日本古墳大辞典]]|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=4490105991|ref={{Harvid|続日本古墳大辞典|2002}}}}
 
== 関連文献 ==
{{small|(記事執筆に使用していない関連文献)}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1963|chapter=天理市柳本町黒塚古墳第1次調査|title=奈良県文化財調査報告書|series=|volume=第6集|publisher=奈良県教育委員会|isbn=|ref=}}
* {{Cite book|和書|editor=奈良県立橿原考古学研究所|author=|year=1983|chapter=黒塚東遺跡発掘調査概報 付載 黒塚古墳測量調査報告|title=奈良県遺跡調査概報|series=|volume=1981年度第2分冊|publisher=奈良県教育委員会|isbn=|ref=}}
* {{PDFlink|[https://www.kashikoken.jp/under_construction/wp-content/uploads/2017/06/199801_kurotsuka.pdf 黒塚古墳 現地説明会資料]}}奈良県立橿原考古学研究所、1998年1月。
* {{Cite book|和書|editor=奈良県立橿原考古学研究所|author=|year=1998|chapter=|title=黒塚古墳調査概報|series=大和の前期古墳3|publisher=学生社|isbn=|ref=}}
* {{Cite book|和書|editor=奈良県教育委員会・奈良県立橿原考古学研究所・天理市教育委員会|author=|year=1999|chapter=|title=黒塚古墳調査概報|publisher=奈良県立橿原考古学研究所|isbn=|ref=}}
* {{Cite journal|和書|author=河上邦彦・泉武・宮原晋一・卜部行弘・岡林孝作・名倉聡|title=[https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/6/7/6_7_95/_article/-char/ja/ 発掘調査概要 黒塚古墳の発掘調査 -奈良県天理市柳本町所在-]|date=1999-05|journal=日本考古学|publisher=日本考古学協会|volume=6|number=7|pages=95-104|url=|ref=}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=岡林孝作|year=2001|chapter=黒塚古墳|title=大和前方後円墳集成|series=橿原考古学研究所研究成果第4冊|publisher=奈良県立橿原考古学研究所|isbn=|pages=|ref=}}
* {{Cite book|和書|editor=奈良県立橿原考古学研究所|author=|year=2018|chapter=|title=黒塚古墳の研究|publisher=八木書店古書出版部|isbn=|ref=}}
 
== 関連項目 ==
* [[日本の椿井大塚山古墳一覧]]
* [[柳本陣屋]]
*[[近畿の史跡一覧]]
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kurozuka Kofun}}
{{Commons|Category:Kuroduka-kofun}}
* [https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/3283 黒塚古墳]、[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/00010620 奈良県黒塚古墳出土品] - 国指定文化財等データベース([[文化庁]])
* [[奈良県立橿原考古学研究所]]黒塚古墳現地説明会資料 - [http://www.kashikoken.jp/from-site/kuro-97.htm 1998年1月]、[http://www.kashikoken.jp/from-site/kuro-98.htm 1999年1月]
* [http://www.city.tenri.nara.jp/kakuka/kyouikuiinkai/bunkazaika/kurozuka/index.html 黒塚古墳] - 天理市ホームページ
* [https://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/kuroduka.html 黒塚古墳] - 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
 
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[[Category:柳本古墳群]]
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[[Category:奈良県の古墳]]
[[Category:天理市の歴史]]
[[Category:前方後円墳]]
[[Category:奈良県の重要文化財]]
[[Category:奈良県にある国指定の史跡]]
[[Category:山辺の道]]
[[Category:天理市]]