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== 概要 ==
[[大日本帝国憲法]]下で離合集散が続いていた[[無産政党]](合法的社会主義政党)の主要党派の合同により結党。1937年の[[第20回衆議院議員総選挙]]では[[立憲民政党]]、[[立憲政友会]]の[[二大政党]]に次ぐ第三党の地位を得る。この頃から、日本の政治体制を[[国家社会主義]]へと移行させる運動([[新体制運動]])が起こるとこれを積極的に推進。1940年、[[大政翼賛運動]]の旗振り役として、先陣を切る形で解党、いわゆる近衛新党([[大政翼賛会]])へと合流した。
 
== 歴史 ==
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1934年10月1日、[[陸軍省]]新聞班が発表した「[[国防の本義と其強化の提唱]]」では、社大党からは作成に[[亀井貫一郎]]が関与していた。麻生書記長はこのパンフレットについて、「資本主義的機構を変革して社会国家的ならしむることを主張している」「日本の国情に於ては資本主義打倒の社会改革に於て軍隊と無産階級の合理的結合を、必然ならしめている」として、強い支持の態度を表明する{{Sfn|伊藤|p=69}}。また亀井も、
 
{{Quotation|資本主義政治経済機構の傀儡たる事から脱却して『帝国の官吏』としての意識の下に行動せんとしつつある新らしき官僚層との間に、資本家の奴隷から独立して産業の勤労的経営主体の確立とその国策の線に副うての運用を目指して動かんとして居るサラリーマン層との間に、資本主義の対立物たる可き窮極の運命にある[[産業組合]]の指導的中堅層との間に、将又既成政党内の叛逆分子と、(党籍を離れたると離れざるとに論なく) 既成政党のボス政治による資本主義体制維持の政治勢力の一員たる可き運命にありながら、輿論代表の建前に於て、選挙区民衆の動向には無関心なるを得ずして、その政治生命に対する観念がボス追従の利害に勝って今や新動向に発見せんとする中堅以下の議員のとる可き建前の間に、又自治体の財政的壊滅の前に当って自治制運用の責務を荷わされつつある人々の間に、社会政策行詰りの苦悶を眼前に見つつ社会的救済制度運用の任務に当って居る[[方面委員]]等の考方の間に、日を追うて建前の類似性が増大しつつある事は事実である{{Sfn|伊藤|p=70}}。|『[[改造 (雑誌)|改造]]』1935年1月号}}
 
と述べ、国家社会主義の立場を明確にする{{Sfn|伊藤|p=70}}。
 
この主張は、革新官僚の間では賛意を巻き起こし、1936年2月の[[第19回衆議院議員総選挙]]では、時の[[岡田内閣]]からひそかに資金供与を受けた。同選挙では、15議席を獲得する{{Sfn|伊藤|p=72}}。続く[[第20回衆議院議員総選挙]](1937年4月)では、36議席とさらに躍進し、第三党にのぼる。同年7月に[[日中戦争]]が勃発すると、社大党はこれを支持。また、挙国一致によりこの戦争を遂行すべく、「[[人民戦線]]分子(共産主義者)の一掃」に努めるよう主張した。11月15日の全国大会では、「民族性を認めていわゆる国家、民族、階級の三位一体主義を基調とすることに根本方針の転換を行い、これに立脚したる綱領および政策を決定したるが特に支那事変に対してはその意義を日本民族発展の一段階にして、支那における英米資本主義の打倒とソ連勢力駆逐による東洋民族の解放を図る聖戦にして国内的には国家革新の推進力なりと規定」し、資本主義と共産主義を排除した国家社会主義の導入を明確に標榜した{{Sfn|伊藤|p=74}}。
 
この頃、亀井が洋行、[[ナチス・ドイツ]]のファシズム政策を視察する。1938年4月に帰国してのち、ドイツに拠って日本に一国[[一党制]]を導入する方途が研究される。8月上旬には「大日本党部」構想としてまとめられ、[[近衛文麿]]首相に提出された。この案は、時の首相を党総裁がつとめ、政策や人事についての一切を、党内の合議によらず決裁するという独裁的権力を与えるものであった{{Sfn|伊藤|pp=85-86}}。この時は近衛首相本人が新党結成に乗り気でなく、近衛首相の辞任によって取りやめとなる{{Sfn|伊藤|p=97}}。
 
この後、[[平沼内閣]]、[[阿部内閣]]、[[米内内閣]]と、国家社会主義と距離をとる政権が続く中、国家社会主義党派間の連携、合同の動きが起こる。1939年、社大党、[[国民同盟 (日本)|国民同盟]]、[[東方会]]、[[日本革新農村協議会]]の4勢力の合同が計画され、途中で離脱した国民同盟を除く3勢力合同による「全体主義単一国民政党」の結党大会の段取りまで話が進んでいたが、実現には至らなかった{{Sfn|伊藤|pp=102-103}}。その背景には社会大衆党内で旧日労系(旧日本労農党系)が主導して議論が進み、社民系(旧社会民衆党系)が人事問題で反発したことなどが挙げられ、安部磯雄の不参加表明で合同構想の破綻は決定的となった<ref name="有馬">{{Cite journal |和書 |author=有馬学 |title=東方会の組織と政策:社会大衆党との合同問題の周辺 |journal=史淵 |volume=114 |issue= |publisher=九州大学|date= 1977-03-31|pages=61-85 |naid= |ref=|url=https://doi.org/10.15017/2340998}}</ref>。
 
[[1940年]](昭和15年)、[[斎藤隆夫]]衆議院議員(民政党)の[[反軍演説]]への対応をめぐって再度対立が表面化した<ref name="横関">{{Cite journal |和書 |author=横関至 |title=農民運動指導者 三宅正一の戦中・戦後(上) |journal=大原社会問題研究所雑誌 |volume= |issue=559 |publisher=大原社会問題研究所|date= 2005-06|pages=44-60 |naid= |ref=|url=https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/559-04.pdf}}</ref>。同年3月7日の斎藤に対する[[懲罰事犯|懲罰動議]]では、党首の安部磯雄、[[西尾末広]]、[[片山哲]]、[[水谷長三郎]]、[[鈴木文治]]ら10名が反対。斎藤の除名が党議として決定した後も、除名を討議する代議士会に欠席・棄権した<ref>斎藤隆夫除名反対の議員に離党勧告(『東京日日新聞』昭和15年3月9日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p231 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。これらの旧社民系(旧社会民衆党系)の議員に対し、麻生久や[[三宅正一]]は除名を主張し、10名に対して離党勧告を行った<ref name="横関" />({{要出典範囲|うち8名が除名処分となった|date=2023年12月}})。同年4月27日の党中央委員会で、麻生久を委員長、[[三輪寿壮]]を書記長に選任し、旧日労党系(旧日本労農党系)の人々が党内の主導権を掌握した<ref name="横関" />。
 
反軍演説に対する除名騒動、および5月のドイツによる電撃的な[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻と占領]]がきっかけとなり、近衛新党を巡る動きが再燃。社大党は1938年時と同様、一国一党制樹立の策案を多く作成、近衛基首相に提出している{{Sfn|伊藤|p=131}}。そして7月6日、社大党は、「血盟の同志前に斃れ、受難の友人後に傷つき、三十年顧みれば、茫として夢たり」と宣言して解党する{{Sfn|伊藤|p=137}}。
 
; 後史
社大党を含む全政党の解党後、いわゆる近衛新党として[[大政翼賛会]]が結成されるが、同会は結成からほどなくして、帝国議会や財界の批判および憲法学者からの意見違憲の訴えにより、当初想定されていた、一国一党制に基づく社会主義政党(政治結社)ではなく、統治機構の末端を担う、内務省の外郭団体へと変質する(公事結社)。一部の革新派はこれとともに翼賛会と袂を別ち、独自の政治結社を再び立ち上げ興したが、社大党の主だった面々は、特に再結集や目立った政治運動を行うことはなかった{{Sfn|伊藤|p=220}}。
 
[[第二次世界大戦]]後は、[[日本社会党]]の源流の一つとなった。社大党選出の[[衆議院|代議士]]であっ経験者からは[[片山哲]]が[[日本社会党委員長|社会党初代委員長]]に就任しほか[[三輪寿壮]]・[[河上丈太郎]]・西尾末広・[[浅沼稲次郎]]・[[松本治一郎]]が戦後には社会党幹部となるなど、人脈的につながりがある。政策的には[[社会党右派]]に属し、1960年に社会党から[[民社党]]が分裂した際には、片山・西尾ら民社党に移った者も多い。
 
== 政策 ==
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=== 綱領 ===
(転向後、追加された新綱領)
:* 一、我党は[[国体の本義]]に基き[[日本国民]]の進歩発達を図り以て人類文化の向上を期す。
:* 一、我党は勤労大衆を代表して[[資本主義]]を改革し以て産業の計画化と[[国民生活]]の安定を期す。
(改訂、追加された新綱領)
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* {{Cite book|和書|author = 伊藤隆|authorlink = 伊藤隆_(歴史学者)|title = 近衛新体制 大政翼賛会への道|date = 2015-12-10|publisher = [[講談社]]|___location = [[東京都]][[文京区]]|series = 講談社文庫|volume = |language = 日本語|isbn = 978-4-06-292340-8|ref={{SfnRef|伊藤}} }}
*{{Cite|和書|editor=東京通信社|title=政治経済年報 昭和7年 下季篇|publisher=東京通信社|year=1933|ref=harv}}{{国立国会図書館デジタルコレクション|1269050|format=NDLJP}}
*三輪建二『祖父三輪寿壮ー大衆と歩んだ新年信念の政治家』 鳳書房、2017年
 
== 外部リンク ==