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<!-- |家紋= 家紋の画像 -->
|家紋名称=
|本姓= 小槻[[宿禰]]
|家祖= [[落別王]]
|種別= [[皇別]]<br/> [[地下家]]
|出身地= [[近江国]][[栗太郡]]
|根拠地= [[山城国]] <br/>[[近江国]][[滋賀郡]][[雄琴温泉|雄琴荘]]・[[苗鹿荘]]
|人物= [[小槻隆職]]
|支流= [[壬生家#壬生家(小槻姓)|壬生家]]([[地下家]])<br/>
}}
'''小槻氏'''(おづき
[[垂仁天皇]]の[[皇子]][[落別王]]を祖とする[[皇別]]氏族で、[[平安時代]]から'''小槻[[宿禰]]'''姓を称した。[[地下家]]の家柄で[[太政官]]事務職と[[算道|算博士]]を務めた。[[嫡流]]は[[壬生家#壬生家(小槻姓)|壬生家]]と[[大宮家#大宮家(小槻姓)|大宮家]](のち断絶)。
__TOC__
<br clear="both" />
== 概要 ==▼
『[[古事記]]』・『[[日本書紀]]』・『[[新撰姓氏録]]』によれば第11代[[垂仁天皇]]と妃[[苅幡戸辺]]
記紀によると、落別王から出た一族には小月之山君/公(おつきのやまのきみ、小槻山
その後『日本三代実録』において名を現し、[[貞観 (日本)|貞観]]15年([[873年]])[[史 (律令制)|左少史]]兼[[算道|算博士]][[阿保今雄|小槻山今雄]]と[[主計寮]][[算師]][[小槻山有緒]]らが[[平安京|京]]に居を移したとある<ref>『日本三代実録』貞観15年12月壬辰朔条</ref>。小槻山君は算道を足がかりに[[史 (律令制)|史]]の官職を得、中央への進出を果たしたものと考えられる。当時[[算道]]は[[9世紀]]初頭から衰退が進んで[[大学寮]]4道のうち最下位に位置し、地方教育機関・[[国学 (律令制の教育機関)|国学]]に入るべき地方豪族にも道が開かれていた。一方、史は[[太政官]]事務部門の[[少納言局]]・[[弁官|左右弁官局]]のうち弁官局に属する職で、任じられる家は[[地下家]]であったが太政官文書管理・諸国庶務を務め[[朝廷]]に仕えた。
貞観17年([[875年]])今雄は「阿保[[朝臣]]」の氏姓を賜り改姓
▲== 沿革 ==
▲=== 出自 ===
▲第11代[[垂仁天皇]]と妃[[苅幡戸辺]](かりはたとべ、苅羽田刀弁とも)との間の皇子、[[落別王]](おちわけのみこと、祖別命<ref>『日本書紀』</ref>・於知別命<ref>『新撰姓氏録』</ref>・意知別命とも)を祖とするとされる<ref>『古事記』垂仁段</ref><ref>これらに対し『日本三代実録』(国史大系本)を始めとして他の文献の中には、別人の異母皇子・[[息速別命]](いきはやわけのみこと)を祖とすると記している。真偽は定かでなく落別王と同一人物という可能性もあるが、[[栗田寛]]の解釈では「息速別命」と記してあるのは後世の文献であることから、転写の際の誤写であろうとしている(『新撰姓氏録考証』巻五)。</ref>。落別王の墓は現在[[愛知県]][[豊田市]]の[[児ノ口神社]]に伝わっている。
[[寛仁]]元年([[1017年]])左大史(史の最上首)[[小槻奉親]]が[[従五位|従五位下]]に叙され、小槻氏で初めての「[[史 (律令制)|大夫史]]」<ref>大夫史とは五位の左大史のこと。五位以上の官吏の称である「[[大夫]]」を取った名称。[[正六位上]]が相当位階の左大史が五位となるのは画期的なことであったが、[[昇殿]]を許されることはなかった。大夫史の世襲は貞行の孫[[小槻祐俊|祐俊]]の代には安定の域に達し、祐俊は三十年もの間左大史を務め[[従四位上]]の位にまで昇っている。なお、四位に叙せられる者まで出た結果、画期性が薄れこの「大夫史」の称は廃れていくこととなる。</ref>となった。奉親は学識高く当時有数の[[貴族]]・[[藤原行成]]とも親交があり、史の地位を向上させた。そして平安後期に入ると[[朝廷]]儀式において先例が大事とされ、文書を扱う関係で史の存在感が増した。中でも史を歴任する小槻氏は[[有職故実]]に明るいことから[[朝廷]]内での信任が厚く、平安末には小槻氏の一族・門徒が史の職を占めるようになり、大夫史も[[小槻孝信]]の代から世襲・独占するようになる。小槻氏の氏長者は一族を統率する一方で、「官長者」として史を始めとする官人を統率し、史=小槻氏一族と化していく([[官司請負制]])。この流れの中、左右弁官局では左右に分ける意味が薄れて2局は官局として統合され、官長者は官局を統率する「'''[[官務]]'''」と称されるようになる。なお、同様に少納言局では[[外記局]]が形成され、[[清原氏]]・[[中原氏]](のち中原氏のみ)の中から「[[外記|局務]]」が現れた。官務と局務は合わせて「両局」と称せられ、[[地下家]]の筆頭として太政官の下級官吏を統率していき、[[鎌倉時代]]に
▲落別王は小月之山君(おつきのやまのきみ、小槻山公/君とも)・三川之衣君の2族の祖で<ref>『古事記』垂仁段</ref>、このうちの小槻山君が後の小槻氏の原型である。一族は変遷を経て[[近江国]][[栗太郡]]の[[豪族]]であった。現在も栗太郡地域には、氏神の<ref>太田亮『姓氏家系大辞典』[[角川書店]]、[[1963年]]、993頁、小槻山の項</ref>[[小槻大社]]・[[小槻神社]]が残り落別王を祀っている他、小槻大社には小槻山君一族のものとされる古墳が残っている。
▲=== 平安時代前半 ===
▲貞観17年([[875年]])今雄は「阿保[[朝臣]]」の氏姓を賜り改姓した<ref>息速別命子孫にも阿保氏がいるが、別の一族である。これは脚注4で述べた混同の一因ともなっている。</ref>。子・[[阿保経覧]]も算博士を務め、別子・[[小槻当平|当平]]と[[小槻糸平|糸平]]の代で「小槻[[宿禰]]」とさらに改姓し、両人も算博士を務めた。その後宿禰の[[カバネ|姓]]を称し続けたため、小槻氏は「禰家」とも号された<ref>姓を朝臣から格下の宿禰に落とした理由は定かでなく、当平と糸平が今雄の実子ではなかったのではないかとする説もある(請田正幸「平安初期の算道出身官人」(田名網宏編『古代国家の支配と構造』)342-343頁)。</ref>。その後算道は小槻氏と[[三善氏]]による[[家学]]となり、算博士を2氏で世襲して算道出身者の主要官職([[民部省]][[主計寮]]・[[主税寮]]、[[宮内省]][[木工寮]]、[[修理職]]等)を [[11世紀]]以降独占していく。
▲平安後期に入ると[[朝廷]]儀式において先例が大事とされ、文書を扱う関係で史の存在感が増した。中でも史を歴任する小槻氏は[[有職故実]]に明るいことから[[朝廷]]内での信任が厚く、平安末には小槻氏の一族・門徒が史の職を占めるようになり、大夫史も[[小槻孝信]]の代から世襲・独占するようになる。小槻氏の氏長者は一族を統率する一方で、「官長者」として史を始めとする官人を統率し、史=小槻氏一族と化していく([[官司請負制]])。この流れの中、左右弁官局では左右に分ける意味が薄れて2局は官局として統合され、官長者は官局を統率する「'''[[官務]]'''」と称されるようになる。なお、同様に少納言局では[[外記局]]が形成され、[[清原氏]]・[[中原氏]](のち中原氏のみ)の中から「[[外記|局務]]」が現れた。官務と局務は合わせて「両局」と称せられ、[[地下家]]の筆頭として太政官の下級官吏を統率していき、[[鎌倉時代]]になると小槻氏は「官中執権」<ref>『玉葉』</ref>と称せられるまでになる。
===鎌倉時代===
[[文治]]元年([[1185年]])、官務[[小槻隆職]]が[[後白河天皇|後白河院]]と[[源義経]]による[[源頼朝]]追討の[[宣旨]]に関わったとして頼朝に[[解官]]され
===室町時代===
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;実線は実子、点線は養子・猶子。
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太政官の厨房の管理を行う官司。本来、少納言局と弁官局が共同で管理することになっていたが、[[蔵人所]]の設置に伴い少納言局の職掌が形骸化し、弁官局ひいては小槻氏が管理するようになった。官厨家は各地に[[荘園]]を持ち、運営における食料・費用に充てており、中には小槻氏が[[開発領主]]のものもある。これらの荘園もまた小槻氏が掌握・知行し、事実上の所領と化していった。
* 採銅所
朝廷に献上するための銅・鉛を採掘・精錬するために置かれた機関。[[摂津国]][[能勢郡]][[多田銀山|多田銅山]]が主要産地で、小槻氏が管理し官務家の渡領として受け継がれた。
== 所領 ==
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