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'''伊雑宮'''(いざわのみや、正式名:'''伊雜宮''')は、[[三重県]][[志摩市]]磯部町上之郷にある[[神社]]。[[式内社]](大社)[[論社]]で、[[志摩国]][[一宮]]。
 
[[皇大神宮]]([[伊勢神宮]]内宮)の別宮の一社。[[度会郡]][[大紀町]]にある[[瀧原宮]]とともに、[[皇大神宮|内宮]]から遠く離れた場所で[[天照大神]]の魂を祀ることから「'''天照大神の遙宮'''(とおのみや)」と呼ばれる。
 
== 社名について ==
「いぞうぐう」と呼ばれることも多く、ほか「磯部の宮」・「磯部の大神宮さん」と呼ばれることもある。
 
また、実際は「'''伊雜宮'''」と書くのが正式であるが「雜」を簡略化して「雑」と用いられるの字を使うことが多い(本項では後者を用いる)
 
== 概要 ==
伊雑宮は[[皇大神宮|内宮(皇大神宮)]]別宮で、内宮背後の[[島路山]]を越えた志摩市磯部町上之郷にある。伊勢神宮別宮14社のうち[[伊勢国]]外のもの伊雑宮([[志摩国]]の伊雑宮1社のみであり、また[[神田]]を持つ唯一の別宮である。
[[Image:Izawa-no-miya_02.JPG|thumb|200px|鳥居]]
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伊雑宮は[[皇大神宮|内宮(皇大神宮)]]別宮で、内宮背後の[[島路山]]を越えた志摩市磯部町上之郷にある。伊勢神宮別宮14社のうち[[伊勢国]]外では[[志摩国]]の伊雑宮1社のみであり、また[[神田]]を持つ唯一の別宮でもある。
 
当宮は、10社ある内宮別宮の中で[[荒祭宮]]、[[月讀宮]]、瀧原宮に次ぐ順位とされる。
 
一般に、伊雑宮を志摩国[[一の宮|一宮]]とする説が一般的である。しかし、志摩国一宮は[[鳥羽市]]を中心に鳥羽市安楽島町の[[伊射波神社]](いざわじんじゃ)を志摩国一宮とする異論ある。
 
現在では、[[式年遷宮]]のための[[御木曳|お木曳行事]]が[[伊勢神宮]]に準じ20年に一度行われる。正宮では1年次と2年次の2回であるのに対し、瀧原宮と伊雑宮の別宮2社では1年次のみである。第62回神宮式年遷宮の伊雑宮御木曳は[[2006年]](平成18年)4月17日(月曜日)に催された。第61回神宮式年遷宮までは志摩市の磯部地域内のみであったが、[[平成の大合併]]でのによる志摩市誕生により、この第62回神宮式年遷宮では志摩市同士中心部の阿児地域内でも初めて曳かれることとなった。
 
他の境外別宮と同様、神職が参拝時間内に常駐する宿衛屋(しゅくえいや)があり、お札・お守りの授与や、神楽や御饌の取次ぎを行なっている
 
== 祭神 ==
* '''[[天照大神|天照坐皇大御神御魂]]''' (あまてらしますすめおおみかみのみたま)
 
804年([[延暦]]23年)の『皇太神宮儀式帳』では天照大神御魂とされる。中世から近世の祭神かけていくつかのあり、中世末以降は伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる'''伊佐波登美命'''と'''玉柱命'''(または玉柱屋姫命)の2座を祀ると考えられてきた。[[明治]]以降、伊雑宮の祭神は天照大神御魂とされる(神宮要綱)。
 
== 歴史==
[[鎌倉時代]]に著された成立思わみられる[[倭姫命世記]]によると、伊勢神宮の内宮を建立した[[倭姫命]]が伊勢神宮への神饌を奉納する御贄地(みにえどころ)を探すためにして[[志摩国]]を訪れた際、[[伊佐波登美命]]が出迎え、倭姫命がた当地を御贄地にふさわしい土地であると選定して伊雑宮を建立したとされる。神宮ではこの説を採るが、一般には倭姫命世記自体が史書として捉えらていないこと、また該当箇所は伊雑宮神官が後世に加筆した記述とされることから起源、創建明らかでない不詳とするのが妥当べきである。また、[[近世]]以前の志摩国では、伊雑宮周辺の土地のみが[[水田]]による[[稲作]]に適した土地は伊雑宮周辺のみであったことから当社伊雑宮成立に関係したとする説、志摩国土着の海洋信仰によるとする説などあるが、定説はない。
 
[[804年]]([[延暦]]23年)の『皇太神宮儀式帳』及び[[927年]]([[延長 (元号)|延長]]5年)の『延喜太神宮式』に、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と記述されており載があるため、それ以前から存在したと考えられていわかる。
 
[[平安時代]]末期の[[治承・寿永の乱]](源平合戦)では、[[伊勢平氏]]の地盤であった伊勢国への[[源氏]]勢の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備していた。[[養和]]元年([[1181年]])1月、伊雑宮は[[源氏]]の味方となった[[紀伊国|紀伊]]の[[熊野三山]]の勢力の攻撃を受け、本殿を破壊され[[神宝]]を奪われてしまう。勢い付いた熊野三山の勢力はさらに山を越えて伊勢国に攻め込むが、反撃を受け退却した。[[1159年]]の[[平治の乱]]では平家に味方した熊野三山が治承・寿永の乱では源氏に味方した理由として、当時の熊野三山と対立していた伊勢神宮を平家が優先したためへの反発と考えらているが、この事件により、神職が権力者の庇護を得て伊雑宮を守るため、神職が歴史の捏造をやむなくったとする説がある。
 
[[江戸時代]]には伊雑宮の神職が中心となり伊雑宮を本来の内宮主張する偽書を作成し、[[先代旧事本紀大成経]]事件の舞台となる。
 
== 境内 ==
* 本殿
* 本殿 - ::内宮に準じ、[[千木・鰹木|内削ぎの千木と、偶数の6本の鰹木]]を持つ、[[萱葺]]の[[神明造]]。本殿周囲にある[[玉垣|瑞垣と玉垣]]が配され、垣にはそれぞれの門がある。
 
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[[Image:Izawa-no-miya_02.JPG|thumb|200px|鳥居]]
[[Image:Izawa-no-miya_03.JPG|thumb|200px|手水舍]]
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== 境外所管社 ==
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境外所管社の佐美長神社(さみながじんじゃ、志摩市磯部町川辺(かわなべ、{{ウィキ座標|34|22|31|N|136|48|13|E|region:JP|位置|name=佐美長神社(境外所管社)}}))は、志摩市役所磯部支所前にある。
 
佐美'''良'''神社記載されがある史料が散見されておりいくつかあるが、佐美長神社の誤記とされる。『倭姫命世記』に、稲穂をくわえた鶴を「大歳神」として祀ったと記載される。ただし、『倭姫命世記』は史書として内容信頼性真偽に問題があるため、由緒不明とするのが適切と考えられべきである。
なお、この「鶴の穂落とし」伝説に基づき、「穂落社」・「穂落宮(ほおとしみや)」と呼称されることも多い。<ref>志摩市立磯部小学校の校歌の歌い出しも「穂落宮」である。また、佐美長神社周辺には「穂落前(ほほちまえ・ほおちまえ)」という小字が残る。</ref>
 
; 祭神
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; 歴史
* [[804年]]([[延暦]]23年) 『皇太神宮儀式帳』に初めて名前が出る。
* [[1228年]]([[安貞]]2年) 『安貞二年内宮遷宮記』に「大歳神社」と記載される
* 江戸時代初期 天照大神の魂を祀る「荒祭宮(あらまつりのみや)」であると事実を捏造。
* [[1759年]]([[宝暦]]9年) 『伊勢両宮別宮摂末社』に「内宮末社」と記載される
* [[1871年]](明治4年) 旧称の佐美長神社に改称。
 
== 参道 ==
=== 御幸道 ===
伊雑宮と佐美長神社を結ぶ道を'''御幸道'''(ごこうみち)と言い、神が両社を行き来する道であるとされる<ref>中野順蔵『神路川 磯部小史』(三光社装幀印刷、昭和56年4月刊行)18ページ</ref>。
 
『磯部郷土史』によれば、[[倭姫命]]が[[天照大神]]を奉戴して志摩の地を遍歴した際に通った道であるいうされる。現在の[[国道167号]]と[[三重県道61号磯部大王線]]の一部に相当する。
 
== 祭事 ==
皇大神宮に準じた祭事が行なわれ、祈年、月次、神嘗、新嘗の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)がある。伊雑宮固有の特殊祭典として、[[磯部の御神田|御田植式]](おたうえしき)が料田(神田)で行われる。
 
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<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 1月
** 歳旦祭(さいたんさい)(1月1日) 新年を祝い、皇位の無窮を祈る祭り
** 元始祭(げんしさい)(1月3日) 年始にあたり、天津日嗣(あまつひつぎ)の本始を祝う祭り
* 2月
** 建国記念祭(けんこくきねんさい)(2月11日) [[神武天皇]]の建国の創祀を祝う祭り。昭和23年廃止された紀元節祭(きげんせつさい)を改名し、1967年(昭和42年)に復興した
** [[祈年祭]](きねんさい)(2月20日) 年の初めに穀物の豊穣と国家の安泰を祈る祭り
* 5月
** 風日祈祭(かざひのみさい)(5月14日) 外宮内宮のほか、別宮末社摂社などに幣帛を供進し、風雨の災いなく五穀豊穣であるように祈る神事
* 6月
** 月次祭(つきなみさい)(6月24-25日) 6月と12月に国家の平安と天皇の福寿を祈る祭り。<ref>伊勢神宮では神嘗祭と合わせて三節祭または三時祭と呼ぶ</ref>
** 御田植式(おたうえしき)(6月24日) 隣接する[[神田|料田]]での[[田植]]。
* 8月
** 風日祈祭(かざひのみさい)(8月4日)
* 10月
** [[神嘗祭]](かんなめさい)(10月24-25日) 神官がその年に収穫された穀物を「[[神饌|大御饌(おおみけ)]]」として天照大神に奉献する祭り
* 11月
** [[新嘗祭]](にいなめさい)(11月26日) 天皇がその年に収穫された穀物を神に供えるとともに自らも食し、収穫を感謝する祭り
* 12月
** 月次祭(つきなみさい)(12月24-25日)
** 天長祭(てんちょうさい)(12月23日) [[明仁|今上天皇]]の誕生日を祝う祭り
</div>
</div>
 
=== 御田植式 ===
伊雑宮に奉納する米のための田植を毎年6月24日に行なう御田植式は、[[香取神宮]]・[[住吉大社]]とあわせて'''日本三大御田植祭'''とされる。御田植式で行なわれる伝承芸能は、[[磯部の御神田]](いそべのおみた)として[[1971年]](昭和46年)に三重県の[[文化財|無形文化財]]に、[[1990年]]([[平成]]2年)には国の重要無形民俗文化財に指定された。
 
[[倭姫命世記]]の記述から[[平安時代]]後期には行われていたとする説があもされるが、定かではない。信頼性の高い記録では[[鎌倉時代]]の[[1280年]]([[弘安]]3年)された文書が[[神宮文庫]]に残されている。
 
[[1871年]](明治4年)の[[廃藩置県]]により、伊雑宮の料田が国有化され、翌[[1872年]](明治5年)からは御田植式を行なうことができなくなり廃止されたが、磯部の住民の希望により[[1882年]](明治15年)に虫除祈念の名目で再開された。
 
[[大正]]の中ごろに料田を縦断する道路整備計画が決定したため、近隣の住民から新しい料田が寄贈された。
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== 伊雑宮に関する伝説 ==
; 龍宮伝説
: 伊雑宮の周囲に、[[浦島太郎]]や[[海人|海女]]が[[龍宮]]へ行ったという伝説がいくつかある。派生したと思わそれぞる伝説の細部は異なるが、基本的に伊雑宮の宝物の一つに[[玉手箱]]があり、海女が持ち帰ったものとされ、その中身は[[蚊帳]]で、不幸が続くため伊雑宮に納めたとする部分は一致する。なお、伊雑宮へ蚊帳を納めたのちも不幸が続いたとする話が多い。
; 七本鮫と龍宮伝説
: 御田植え祭の日に、七匹の[[サメ|鮫]]が[[的矢湾]]から川を遡って伊雑宮の大御田橋まで上がってくのぼると云われている。この七本鮫は伊雑宮の使いと云われ、また俗に龍宮の使いと伝える説もある<ref>{{Cite book|和書|author=萩原龍夫他|editor=民俗学研究所編|others=[[柳田國男]]監修|title=綜合日本民俗語彙|year=1955|publisher=[[平凡社]]|volume=第2巻|pages=697}}</ref>。七本のうち一本は殺されてしまい、今は六本とされる。大御田橋からは[[カニ|蟹]]や[[カエル|蛙]]に化身して伊雑宮に参詣するとも云われる。またこの日は志摩一円の海女たちは海に入る事を忌み、伊雑宮に参詣する。
; その他
: 志摩市[[阿児町安乗]]の安乗崎沖の岩礁(大グラ)近くの海底に[[鳥居]]に似た岩があり、伊雑宮の鳥居であったといわれる。
 
== 崇敬団体 ==
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* 一般国道:[[国道167号]]から約200m
* 最寄IC:[[伊勢自動車道]] [[伊勢インターチェンジ|伊勢IC]] (約20km)
* 駐車場:約20台分の駐車場があるほか、隣接する御神田の前にも駐車できる。
 
== 脚注 ==
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* [http://www.isejingu.or.jp/naigu/naigu3.htm 伊雑宮](伊勢の神宮)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/086001.html 粟島坐伊射波神社二座](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)
 
 
{{神道 横}}
 
{{DEFAULTSORT:いさわのみや}}