削除された内容 追加された内容
修正、画像掲載方法変更。
編集の要約なし
13行目:
|神事 = 大漁祈願祭([[11月23日]])
}}
{{mapplot|136.87435|34.4729|伊射波神社}}
'''伊射波神社'''(いざわじんじゃ)は、[[三重県]][[鳥羽市]]安楽島町(あらしまちょう)の加布良古崎にある[[神社]]。[[式内社]](大社)[[論社]]で、[[志摩国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[無格社]](社格がないという意味ではなく「無格社」という社格)。
{{神道}}
'''伊射波神社'''(いざわじんじゃ)は、[[三重県]][[鳥羽市]]安楽島町(あらしまちょう)の加布良古崎にある[[神社]]。[[式内社]](大社)[[論社]]で、[[志摩国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[無格社]](社格がないという意味ではなく「無格社」という社格)
 
別称として「志摩大明神」・「加布良古大明神」・「かぶらこさん」等とも呼ばれる。鎮座の時期は不明だが、創建から1500年以上といわれている。御崎の先には、別に領有神が祭られている。
 
== 祭神 ==
『諸国一の宮』<ref name="shokoku">{{Cite book|和書|author = 入江孝一郎|year = 2001|title = 諸国一の宮|publisher = 移動教室出版事業部|isbn = }}</ref>によれば、祭神は以下の4柱。
* '''[[稚日女尊]]''' (わかひめのみこと)
:: 『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』<ref name="guide">{{Cite book|和書|author = 全国一の宮会編|year = 2008|title = 公式ガイドブック 全国一の宮めぐり|publisher = 全国一の宮会|isbn = }}</ref> では[[天照大神]]に使ていた神と紹介している
 
* '''伊佐波登美命''' (いざわとみのみこと)
:: [[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]中期の成立と言われる『[[倭姫命世記]]』によれば、[[垂仁天皇]]の御世に皇女倭姫命が皇大神宮の朝夕の御贄を奉るべき地を選定するため探して志摩国を巡行し訪れたとき、奉迎したのがこの神であるが出迎えたしている。『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』<ref name="guide" />によれば、安楽島の二地(ふたぢ)にある鳥羽贄遺跡がこの神の本宮跡で、平安時代後期に現在地へ遷座され移っのだと言う。
 
* '''玉柱屋姫命''' (たまはしらやひめのみこと)
:: [[伊雑宮]]の『御鎮座本縁』などによればでは天叢雲命の裔、[[天日別命]]の子である。『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』<ref name="guide" />では伊佐波登美命の妃神と解説している
 
* '''狭依姫命''' (さよりひめのみこと)
:: 『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』<ref name="guide" />によればでは[[宗像三女神]]の1柱[[イチキシマヒメ|市杵島姫命]]の別名で、近くの長藻地と言う島に鎮座し祀られていたが、島が水没したので当社に合祀されたのだと言う。
 
また、当社の玉垣内には丸白石が敷き詰められており、古くから漁民はこの白石を船霊として船中に安置し、豊漁を祈る習慣がある。船守りとして白石を持ち帰った場合には、後日必ず2倍3倍にして社地へ返さねばならないとされる。
 
== 歴史 ==
当社創建の時期はらかでなだが、1500年以上の歴史を持つとわれる。『諸国一の宮』<ref name="shokoku" />によれば、当社は稚日女尊を海の道から稚日女尊を加布良古崎へ祭祀したことに始まりのが起源で以後志摩国の海上守護神として古代の人から崇敬されたのだと言う。
 
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])の『[[延喜式神名帳]]』には「貞コ粟嶋坐伊射波神社二座 並 大」と記載されていがある。『諸国一の宮』<ref name="shokoku" />では、志摩市磯部町から鳥羽市安楽島町にかけて古くは粟嶋と呼ばれた地域で、伊射波神社2座のうち1つは当社、1つは伊雑宮であると述べている。しかし、『中世諸国一宮制の基礎的研究』<ref name="kiso">{{Cite book|和書|author = 中世諸国一宮制研究会編|year = 2000|title = 中世諸国一宮制の基礎的研究|publisher = 岩田書院|isbn = }}</ref>では、伊射波神社2座は合祀されて伊雑宮に祀られたので、当社は式内・伊射波神社ではないと考察している。
 
[[建久]]3年([[1192年]])の『皇大神宮年中行事』<ref>建久3年(1192年)成立後、[[寛正]]5年([[1464年]])に内宮禰宜荒木田氏経によって加筆されている。</ref>に「悪志。赤崎。加布良古明神」とあり、また『外宮旧神楽歌』に「志摩国知久利が浜におわします悪止・赤崎・悪止九所のみまえには、あまたの船こそ浮かんだれ、艫には赤碕のり玉う。舳先には大明神(加布良古神)のり玉う。加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし、加布良古の沖の汐ひかば、都へなびけ、我も靡かん。加布良古の大明神に遊びの上分を参らする請玉の宝殿」とあることからため、『日本の神々』<ref name="kamigami" />では古くから阿久志神社や赤崎神社と共に有名な神社だっ知られていたと述べている。
 
当社は伊雑宮と共に志摩国一宮とされる。志摩国に一宮が2つあった理由について、『日本の神々』<ref name="kamigami" />では伊雑宮が[[伊勢神宮]]の別宮兼官社であったことからため、民社で同じ祭神の当社を一宮にせざるを得ない状況すべき事情生じあったか、[[鳥羽藩]]が神領再興を叫ぶ伊雑宮神人動静を気遣った[[鳥羽藩]]が伊雑宮へ対抗して人の優越感削ぐ牽制するためにもう1つの一宮をつくったのではないかと推測している。
 
また、『中世諸国一宮制の基礎的研究』<ref name="kiso">{{Cite book|和書|author = 中世諸国一宮制研究会編|year = 2000|title = 中世諸国一宮制の基礎的研究|publisher = 岩田書院|isbn = }}</ref>
では、次の5つの理由から伊雑宮こそが志摩国の一宮述べている。
#『[[和名類聚抄]]』の例から「伊射波」は「伊雑」の万葉仮名と考えられること。
#『大神宮本記帰正鈔』の「廿七年伊雑宮造立」の項に「神宮ヨリ摂スル時ハ、伊雑宮ト宮号ヲ以テ称シ、志摩国司ノ管スル時ハ、伊射波神社ト社号ヲ以テセシト見エテ」とあり、神宮と国司で伊雑宮の呼び方が異なていたこと。
#加布良古明神は古くは荒前神社と呼ばれたらしく、古代・中世の史料おいて伊射波神社と称した史料の名がないこと。
#[[明治]]7年([[1874年]])に薗田守宣が著した『伊射波神社考』に「文化四年六月、城主(鳥羽城主稲垣長以)ノ沙汰トシテ、社ノ覆屋、拝殿・鳥居ヲ寄附シ、神号ノ捜索アリテ、伊射波大明神ナル趣ヲ啓ス」とあり、当社を正式に伊射波神社と称し始めたのが[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])であるから当社を伊射波神社と称したこと。
#一宮は、一般に国府に近い大社が選ばとされるのを常とし慣例だったが、国府推定地である志摩郡阿児町国府から見て、伊雑宮の方が当社より地理的に近いこと。
『志陽略誌』には「倭論語云う志摩大明神と号す是なり。或人志摩国一宮と云う也。(略)往古社頭地あると雖も、戦国より以来之を亡失す」とあり、戦国時代以降、社地を失ったが伝えらている。また、[[安政]]元年([[1854年]])11月の大地震と大津波<ref>[[安政東海地震]]および[[安政南海地震]]。</ref>、火災によって古文献などは記録が流失・焼失してしまっのだと言う<ref name="shokoku" />。
 
明治の[[近代社格制度]]では無格社とされた。[[昭和]]31年([[1956年]])籠堂が再建され、昭和51年([[1976年]])本殿と拝殿が造営された。[[平成]]13年([[2001年]])神明造の本殿と拝殿を現在地に造営して遷座した。
 
== 境内 ==
64 ⟶ 66行目:
* 明神祭(7月7日に近い日曜日)
* 大漁祈願祭(11月23日)
: 大漁祈願祭では'''御魚取り神事'''(みととりしんじ)が行われる。神事では[[素襖]]に[[烏帽子]]姿の五人年寄りが神前で刺し網を張り、「大漁じゃ」の掛け声と共に新鮮な魚を投げ入れる。神事終了後、魚は焼いて振る舞わ食べられる<ref name="guide" />。
 
== 現地情報 ==
84 ⟶ 86行目:
 
== 関連項目 ==
* [[伊雑宮]] -
::志摩国一宮を称するもう1つの神社
* [[鳥羽一番街]] -
::鳥羽三女神の1柱として、伊射波神社の代理受付所を設置
 
== 外部リンク ==
91 ⟶ 95行目:
* [http://www.tobakanko.jp/modules/know/index.php?p=34 伊射波神社](鳥羽市観光情報サイト - 知る)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/086001.html 粟島坐伊射波神社二座](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)
 
 
{{神道 横}}
 
{{DEFAULTSORT:いさわしんしや}}