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== 概要 ==
姫路市東部、[[市川 (兵庫県)|市川左岸]]の段丘上に位置する。[[神功皇后]]が壇を築き祈念した地とする伝承があり、名称の「壇場山」はこれに由来する{{Sfn|壇場山古墳(平凡社)|1999}}。現在までに踏査・測量等の調査は行われているが、墳丘・主体部埋葬施設に関しては未調査である。
 
墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける。墳丘は3段築成で、段丘を切り盛りして築造されており、墳丘長は約143メートルを測るが{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=506-511}}、これは中播磨・西播磨地方では最大規模で、兵庫県内では[[五色塚古墳]]([[神戸市]]、194メートル)、[[雲部車塚古墳]]([[丹波篠山市]]、158メートル)に次ぐ第3位の規模になる<ref group="注" name="規模"/>。墳形は[[仲ツ山古墳|仲津山古墳]]([[大阪府]][[藤井寺市]])に類似し、墳丘のくびれ部には東西両側に[[造出]]を有する{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=506-511}}。墳丘表面には[[葺石]]が葺かれ、[[円筒埴輪]]や、盾形・家形・短甲形・蓋形などの[[形象埴輪]]も検出されている{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=506-511}}。墳丘周囲には幅約10-20メートルの盾形周濠が巡らされ、墳丘西側には周濠外側に周庭帯が認められているほか、外周域には[[陪塚]]数基が存在した(うち現存2基){{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=506-511}}。主体部の埋葬施設(内部施設)は竜山石製[[長持形石棺]]の直葬で、現在も後円部墳頂において石棺の蓋石を露出する{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=506-511}}。この石棺の開蓋の有無は明らかでないが、後円部からは鉄鏃と刀剣が出土したと伝わる{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=506-511}}。
 
この壇場山古墳は、[[古墳時代]]中期の[[5世紀]]前半頃の築造と推定される{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=506-511}}。被葬者は明らかでないが、[[播磨国造]](針間国造)の人物とする説がある{{Sfn|壇場山古墳(国史)}}。また、壇場山古墳と雲部車塚古墳とが規模・埋葬石棺の点で類似することから、ヤマト王権に対してこの2古墳が同等の位置づけにあったとする説もある{{Sfn|姫路市史 第1巻 下|2013|pp=269-281}}。壇場山古墳に先立つ首長墓は西播磨の[[輿塚古墳]]([[たつの市]])とされ、そこから勢力が東に伸長して中播磨の壇場山古墳に移り{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=506-511}}、次いで壇場山古墳の北西の[[#山之越古墳|山之越古墳]]に継承されたと推測される{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。
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古墳は壇場山古墳の主軸線上、北西約150メートルの地に位置する{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。一辺約60メートルの方墳で{{Sfn|姫路市史 第1巻 下|2013|pp=269-281}}、高さは約7メートル{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。方墳としては兵庫県下で最大規模であるが、現在までに墳丘北半の大部分が削られ、全体的にも荒廃が進んでいる{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。かつては段築があったと推定されるが、現在にその痕跡は認められていない{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。墳丘表面には葺石が葺かれたと見られ、また円筒埴輪の細片が検出されている{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。墳丘周囲には幅約17メートルの周濠が巡らされていた{{Sfn|姫路市史 第1巻 下|2013|pp=269-281}}。
 
主体部の埋葬施設として組合せ式の長持形石棺が現在墳頂に露出するが、竪穴式石槨の痕跡が周囲に見当たらないことから、この石棺は墳丘に直葬されたと見られている{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。石棺の石材は壇場山古墳と同様に、加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト<ref group="注" name="竜山石"/>(竜山石)になる{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。長さは壇場山古墳石棺に比べて短く、様式からはやや後世のものとされる{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。石棺は[[1897年]](明治30年)に開蓋されており、棺内には白色の川原石が敷かれた上に被葬者が北を頭位として伸展状態で安置され、さらに[[銅鏡]](直径16.4センチメートルの獣帯鏡)・[[勾玉]]・[[管玉]]・刀剣等の副葬品があり、副葬品には朱が付着していたという{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。しかし現在までに勾玉・管玉類は散逸し、残る銅鏡・刀剣類も大きく破損している{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。他に棺外にも刀剣等の埋葬があったというが、詳らかではない{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。
 
この山之越古墳の築造時期は、壇場山古墳に次ぐ5世紀中頃と推定される{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。かつては壇場山古墳の陪塚と考えられ、「第三古墳」として国の史跡にも指定されたが、現在では壇場山古墳に次ぐ首長墓と推定されている{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。大規模な古墳ではあるが前方後円墳ではなく方墳が採用された点から、被葬者がヤマト王権の強い統制下に置かれた様子が指摘される{{Sfn|姫路市史 第7巻 下|2010|pp=512-515}}。