遠江国
遠江国(とおとうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、東海道に位置する。現在の静岡県の大井川の西部に当たる。かつて、大井川の河口は現在より東だったため、現在の焼津市の旧大井川町域も大井川の右岸で、明治初期まで遠江国榛原郡(はいばらのこほり)であった。遠州(えんしゅう)とも呼ばれ、現在もしばしば用いられる。

■-東海道
歴史
律令時代
遠江は、古くは遠淡海(とほつあはうみ)と表記した。遠淡海は、一般的に浜名湖を指すと言う。(ただし、国府のあった磐田郡の磐田湖(大之浦)を指すとする説もある。) 都(京都)からみて遠くにある淡水湖という意味で、近くにあるのが琵琶湖であり、こちらは近淡海(ちかつあはうみ)で近江国となった。
7世紀に、地方豪族であった遠淡海国造、久努国造、素賀国造の領域を合わせて設置された。
国府所在地は、中世に「見付」と呼ばれた所で、現在の磐田市にあった。国府は磐田郡にあり。
東隣の駿河国との境は大井川であった。奈良時代には、大井川の流路が現在より北を流れていたため、今の栃山川以南が遠江国に含まれていた。
中世後期から近世
室町時代には斯波氏、今川氏が守護に補任される。斯波氏の遠江支配は弱く、戦国時代に元来強固な地盤をもつ東の駿河国の今川氏に併呑され領国化した。今川氏は甲斐国の武田氏による駿河侵攻で滅亡し、遠江の今川領国は武田氏と三河国の徳川家康により分割された。武田氏はさらに遠江・三河方面への侵攻を志向する西上作戦を行い、家康は浜松城を築いて居城を移し武田氏と対峙した。武田軍と徳川軍が交戦した遠江国の地としては、二俣城や三方ヶ原が有名である。武田軍が伊那地方から遠江国に入る際には、兵越峠経由の連絡線が整備された。
安土桃山時代になると、武田氏滅亡跡に武田領国を確保した家康は関東八カ国に移転し、代わって遠江国には豊臣系大名が配置され、浜松城に堀尾吉晴が、掛川城に山内一豊が転入する。
江戸時代になると、吉晴は松江城に、一豊は高知城に移転する。代わって、遠江国には浜松藩と掛川藩が設置され、譜代大名が入れ替わりで入った。又、江戸時代には、伊那盆地や水窪の木材が、天竜川の舟運を利用して遠江国平野部に運搬された。
明治維新以後
明治維新を迎えると、廃藩置県で遠江国は浜松県となった。しかし、1876年(明治9年)8月21日の県合併で、浜松県は静岡県(駿河国)や足柄県の一部(伊豆国)と合併した。この決定に怒った遠江地方民は、何度か遠江国の分離を明治政府に懇願したが、いずれも却下されて終った。
又、廃藩置県によって武士たちが失業すると、牧之原台地の開拓が実施され、緑茶畑が造成された。これ以後、小笠山周辺には、緑茶畑が多く見られる。
1889年(明治22年)に東海道本線が開通すると、江戸時代の天竜川の舟運とも重なって、浜松には綿織物工場や楽器工場が多く立地するようになった。
律令時代の主要機関
国府・国分寺・国分尼寺・安国寺・利生塔
国府は、『和名抄』では豊田郡、『拾芥抄』では磐田郡である。 初期の国府は、木簡や墨書土器が出土したことから、御殿・二之宮遺跡と推定されるが、決定的証拠は出ていない。仁治3年(1242年)以後に成立した『東関紀行』には、「遠江の國府(こふ)今の浦に著きぬ」とある。今の浦は、見付の南隣である。 また、鎌倉時代後期以降に成立した『源平盛衰記』、および建治3年(1277年)または弘安2年(1279年)の日記とされる阿仏尼の『十六夜日記』には、見附の国府(みつけのこう)とある。
守護所も見付の国府の近隣に有り、中世後期には要塞化して見付城や府中城と呼ばれた。
国分僧寺は磐田市中泉にあった。819年に焼失したが、磐田市見付の参慶山延命院薬師国分寺(本尊:薬師如来)がその法燈を伝承する。尼寺は磐田市国府台本町にあった。
安国寺は掛川市大坂の金剛山貞永寺(本尊:釈迦如来)が法燈を受け継ぐ。利生塔は未詳である。
式内社・一宮以下・総社など
『延喜式神名帳』に記載される神社(式内社)は、大社2社2座、小社58社60座の、計60社62座である。大社2社はどちらも名神大社である。一つは蓁原郡の敬満神社で、島田市の敬満神社に比定されている。もう一つは浜名郡の角避比古神社であるが、明応7年(1498年)の大津波で流され、その後に各地で再建・遷座されたため、論社が3社あり、結論が出ていない。明治4年(1871年)に「角避比古神社」として国幣中社に指定されたが、その後、「鎮座地不明」として社格が除かれた。
一宮には二つの説がある。一つは周智郡森町一宮鎮座の小国神社であり、1235年の史料に「当国鎮守小国一宮」とあるのが初見。1127年の史料に「遠江国一宮」とあるが、これは笠原荘一宮の高松神社を指す。もう一つは掛川市八坂鎮座の事任八幡宮で、『大日本国一宮記』ではこちらになっている。吉田家の系統の書物ではこちらになっていて、神社が権威を付ける為に、神社界の権威の吉田家に一宮の認定を依頼したという説がある。
二宮も二つの説が有る。一つは磐田市二之宮鎮座の鹿苑神社(高根明神)で、もう一つが湖西市中之郷鎮座の二宮神社であるが、中世史料に二宮についての記述はない。三宮以下はなし。
総社は磐田市馬場町鎮座の淡海国玉神社である。1789年の『遠江国風土記伝』によると、磐田郡向坂郷の磐田明神が、国府のある見付に移されて惣社とされたという。
守護
鎌倉幕府
室町幕府
- 1336年~1338年 - 今川範国
- 1339年~1343年 - 仁木義長
- 1346年 - 千葉貞胤
- 1351年~? - 仁木義長
- 1352年 - 今川範氏
- 1352年~1365年 - 今川範国
- 1379年~1384年 - 今川範国
- 1384年~1388年 - 今川貞世
- 1388年~1399年 - 今川仲秋
- 1395年~1399年 - 今川貞世
- 1400年~1401年 - 今川泰範
- 1405年~1407年 - 斯波義重
- 1407年~1413年 - 今川泰範
- 1419年~1433年 - 斯波義淳
- 1433年~1436年 - 斯波義郷
- 1436年~1452年 - 斯波義健
- 1452年~1460年 - 斯波義敏
- 1460年~1461年 - 斯波氏
- 1461年~1466年 - 斯波義廉
- 1466年 - 斯波義敏
- 1466年~1470年 - 斯波義廉
- 1491年~1501年 - 斯波義良
- 1508年~1526年 - 今川氏親
- 1526年~1536年 - 今川氏輝
- 1536年~1560年 - 今川義元
- 1560年~1569年 - 今川氏真
国司
遠江守
定員:1名。官位相当:従五位下 ※日付=旧暦
- 源忠重 従四位下
- 源為憲
- 藤原為房
- 藤原俊成(保延3年〈1137年〉12月16日~久安元年〈1145年〉12月30日)従五位下→従五位上
- 平重盛(保元3年〈1158年〉8月10日~平治元年〈1159年〉12月27日)正五位下
- 平宗盛<1159年(平治元年)12月27日~1160年(永暦元年)1月21日>従五位下
- 安田義定(寿永2年〈1183年〉8月10日~文治6年〈1190年〉1月26日) 従五位下(建久2年〈1191年〉3月6日~建久4年〈1193年〉11月28日)従五位上
- 北条時政(正治2年〈1200年〉4月1日~元久2年〈1205年〉閏7月19日)従五位下
- 北条時房(元久2年〈1205年〉8月9日~元久2年〈1205年〉9月21日)従五位下
- 北条(江馬)光時
- 北条朝時(嘉禎2年〈1236年〉7月20日~仁治3年〈1242年〉5月10日)従五位上→従四位下
- 北条朝直(寛元元年〈1243年〉7月8日~寛元4年〈1246年〉4月15日)正五位下
- 北条時直
- 北条教時(文永7年〈1270年〉閏9月23日~文永9年〈1272年〉2月11日)従五位上
- 北条時基(弘安3年〈1280年〉11月~弘安7年〈1284年〉4月)
- 北条時定< ~正応3年〈1290年〉>
- 北条時範(嘉元2年〈1304年〉6月6日~徳治2年〈1307年〉8月14日)従五位上→正五位下
- 北条随時( ~元亨元年〈1321年〉6月23日)従五位下
- 佐竹貞義 常陸守護
- 宇都宮宗泰
- 相良定頼(1357年~ )
- 蘆名直盛
- 朝倉景冬
- 織田広近
- 津田武永
- 蘆名盛詮
- 蘆名盛滋
- 二階堂晴行
- 牛尾幸清
- 色部昌長
- 色部憲長
- 相良武任 従五位下
- 浦上宗景
- 望月昌頼
- 宇都宮豊綱
- 成松信勝
- 小出秀家 従五位下
- 小堀政一(慶長13年〈1608年〉~ )従五位下
- 小出秀家 江戸幕府旗本。
- 加納久周
郡