風見しんご

日本のアイドルタレント(1962-)

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風見しんご(かざみ しんご、1962年10月10日 - )は、日本タレント歌手ダンサー俳優。本名、大下 義博

かざみ しんご
風見 しんご
本名 大下 義博
別名義 風見 慎吾
生年月日 (1962-10-10) 1962年10月10日(63歳)
出生地 広島県広島市西区
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
身長 169cm
血液型 A型
職業 タレント歌手俳優
ジャンル バラエティ番組テレビドラマ
活動期間 1982年 -
配偶者 既婚
著名な家族 次女
受賞
第16回日本有線大賞最優秀新人賞
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広島県広島市西区己斐(こい)出身。成蹊大学工学部中退。当初の芸名は「風見慎吾」。

既婚者であり、2007年1月中旬以降、妻と次女と生活している(長女は交通事故で死亡、詳細は後述)。

来歴・人物

地元の町工場を経営する父の影響でエンジニアを目指し、広島学院中学校・高等学校に進学。この時の同級生に現:衆議院議員河井克行(広島3区選出・自民党所属)がいる。周囲からは地元の広島大学を勧められたが、東京成蹊大学に進学する。

1982年TBS欽ちゃんの週刊欽曜日』オーディションに合格してデビュー(当時は「風見慎吾」という芸名だった)。合格した理由も、この時のオーディションで萩本欽一に会った時に大きな声であいさつし「有名人を前に萎縮することもなくて、バカでかい声であいさつして。合格!」と言われたという単純なことだった[1]。この番組で欽ちゃんファミリーの若きメンバーとして存在感を放つ。その傍らで劇男一世風靡が分裂する前の劇男零心会のメンバーとして活躍していた(劇男零心会に参加していたが劇男一世風靡には参加していない)[2][3]

1983年には「僕笑っちゃいます」でレコードデビューを果たし、第16回日本有線大賞最優秀新人賞、第16回日本レコードセールス大賞新人賞(男性部門)をそれぞれ受賞した。4曲目の「涙のtake a chance」(1984年12月リリース)は、自らニューヨークに出向き猛特訓でブレイクダンスを修得。振り付けに取り入れ話題を呼ぶ[4][5]。これをテレビで見てブレイクダンスを始めたものも少なくない[6](1985年放送のフジテレビのドラマ『スタア誕生』、『ヤヌスの鏡』に出演の際にも一部踊っているシーンがある)。日本におけるブレイクダンスの先駆者であり、テレビを通して日本中にブレイクダンスを広めた人物の1人である[4][5][7][8][9][10][11]。   岡村隆史ナインティナイン)やガレッジセールもリスペクトする存在と語ったことがある[7][12]CRAZY-AやCAKE-Kらは風見のバックダンサーを務めた[13]2009年マドンナの欧州ツアーのバックダンサーを務めたTAKAHIROは日本テレビ速報!歌の大辞テン』で見た風見の「涙のtake a chance」に衝撃を受け、ダンスにのめり込んでいったと話している[14]

またこれ以前の歌のダンスは、あくまで歌の振り付けであったが、この曲はダンスに歌が付いている、といえる程大胆にダンスを取り入れており、ここまでの楽曲はこれ以前になく、このため今日隆盛を極めるダンスミュージックの先駆者、としての評価もある[4]。なお、ダンスの激しさと当時の演奏事情から、生歌のみで披露するとマイクを通して息継ぎの音が大きく聞こえたり、口からマイクを一定の距離で固定出来ないことによりマイクを通して聞こえるボーカルの音が大きくなったり小さくなったりしたため、音楽番組へ出演した時はレコーディングされたボーカルを流し、そこに生歌を被せて披露していた。また生歌でも不可能な場合は口パクで対応したりもした。この事態から、平野啓一郎は、激しいダンスと歌の両立はムリ、という風見の提示が、後に歌とダンスの役割を分担するTRFEXILEのようなグループを生み、他方「口パク」OKで、歌手自らが踊りながら歌うという流れを生んだと解説している[15]。なお、風見自身は2011年10月15日放送の『お願い!ランキング』において、「口パクは1度もしていない」と答えており、歌唱は全て生歌だったと話している。

涙のtake a chance」の次はタップダンスを、と師匠格の萩本欽一に促されるも、本人が固辞し5曲目はさらに激しいダンス(ヌンチャクを使用した、本人曰く「バトルダンス」)の「Beat On Panic」(1985年4月リリース)となり、タップダンスは封印される。同曲は打ち込みを導入したエレクトロ風のファンキー楽曲[8]、曲の一部にラップが取り入れられており、これも日本のポピュラー音楽への導入としては初期のものとなる。

1987年、映画に2本主演。『泣き虫チャチャ』は自身の6曲目「泣き虫チャチャの物語」がテーマ曲。『あいつに恋して』はデビューしたての森高千里をヒロインに迎えている[16]

映画の役柄でピアスを開けたが、当時はピアスをしている男は少なく、同郷の"吉川晃司とデキてる"とか、週刊誌にいろいろ書かれた。この頃、銀蠅一家矢吹薫嶋大輔の三人で「ハリケーントリオ」を結成して全国を回った[2]。風見はデヴィッド・ボウイの大ファンで、デヴィッド・ボウイと同じスーツを作ってもらって、化粧して、ビリー・ジョエルや、カルチャー・クラブの楽曲や、欽ちゃんファミリーメドレーなどを三人で歌った[2]。選曲は大岩賞介[2]

バンドブーム全盛期の1988年から1990年まで、東京放送で放送された音楽番組・『キラリ・熱熱CLUB』の司会を16回まで務めた[17]。またニッポン放送で、嶋大輔や羽賀研二松村雄基らと『どんまいフレンド』というラジオ番組を持った[2]

一人称を「自分は〜」と呼ぶ口調が特徴的(普段の公式ブログやコメントなどでは主に「僕」である)。1990年代頃よりバラエティ番組やドラマに出演している。

2007年1月17日、当時10歳で小学5年生の長女が東京都世田谷区で通学時、青信号のタイミングで交差点通行中、2トントラックにはねられ、病院に搬送されたが死亡した。病院での治療時、風見および親族が見守る中、長女は止まっていた心臓を一時動かしたが、その直後再び心肺停止となり、風見は「何でこんなことで命落とさなきゃいけないんだ!?」と叫んだという(情報番組での報道)。霊安室にて長女の遺体を目の当たりにしながら、「こんな思いは誰にも味わってほしくない」と思ったという。長女の死化粧担当者に「娘は花嫁になるのが夢だったので、死化粧ではなく、花嫁化粧でお願いします」とお願いした(後述の著書より)。その後、通夜の場で会見を行い、涙を流しながら「娘と飲酒をしたかった」などと述べた。ただこの会見の中で「喧嘩嫌いだった長女のため」として加害者への思いは一切述べなかった[18]。その後、長女の死から四十九日を経過した際に加害者への思いを表したコメントを発表している。事故の詳細と裁判についてはウィキニュースのリンクを参照のこと。

長女亡き後は、交通事故死亡者をなくすために、各地で交通事故や命の大切さについてを語った講演と、警察等が主催する交通安全関連のイベントや啓蒙活動への参加を盛んに行っている。長女の一周忌にあたる2008年1月には、長女や交通事故に対しての思いを綴った著書(この本のISBNコードはISBN 978-4903853178)を出版した。

2008年、NHK福岡放送局の要請を受け、『追放!飲酒運転』キャンペーンの1分CMに出演。合計6本作られたそのCMでは、自らナレーションを務め、長女の写真も提供。自ら長女の実名を挙げることで、交通事故の悲惨さを訴えている。NHKアナウンサー松尾剛のインタビュー取材では、時折涙を流しCM出演を受諾するに至った思いを語った。2011年11月から12月にかけて、広島県の「広島被害者支援センター」のCMに出演、その中で当時を「自分だけが真っ暗な中に1人ぽつんといる気持ちになった」と振り返っている[19]

「(長女の死亡直後)当初は時間が経てば気持ちは収まるかなと思ったが、時を重ねるごとに気持ちは変わらないんだな」と悟るようになったという。長女の死亡後、家庭が崩壊状態(妻が病で寝込むようになったり、長女の死亡当時、3歳だった次女が異様行動を取るようになったという)になったこともあると話している。後に「長女を守れなかった分、絶対に次女を守ろう」「今でも毎晩ベッドに入って目を閉じると、最初に事故の現場の映像が出てくる。僕が現場に駆けつけて目にした光景が・・・。家内も同じだと言います。でも今は『これではいけない。前向きに生きよう』と心に決めました。長女と天国で再会した時、『パパ、よく頑張ったね』と言ってもらえるようしっかりと生きていかなければいけない」との思いを持つようになったとしている。また、長女の死亡後は自身が車を運転する機会が以前の10分の1に減り、仕事やプライベートで外出する時は電車やバスを利用している。自分が車を運転している目の前に長女が出てきて、彼女をひいてしまうという悪夢にうなされることもあるという[20]

2010年9月20日放送分のフジテレビ『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』内「伝説的アイドルの祭典! 史上最多30人大集結スペシャル!!」に出演(久々の音楽番組出演)し、「涙のtake a chance」を披露。終わった後のインタビューで「今、すっごく膝が痛いです」と言いながらも、以前テレビに出演していた時と同じ振り付けで歌い、当時と変わらぬ切れのあるダンスを披露した。

エピソード

  • 2010年代以降、風見は日本におけるブレイクダンスの先駆者として再評価されている[4][7][8][9][10][11]クリス松村は「風見の『涙のtake a chance』で、日本人が初めてブレイクダンスを見た」と話しており、ブレイクダンスは風見がテレビで披露したことにより、広く日本で知られるようになったものである[21]。風見が振付にブレイクダンスを取り入れた経緯については、映画『フラッシュダンス』で子供たちが踊るシーンを見て思いついたと話している[22]。ブレイクダンスはストリートダンスの一つで、当時はあくまでストリートでやるものであって、それを歌の振り付けに入れようとかテレビでやろうとかという発想はまだない時代だったという[23]。当時は「ダンサー=日テレ音楽学院」「ザ・バーズ」という頃[2]、まわりにブレイクダンスをやっている人は当時誰もおらず、ニューヨークに渡りブレイクダンスを修得したと話している[5][21][22]
  • 大学在学中の1980年東京ビクトリークラブのメンバーだった哀川翔原宿で見て、チームに入れてくださいと懇願しメンバー入り[3]。デビュー前はリーゼントでキメて、愛称は"ボビー"。哀川とお揃いのダブル革ジャンを着て、ラバーソウルを履いて二人で歩いていると、当時よく雑誌に声をかけられた。「ポップティーン」か「プチセブン」に初めて載った名前は"ボビー"であった。哀川が始めた劇団に「お前も参加しろ」と声をかけられて参加して、その後、その劇団に入って来たのが野々村真羽賀研二で、柳葉敏郎はまだいなかった[2]。欽ちゃんのオーディションは風見と野々村は二人で行ったという[3]。風見と野々村は劇男一世風靡の前身・劇男零心会のメンバーで、劇男一世風靡には参加していないが、「哀川翔のオトナ倶楽部 第15回」(BSフジ)で哀川は、風見と野々村を「初期一世風靡のメンバー」と紹介した[3]
  • 1975年9月10日、初優勝に向かって驀進する広島の対中日戦(広島市民球場)で、本塁上のタッチプレーを巡り中日の新宅洋志と広島の三村敏之が激しく言い争い、普段温厚な三村が激怒したとあって広島ベンチから選手が飛び出し、やがて観客もグラウンドに入り乱れての大乱闘へと発展した[24]。この日、試合を観戦に来ていた当時中学生の風見がこの騒ぎに乗じて中日の星野仙一に砂をかけたという。後年風見が『ザ・ベストテン』に出演した際、スタジオから星野(当時野球解説者)に生電話をかけて謝罪したいということで、この時の話をすると、星野は「そういえば、何か小僧に砂をかけられたことは覚えているよ。あんときのガキゃぁお前じゃったんか!!(「あの時のガキはお前だったのか!!」)」と答えた。その後、広島市民球場のフェンスは、金網の目を細くして足が掛からないようにしたり、上部を大きく内側に折れ曲げたりし、簡単には乗り越えられないようにしていた。当時中日の選手会長だった谷沢健一は「あの乱闘で自分自身も含めて中日の選手6人とコーチ4人が負傷させられ、結局、レギュラー野手4人とエースの負傷も響いて、中日は二連覇を逃した」と話している[25]
  • 自宅でワニを飼っている(飼育許可申請済み)。子供の頃にもワニを飼っていた話を昔テレビでよくしていた。親に見つかって怒られ、自宅近くの川に捨てたら、近所の老婆が見つけて警察に通報して大騒ぎに。しかしワニは見つからず。老婆が絶対にワニがいたと言い張るが、お巡りさんが「おばあちゃん、広島の川にワニはいないんだよ」と説得していたというもの。
  • 芸名の由来は『仮面ライダーV3』の主人公・風見志郎(仮面ライダーV3)からである。
  • 前述のように『欽ちゃんの週刊欽曜日』のオーディションで合格した理由が、大きな声でのあいさつということだったが、風見自身は元々母親から大きな声であいさつするように言われて育ち、声が大きくなったことで友達も出来易く「いいことがたくさんあった」という。こういったことから、自分の娘たちにも大きな声であいさつすることを教えているという。なお、娘たちには自分たち両親のことを「チチ」「ハハ」と呼ばせている[1]
  • 子供の頃に少林寺拳法を習っていた事があるが喧嘩で使った事は一度もないとの事である。

出演作品

テレビドラマ

映画

Vシネマ

  • 爆走トラッカー軍団3 紅薔薇軍団参上!(1993年)野口勝男 役
  • 爆走トラッカー軍団4 浪花(暴)遊侠伝 (1993年)野口勝男 役

舞台

バラエティ

現在

過去

その他

音楽活動

シングル

  1. 僕笑っちゃいます/OTONA BIRTHDAY(1983.5.21)
  2. 泣いちっちマイ・ハート/悲しきStand-in Boy(1983.11.16)
    小堺一機関根勤バックダンサーズの名前でバックダンサーを務めていた。
  3. そこの彼女/朝陽のプロローグ(1984.6.5)
  4. 涙のtake a chance/涙のtake a chance-Instrumental Dance Version-(1984.12.21)
    作詞:荒木とよひさ、作曲:福島邦子
  5. Beat On Panic/Hollywoodスペシャル(1985.4.24)
  6. 泣き虫"チャチャ"の物語/LOVING YOU(1985.9.25)
  7. ゆるら/今さら Fall in love(2012.2.22)

アルバム

  1. FRIDAY TROUBLE (1983.11.5)
  2. Whoopee ~ギャーピーの叛乱~ (1985.7.5)
  3. 特売 (1985.12.05)
  4. 風見慎吾 ゴールデン☆ベスト 〜FRIDAY TROUBLE+シングルス〜 (2011.5.25)

脚注

  1. ^ a b あのねっとインタビュー 風見しんごさん”. あのねっと (2003年2月18日). 2014年6月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 吉田豪掟ポルシェ『電池以下』アスペクト、2012年、 pp.18-24
  3. ^ a b c d 哀川翔のオトナ倶楽部<哀川翔―「自由」とは「暗黙のルール」がある 哀川翔 初プロデュース番組! 「哀川翔のオトナ倶楽部]
  4. ^ a b c d 風見慎吾 ゴールデンベスト ~FRIDAY TROUBLE+ ... - Sony Music ShopSony Music Shop | 風見 しんご・ゆるら
  5. ^ a b c 風見しんご FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT,INC.
  6. ^ クレンチ&ブリスタ、待望の2ndアルバム!! ZERO MAGAZINE|ゼロマガジン / インタビュー石田靖 公式ブログ『やすログ』: 最近のブレイクダンス・懐かしいの... 原点 そして進化へ (Weblog)TDM Special イベントプロジェクトチーム「feelin'」特集viBirth Artist Interview♯026『竹本健一』 | viBirth Magazine
  7. ^ a b c NEWSポストセブン|ダンスブームの先駆け・風見しんご
  8. ^ a b c 風見慎吾/Beat on Panic(7インチ) - MEGURU RECORDS
  9. ^ a b お願い!ランキングGOLD 2時間スペシャル』(テレビ朝日、2011年10月15日放送)
  10. ^ a b KakiiinTBSラジオ、2012年2月27日放送、FEEL SO MUSE、エフエム富士、2012年2月28日放送
  11. ^ a b 二人の食卓〜ありがとうのレシピ〜|テレビ朝日|2011/09/10NHK-FM 2009年8月15日『今日は一日"なつかしのアイドル"三昧』ザ・トップテン : ステージ・音楽・映画 : 日テレプラス風見しんごさん!|片岡信和オフィシャルブログ 「curiosity killed the catDEEP DIVE ― MCUhiphop : Tosaken Blogよゐこの芸能日記 2006年5月19日山野楽器:MEG-CD(メグCD)のご案内
  12. ^ [1]
  13. ^ "伝説のB-BOY"CRAZY Aは欽ちゃんファミリーだった!? - 日刊サイゾーKingrecords Webcommunication>CAKE-KダンススタジオREAL-D - ARP
  14. ^ 九州スポーツ、2010年4月22日9面、Dancer Takahiro Ueno interview by Mie IwatsukiTAKAHIROオフィシャルブログ「NYをダンスで生きる」MCU “Namida no take a chance” | TAICHIMASTER.JP
  15. ^ nikkei TRENDYnet(日経トレンディネット) 作家・平野啓一郎による現代の仕事人伝
  16. ^ 森高千里「私がオバサンになっても」(前編)(1)九州育ちが「どさん娘」デビュー
  17. ^ a b TBSオンデマンド|音楽|キラリ・熱熱CLUB
  18. ^ http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/41405/ ORICON STYLE
  19. ^ 被害者支援センターCM 1人で悩まず相談を 風見さん、呼びかけ 広島 産経新聞 2011年11月27日配信
  20. ^ いずれもTBS『ひるおび!』(2012年4月10日放送分)、『爆報! THE フライデー』(2012年4月27日放送分)、『TechinsightJapan編集部 みやび』(2012年4月28日 http://news.livedoor.com/article/detail/6514901/ )、『女性自身』(http://jisin.jp/news/2547/4385/)。
  21. ^ a b スター☆ドラフト会議』(日本テレビ、2011年12月13日放送)風見しんご | スタードラフト会議 | TVでた蔵
  22. ^ a b 『J-POP 青春の'80』(NHK BSプレミアム、2011年5月5日放送)、NHKアーカイブス J-POP青春の’80 浅香唯・石川ひとみ・石野真子 ほか
  23. ^ 徹子の部屋』2012年3月14日出演時の本人発言。
  24. ^ 日めくりプロ野球 【8月3日】1975年(昭50)― スポニチ Sponichi Annex 野球第15回 プロ野球 前代未聞!警備不安による中止 ― スポニチ デイリースポーツonline/61歳早すぎる…元広島監督三村氏急死
  25. ^ ウォーリー与那嶺氏の「お別れの会」 - 谷沢健一のニューアマチュアリズム
  26. ^ 「伊東家ランド」第2日本テレビも出演した。

外部リンク