利用者:08-DYI/下書き1

これはこのページの過去の版です。08-DYI (会話 | 投稿記録) による 2025年8月8日 (金) 12:36個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
今川 貞世
時代 鎌倉時代後期 - 室町時代
生誕 嘉暦元年(1326年
死没 応永27年8月28日1420年10月5日)?
改名 貞世、直氏、了俊(法名)
別名 六郎(通称)、徳翁
戒名 海蔵寺徳翁了俊
墓所 静岡県袋井市海蔵寺
官位 左京亮伊予守
幕府 室町幕府侍所頭人・山城守護
引付頭人九州探題
遠江駿河半国守護
主君 足利尊氏義詮義満
氏族 今川氏
父母 父:今川範国
兄弟 範氏貞世氏兼仲秋
正室:土岐頼雄の娘
貞臣名和貞継言世尾崎貞兼満範
娘(吉良俊氏室)
養子:仲秋
花押 08-DYI/下書き1の花押
テンプレートを表示

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝室町時代武将守護大名室町幕府九州探題遠江駿河半国守護。九州探題赴任中は備後安芸筑前筑後豊前肥前肥後日向大隅薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれることも多い。没年は異説あり。『難太平記』の著者である。

生涯

畿内での活動

今川範国の次男として生まれる。生年は諸説あるが、嘉暦元年(1326年)に誕生したとされる[* 1]。兄に範氏、弟に氏兼仲秋がいる。

幼少時は不明だが、鎌倉幕府滅亡までは鎌倉で過ごしたとされ、滅亡後は父の本拠地である遠江の見付(現在の静岡県磐田市)で過ごしたと推測される。父に従っていた記録は残り、12、13歳頃から和歌を学ぶ。また後の著作『難太平記』では13歳頃の延元3年/暦応元年(1338年)に駿河守護となった父に連れられて富士山本宮浅間大社に参拝したことを書いている[2][3]

足利将軍家内部の対立から室町幕府初代将軍足利尊氏と弟の足利直義の両派の抗争へ発展した観応の擾乱においては、父と共に将軍側に属する。『太平記』によると、正平6年/観応2年(1351年)の薩埵峠の戦いでは伊予守の官職名で貞世が初めて登場する。以後直義派や南朝勢力と戦い、正平10年/文和4年(1355年)には細川清氏に従い直義の甥で養子(尊氏の庶子)である足利直冬の軍と東寺合戦で戦う(『難太平記』)。『太平記』では正平14年/延文3年(1359年)に2代将軍足利義詮の南朝征伐に兄範氏と共に参戦、翌正平15年/延文5年(1360年)まで畿内を転戦したという[4]

室町幕府執事となった清氏が正平16年/延文6年(1361年)に失脚して南朝に下ると、父の命で講和呼びかけの為に遠江から京都へ召還される。上洛途中に清氏が領国若狭へ出奔したため会うことは無かったが、同年に南朝の部将として京都を占拠した清氏の軍勢と交戦した(『太平記』)[5]。軍事活動のほか、正平21年/貞治5年(1366年)から正平23年/応安元年(1368年)まで幕府の侍所頭人兼山城守護を務め、正平22年/貞治6年(1367年)から建徳元年/応安3年(1370年)まで引付頭人などを務めた(遠江守護にもなったとされるが事績がはっきりしない)。正平22年に義詮が死去すると出家して了俊と名乗った[6][7]

この時期に起こった今川氏の駿河守護継承問題にも関与、正平20年/貞治4年(1365年4月30日に兄範氏が亡くなると、父が兄の駿河守護職を了俊へ譲ろうとしたが了俊は辞退、半年後の10月19日に兄の遺児で甥の今川氏家が義詮から駿河守護に補任された。数年後に氏家も子の無いまま亡くなると(正平24年/応安2年(1369年)以前とされる)、氏家の意向で了俊の嫡男貞臣に駿河守護が譲られることになったが、了俊はこの時も辞退して出家していた氏家の弟・今川泰範を還俗させて次の駿河守護とした[8][9]

九州平定

3代将軍足利義満時代の建徳元年6月頃に、管領細川頼之から渋川義行の後任の九州探題に推薦され、正式に任命された(引付頭人は9月に辞任)。観応の擾乱後に南朝方の菊池武光征西大将軍懐良親王を奉じた征西府、足利直冬等が分立し、直冬が九州を離れた後に征西府が北朝(幕府)方の筑前守護少弐頼尚を撃破して大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていた九州の平定のために派遣されることになったのだが、歴代探題(一色範氏一色直氏斯波氏経・渋川義行)はいずれも成果を挙げられず、幕府劣勢下での人事であった[10]

九州探題に任命されると一旦本国・遠江へ戻り、九州下向準備をした後10月に上洛、建徳2年/応安4年(1371年)2月に京都を出発、5月に安芸に留まり、毛利元春吉川経見熊谷直明長井貞広山内通忠国人衆を招集している。了俊の九州戦略は周防長門大内弘世義弘父子等の協力も得て新興の国人勢力と連絡し、阿蘇惟村の協力を得て豊後に嫡男の貞臣を田原氏能と共に豊後高崎山城に入り込ませ、弟の仲秋は松浦党の協力を得て肥前から大宰府を攻め、了俊自身の兵は豊前から大宰府を攻める方針を取った[11][12]

この方針に沿って貞臣は7月に高崎山城へ入ったが菊池武光の息子菊池武政の軍に包囲され苦戦、翌年の文中元年/応安5年(1372年)1月まで防衛に徹した。一方、仲秋は11月に肥前へ移り、文中元年2月に攻めて来た武政の軍を破り筑前へ進出した。了俊も建徳2年12月19日に九州へ渡り、豊前門司へ上陸した後、文中元年に筑前の諸城を攻略した。そして8月に肥前から筑前に入った仲秋と合流し8月12日に征西府の大宰府を攻略、懐良親王・菊池武光等を筑後高良山福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで追い、大宰府を北朝方の拠点とした[13][14]

この後戦局は肥後へ移り、文中3年/応安7年(1374年)7月、水島まで出兵した。天授元年/永和元年(1375年)、水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる豊後の大友親世、筑前の少弐冬資大隅島津氏久らの来援を呼びかけた。三人衆のうち唯一九州探題と対立していた少弐冬資は着陣を拒んだが、島津氏久の仲介で来陣した。水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺する挙に出た。この水島の変により氏久は離反して帰国、島津氏は了俊の九州経営に抵抗するようになった。また、大友親世も探題に対して嫌疑を抱き、了俊への支援を止めてしまった。

 
永和2年に出された今川了俊の自筆書状(九州国立博物館蔵)[15]

九州の有力大名の離反によって一転して窮地に陥った了俊は、同盟関係にあった大内氏に協力を要請する。これに対して大内弘世は難色を示したが、子の義弘は了俊を支持し、九州に援軍を派遣している。また、大内氏と婚姻関係のあった大友親世も消極的ではあったが北朝方に帰順した。水島の変から2年後の天授3年/永和3年(1377年)には菊池武朝阿蘇惟武ら南朝勢力と肥前蜷打で激突。戦いは北朝方の大勝に終わり、南朝方の有力武将を多数討ち取った(肥前蜷打の戦い)。一方、この頃から了俊は、右手の中風に悩まされるようになった[16]

蜷打の戦い以降、了俊は再び南朝方に対する攻勢を強め、弘和元年/永徳元年(1381年)には武朝を本拠地隈部城から追放している。南九州に下った氏久と甥の島津伊久に対しては5男の満範を派遣して南九州国人一揆を結成させ、弘和元年10月に帰順させている。元中8年/明徳2年(1391年)に八代城名和顕興と征西大将軍良成親王を降伏させ、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一を機に武朝と和睦し、九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たした。

但し、氏久と伊久は天授3年にも1度降伏しているが、これは満範が国一揆を率いて日向都之城北郷義久を攻める直前だったためである。都之城の包囲が解かれた後に氏久は国人一揆の調略を行い、了俊の元へ参陣して来なかったので、天授4年/永和4年(1378年)3月に両者は決裂。満範に都之城の再包囲を命じたが、翌天授5年/康暦元年(1379年3月1日3月3日志布志城から後詰に来た氏久に敗れて都之城から撤退した(蓑原の合戦)。南北朝合一後も氏久の息子元久と対立、了俊は応永元年(1394年)に4男の尾崎貞兼を南九州に派遣したが、翌年に九州探題を解任されたため、島津氏討伐は失敗に終わった。

外交では懐良親王を指すとされている「日本国王良懐」を冊封するために派遣された明使を抑留し、日明交渉を将軍足利義満の手に委ねた。また、高麗の使者鄭夢周とも接触して独自の交渉を行い、元中9年に李氏朝鮮が成立しても交渉を継続した。これにより、大内氏にも呼びかけて倭寇(前期倭寇)を鎮圧し、倭寇に拉致された高麗人の送還などを行い、『大蔵経』を求めるなどの善隣政策を推進した[17]

九州探題の解任と晩年

応永2年(1395年)7月、了俊に上京の命が下り、同年8月に上京した。ところが、上京した了俊は九州探題を罷免されてしまい、後任の九州探題として渋川満頼が任命された[* 2]

罷免理由は従来は義満が了俊の自立化を警戒したからとされるが、見直しが進んで別の説が唱えられている。了俊は応永2年に大友親世と庶家の田原氏吉弘氏との争いに介入し、親世の家臣吉弘氏郷を討ったことで親世との武力衝突が起こっただけでなく、氏郷が幕府の直臣だったことから義満の不興も買ったことが明らかになった。更に、親世が義弘や島津元久と結託して了俊と九州大名の協調関係が崩壊、軍事的劣勢に陥った了俊は義満に召還されたため、罷免理由は九州からの撤退に追い込まれたことが原因とされる[19][20]

了俊は九州探題を罷免された後、遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の仲秋、甥の今川泰範と分割統治する事となった[21][22][23]

後任の探題職を望んでいた義弘は親世や了俊に対して関係修復と連合を持ちかけるが、了俊はこれを拒絶し、守護職として駿河の統治に専心した[24]。応永6年(1399年)には義弘がで挙兵し、応永の乱が起こっている。甥の泰範は、了俊が自ら所望して守護職を得たものと勘違いして恨みを抱いており、了俊が義弘と通じていると義満に讒言し了俊と仲秋の守護職を奪い取った。失意の了俊は鎌倉公方足利満兼に乱に呼応するように呼びかけたとされ、義満によって乱の関与を疑われた。応永の乱平定後の翌応永7年(1400年)には関東管領上杉憲定に対して了俊追討令が出された。しかし、了俊は憲定や守護職を奪った泰範の嘆願や弁明、今川一族の助命嘆願の結果許され、了俊は堀越郷を喝命所として与えられ、以後「今川」の名字を名乗ることを禁じられ、「堀越」の名字を称するようになった[25]。応永9年(1402年)には上洛して赦免された。

 
今川氏発祥の地(西尾市今川町・西尾市指定史跡)に立つ了俊(貞世)の供養墓

晩年は『難太平記』の執筆など著作活動を行なった。享年に関しては諸説あり87歳から96歳で没した。なお『今川家譜』などには応永27年(1420年)8月(『寛政重修諸家譜』では同年8月28日)に96歳で没したとあるが、正徹の紀行『なぐさめ草』には応永25年(1418年)の時点で既に了俊が物故していたことが記されている[26]。墓所は静岡県袋井市の海蔵寺に所在するほか、供養墓が西尾市今川町の今川氏発祥の地に立つ。

文学

 
「英雄百人一首」より『今川伊豫守貞世』緑亭川柳著、橋本貞秀

和歌は祖母の香雲院や京極為基冷泉為秀らに学び、連歌では二条良基らに学び、二条良基主催の年中行事歌合に参加している。正徹とも交友。や儒学なども行う。『言塵集』という歌論書や、九州探題としての赴任途中の紀行文『道ゆきぶり』を残す。兼好法師の弟子である命松丸とも親交があり、命松丸が九州下向へ従っている事などから『徒然草』の編纂にも関わっているとも言われるが、否定的研究もある。

晩年には学者として著作に専念し、『難太平記』は古典『太平記』を難ずる意味の歴史書で、応永の乱における自らの立場や、太平記に記されない一族の功績を記している。

人物

了俊の評伝を書いた川添昭二は了俊を高く評価して次の文を残している。「性格は慎重で、いわゆる遠謀深慮であり、軍略用兵に秀で、教養は多方面にわたり、雄勁な書を書いた。まさに当代第一級の人物である」[3][27]

了俊が九州の征西府を制圧出来た理由に、一門子弟を代官として派遣し、全九州の軍事組織と軍事行動を組成・推進出来たことが挙げられる。肥前に仲秋、豊後に貞臣、日向に氏兼、薩摩・大隅に満範をそれぞれ派遣、国人掌握に当たらせた。こうした上からの国人の組織化にある背景には、九州探題は将軍の分身であるとの了俊の政治思想があり、独立性・自立性が強く幕府や守護に抵抗しつつ、自分達が結集するための核として貴種(足利直冬・懐良親王など)を求める国人に対抗し、国人は守護ではなく直接将軍の分身である探題の下に結集し将軍に忠をなすべきと繰り返し強調した[28][29]

しかし、無責任な対応を取ったせいで不信感を抱かれることもあった。天授3年に氏久が武家方に降伏した際、氏久から所領を押領されるのではないかと不安を抱く南九州国人一揆に対し、所領問題では国人に新恩給与された土地の中で、島津氏に関係ある土地は返却するという、島津氏に有利で一揆に不利な対応を取ったため一揆の怒りを買った。こうした点は自覚していたため天授3年12月3日付の一揆宛の書状で「氏久が帰順したため、あなたがたが私のことを恨んでいると聞きました」と率直に述べる一方、「たとえ氏久が参陣したとしても、あなたがたとは無関係の問題であり、あなたがた自身の忠義こそが大事なのです」と忠義を強調する無責任な宣言をするだけだった[* 3][32][33][34]

義弘は姻戚関係にあり、かつ九州で共闘した盟友だったが、了俊は著書の1つ『今川了俊書札礼』で義弘ら大内氏への非難を書いている。「大内氏が送って来る書状は自分に対して無礼な言葉遣いであり、弘世の代から一門も家来も無礼な態度を受け継いで呆れてしまう」という文は了俊が大内氏を無礼な一族だと見做していたことが伺い知れる[35][36]

著作

  • 歌学・連歌書
    • 『二言抄』・『言塵集』・『師説自見集』・『了俊一子伝』・『了俊歌学書』・『歌林』・『了俊日記』・『下草』
  • 紀行文
    • 『道ゆきぶり』・『鹿苑院殿厳島詣記』
  • 故実作法・史書等
    • 『懐紙式』・『難太平記』・『了俊大草子』・『今川了俊書札礼』・『今川壁書』

画像集

脚注

注釈

  1. ^ 群書類従』所収の『今川記』と『続群書類従』所収の『今川家譜』には了俊は正中2年(1325年)出生で応永27年(1420年)没と書いてあるが、この2つの作品は後世書かれた点と誤りが多い点から信憑性に疑問が持たれている。一方、了俊の著作に書かれた年齢を逆算すると嘉暦元年(1326年)になる箇所が多く、嘉暦元年出生が定説になっている[1]
  2. ^ 了俊が解任された理由
    • 了俊を九州探題に推薦した細川頼之が康暦の政変により失脚し元中9年に死去した為、反対派の斯波義将が管領となるなど政界構造が変化して支持基盤を失っていたこと
    • 後任の渋川満頼が義満、義将と縁戚関係にあったこと
    • 南北朝合一を達成して将軍権力を確立した義満が、了俊の九州における勢力拡大や独自の外交権を危険視していたこと
    • 朝鮮との直接通交を望んだ大内義弘が諸大名による朝鮮との直接通交を規制する了俊と対立してその解任を働きかけたこと(実際に了俊罷免直後の11月に義弘は朝鮮との直接通交を開始している)
    以上が指摘される。また『今川記』・『今川家譜』では、召喚された理由は義弘と大友親世の讒言によるものとし、『難太平記』によれば、罷免は2人の人物の企みによるもので、義弘が自ら探題になろうと野心を抱き、義将が渋川満頼を探題にしようとしたためとする噂があったようである[18]
  3. ^ 了俊は満範へ宛てた同年12月10日の書状でこの問題に触れ、「忠節を尽くした人々には面目が立つように、不忠だった人々には今後忠節を尽くすように取り成すための処置だが、それを悪い方に捉えてしまう人々はきっと我々を恨むであろう」と書いている。島津氏と国人双方を両立させるための処置が国人に恨まれる元になることを自覚、両立させることの難しさを述べている[30][31]

出典

  1. ^ 川添昭二 1964, p. 23-27.
  2. ^ 川添昭二 1964, p. 28-29.
  3. ^ a b 亀田俊和 & 杉山一弥 2021, p. 415.
  4. ^ 川添昭二 1964, p. 53-56.
  5. ^ 川添昭二 1964, p. 56-59.
  6. ^ 川添昭二 1964, p. 63-74.
  7. ^ 亀田俊和 & 杉山一弥 2021, p. 416.
  8. ^ 川添昭二 1964, p. 223.
  9. ^ 小和田哲男 2015, p. 66-71.
  10. ^ 川添昭二 1964, p. 76-85.
  11. ^ 川添昭二 1964, p. 85-89,96-97.
  12. ^ 亀田俊和 & 杉山一弥 2021, p. 417.
  13. ^ 川添昭二 1964, p. 89-98.
  14. ^ 亀田俊和 & 杉山一弥 2021, p. 417-418.
  15. ^ ColBase”. colbase.nich.go.jp. 2023年8月4日閲覧。
  16. ^ 荒木尚 1977, p. 31.
  17. ^ 川添昭二 1964, p. 160-169.
  18. ^ 川添昭二 1964, p. 211-216.
  19. ^ 平瀬直樹 2017, p. 147.
  20. ^ 亀田俊和 & 杉山一弥 2021, p. 423.
  21. ^ 川添昭二 1964, p. 212.
  22. ^ 平瀬直樹 2017, p. 179.
  23. ^ 亀田俊和 & 杉山一弥 2021, p. 423-424.
  24. ^ 平瀬直樹 2017, p. 148-152.
  25. ^ 奥富敬之 2019, p. 138.
  26. ^ 川添昭二 1964, p. 23,27.
  27. ^ 川添昭二 1964, p. 1.
  28. ^ 川添昭二 1964, p. 128-132,146-148.
  29. ^ 亀田俊和 & 杉山一弥 2021, p. 420-421.
  30. ^ 川添昭二 1964, p. 145.
  31. ^ 都城市史編さん委員会 2005, p. 130.
  32. ^ 川添昭二 1964, p. 144-146.
  33. ^ 都城市史編さん委員会 2005, p. 130-132.
  34. ^ 亀田俊和 & 杉山一弥 2021, p. 421-422.
  35. ^ 桜井英治 2001, p. 56.
  36. ^ 平瀬直樹 2017, p. 131-133.

参考文献

関連項目

先代
渋川義行
九州探題
1370年 - 1395年
次代
渋川満頼