小槻氏

「小槻」を氏の名とする氏族

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小槻氏(おづきし/おつきし)は、「小槻」を本姓とする氏族

小槻氏
家祖 落別王 (始祖)
今雄宿禰(氏祖)
種別 地下家
出身地 近江国栗太郡
主な根拠地 山城国
近江国雄琴荘
著名な人物 小槻隆職
支流、分家 壬生家地下家
大宮家地下家
虫鹿家地下家
壬生氏?(武家
青地氏?(武家
凡例 / Category:日本の氏族

概要

第11代垂仁天皇の皇子落別王から出た一族。

平安時代から朝廷に仕えた下級の公家で、太政官の事務官人の家柄として左大史算博士主殿頭といった官職を世襲した。職務として、官中庶務・大学寮算道の教授を主として行っていた。

一族の代表者(氏長者。小槻氏の場合「官長者」とも)は太政官弁官局の下級官人を取り仕切ったため、「官務」と呼ばれた。同様に少納言局を取り仕切り「局務」と呼ばれた清原氏中原氏(のち中原氏のみ)とともに地下家の筆頭格として「両局」と呼ばれ、他の官人を統率した。

官務を受け継ぐ嫡流鎌倉時代壬生家大宮家に分立し、庶流として室町時代虫鹿家が大宮家から分かれた。戦国時代に大宮家が断絶すると壬生家が官務を継承し、近世からは押小路家(中原氏嫡流)と平田家(中原氏庶流)との3家から成る「三催」の体制で下級官人を統率した。明治維新後壬生家は男爵となり華族に列した。

沿革

出自

第11代垂仁天皇と妃苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁とも)との間の皇子、落別王(おちわけのみこと、祖別命[1]・於知別命[2]・意知別命とも)を祖とするとされる[3][4]。落別王の墓は現在愛知県豊田市児ノ口神社に伝わっている。

落別王は小月之山君(おつきのやまのきみ、小槻山公/君とも)・三川之衣君の2族の祖で[5]、このうちの小槻山君が後の小槻氏の原型である。一族は変遷を経て近江国栗太郡の豪族であった。現在も栗太郡地域には、氏神の[6]小槻大社小槻神社が残り落別王を祀っている他、小槻大社には小槻山君一族のものとされる古墳が残っている。

平安時代前半

小槻山君の名は文献に度々見え、朝廷と関係を持っていたものと推測される。そして小槻山今雄の代で算道を足がかりに中央へ進出する。当時算道は9世紀初頭から衰退が進み大学寮4道のうち最下位に位置し、地方教育機関の国学に入るべき地方豪族にも道が開かれていた。貞観15年(873年算博士であった今雄はに移住し、名実とも中央官人となった[7]。なお、一族の礎を築いた今雄は小槻氏祖・今雄宿禰として大津市雄琴神社に祀られ、法光寺には墓が伝わっている。

貞観17年(875年)今雄は「阿保朝臣」の氏姓を賜り改姓した[8]。子・阿保経覧も算博士を務め、別子・当平糸平の代で「小槻宿禰」とさらに改姓し、両人も算博士を務めた。その後宿禰のを称し続けたため、小槻氏は「禰家」とも号された[9]。その後算道は小槻氏と三善氏による家学となり、算博士を2氏で世襲して算道出身者の主要官職(民部省主計寮主税寮宮内省木工寮修理職等)を 11世紀以降独占していく。

小槻氏は算博士とは別にも兼務した。史は太政官事務部門の少納言局左右弁官局のうち弁官局に属する。弁官局は弁官(弁)・史官(史)の2職から構成された。史は卑姓氏族から成り、位階は六位・七位相当で昇殿する権利は与えられず(地下人)、史から弁に昇進できた者はいなかった。弁が太政官内の監査職である一方実務を行ったのは史で、小槻氏は今雄の代から史の職に任じられ地下家として朝廷に仕えた。

平安時代後半

寛仁元年(1017年)左大史(史の最上首)小槻奉親従五位下に叙され、小槻氏で初めての「大夫史[10]となった。奉親は学識高く当時有数の貴族・藤原行成とも親交があり、史の地位を向上させた。

平安後期に入ると朝廷儀式において先例が大事とされ、文書を扱う関係で史の存在感が増した。中でも史を歴任する小槻氏は有職故実に明るいことから朝廷内での信任が厚く、平安末には小槻氏の一族・門徒が史の職を占めるようになり、大夫史も小槻孝信の代から世襲・独占するようになる。小槻氏の氏長者は一族を統率する一方で、「官長者」として史を始めとする官人を統率し、史=小槻氏一族と化していく(官司請負制)。この流れの中、左右弁官局では左右に分ける意味が薄れて2局は官局として統合され、官長者は官局を統率する「官務」と称されるようになる。なお、同様に少納言局では外記局が形成され、清原氏中原氏(のち中原氏のみ)の中から「局務」が現れた。官務と局務は合わせて「両局」と称せられ、地下家の筆頭として太政官の下級官吏を統率していき、鎌倉時代になると小槻氏は「官中執権」[11]と称せられるまでになる。

鎌倉時代

文治元年(1185年)、官務小槻隆職後白河院源義経による源頼朝追討の宣旨に関わったとして頼朝に解官されたのをきっかけに小槻氏に亀裂が入る。隆職の甥の広房が官務を継いだが、建久2年(1191年)に後白河院の指示で隆職が復職、広房は官務の地位を失った。隆職が危篤に陥ると広房は隆職の子・国宗と後継を争ったが敗れ、官務には国宗が就いた。国宗の死後に広房流の季継が官務に就くと、季継は朝廷の権力者九条道家と結び21年間に渡って在職し、広房流の地位を向上した。それ以後は隆職流と広房流とは対等の立場から、官務の地位を狙って氏長者を競い合う。

室町時代

公家全体が経済的に苦境を迎える南北朝期に入ると、両流の競争は特に激しくなった。この頃には両流は邸宅の場所にちなみ、隆職流は壬生家、広房流は大宮家と称せられていた。両家はそれぞれ公家や武家に取り入り、室町期の壬生家(晨照晴富雅久)・大宮家(長興時元)の争いは訴訟の頻発する最も激しいものとなる。長興は治部卿を務め、小槻氏で初めて八省卿に任じられている。

なお、晴富の弟には壬生胤業という者がおり、公家でありながら武芸を好み、諸国に下向した末に下野国で後の戦国大名・壬生氏を興したと言われている[12]。この伝承に確証はないが、栃木県下都賀郡壬生町には現在、壬生氏が大津市雄琴神社から勧請を受けたとされる雄琴神社が残り、同じく今雄宿禰を祀っている。

応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱の際、大宮家の官文庫が焼失し壬生家が優勢となる。そして大永7年(1527年壬生于恒大宮伊治の間で和睦状が交わされた後、壬生家と違い固有の領地を有していなかった大宮家は経済的に逼迫し、他の公家同様地方の大名を頼って下向せざるを得なくなる。伊治の頼った西国有力大名・大内氏の先では、伊治の娘が当主大内義隆の嫡男・義尊を産むなどと寵愛を受けていたが、天文21年(1551年陶晴賢の義隆に対する挙兵(大寧寺の変)により伊治は大内義隆・義尊ともども討死した。伊治の子は早世したようで、新たに迎えた猶子も出仕しなかったらしく、元亀3年(1573年壬生朝芳に大宮家継承を命じる女房奉書が下されて大宮家は断絶することとなり、以後は壬生家が単独で官務を継承した。

この時期、大宮通音の子・通昭虫鹿家として大宮家から分かれている。

江戸時代

中世に官務の壬生家と局務押小路家中原氏嫡流)は「両局」と称せられて地下官人を統括する体制を整えたが、近世になるとこれに出納平田家(中原氏庶流)が加わり、「官方」・「外記方」・「出納方」の3家体制となる。そのきっかけは江戸開幕後朝廷儀式が再興され始め、それに伴い壬生家・押小路家の両局が地下官人を続々と登用し始めたことによる。これは両局が多くの職務を担当し、それに付属する所領によって経済的に余裕があったためである。朝廷を手中に収めたい幕府側にとってこの独自の活動は意向に反し、牽制のために平田家を両局と同じ地位にまで上げ抑制しようとした。これに壬生家は反発し争論となるが、当主壬生孝亮の失脚により認めざるを得ず、家格では平田家は両局から一歩引くという形で収束する。これら3家は近世地下官人の3階層(催官人・並官人・下官人)のうち催官人を組織し「三催」と呼ばれ、俗に「地下官人之棟梁」と称せられて明治維新まで朝廷に仕えた。

地下官人の登用の一環として、虫鹿亮昭村田亮春壬生孝亮猶子となった。これにより、虫鹿家村田家は史の家柄として壬生家の統率を受けた。中でも村田家は右大史を継承する家柄となる。

明治以降

壬生家は地下家ではあるものの筆頭格であったことから、堂上家に準じて押小路家とともに華族に列し、明治3年(1870年)当主壬生輔世が終身華族に、次いで明治9年(1876年)永代華族となった。そして明治17年(1884年)には、子壬生桄夫男爵に叙せられた。なお、平田家やその他の史一族は士族とされた。

系譜

凡例:実線は実子、破線は養子・猶子。

垂仁天皇
 
 
落別王
 
 
(十数代略)
 
 
阿保今雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿保経覧小槻当平小槻糸平
 
 
茂助
 
 
忠臣
 
 
奉親
 
 
貞行
 
 
孝信
 
 
祐俊
 
 
盛仲(実三善国信二男)
 
 
政重(実三善国信三男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
師経永業
 
壬生家
 
 
隆職
大宮家
 
 
広房
 
 
国宗
 
 
 
 
公尚通時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
季継淳方有家
 
 
 
 
秀氏
 
有家
 
 
 
 
益材
 
顕衡
 
 
 
 
伊綱統良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
冬直清澄
 
于宣
 
 
 
 
 
 
康景光夏
 
匡遠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通古為緒量実兼治
 
 
 
 
 
 
頼胤長興
 
周枝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通音寔包時元晨照
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
虫鹿家伊治晴富壬生氏
通昭
 
 
胤業?
 
 
雅久
定昭
 
 
 
 
 
 
于恒
亮昭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
登辰朝芳
 
 
 
朝芳
 
 
 
孝亮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠利村田亮春虫鹿亮昭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重房季連
 
 
季連
 
 
章弘(実広橋綏光二男)
 
 
盈春
 
 
知音
 
 
 
敬義
 
 
以寧
 
 
 
輔世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明麗桄夫
 
 
 
桄夫

関連機関

元来は朝廷の機関だが、官中の庶務を掌握するという性質上、小槻氏の相伝となる(官司請負制)。

  • 官文庫

は公文書の作成・有職故実の調査を行うため、太政官文殿の管理も行った。官務家となった小槻氏は、その職の便宜上私的に文庫を有していたが、時が経つにつれ文殿の機能は小槻氏の文庫へと重きが移っていく。そして嘉禄2年(1226年)の大火で文殿は消失すると、小槻氏の文庫が官文庫(官務文庫)と呼ばれ公的な機能をもつようになる。この官文庫は朝廷・幕府から尊重され庇護を受けて幕末まで維持され、同時に小槻氏の地位も確保され続けた。維新宮内省に献上され、現在も宮内庁書陵部に『壬生家文書』として保管、『図書寮叢刊壬生家文書』として刊行されている。

  • 主殿寮

宮内省に所属し、行幸の際の湯殿や乗物の準備、宮中の灯火・薪炭の調達、内裏の庭の掃除といった雑務を担当する機関。小槻氏が任じられることも多く、鎌倉期に主殿頭に任じられて以降世襲化、主殿寮の領地は私領化していった。

  • 太政官厨家

太政官の厨房の管理を行う官司。本来、少納言局と弁官局が共同で管理することになっていたが、蔵人所の設置に伴い少納言局の職掌が形骸化し、弁官局ひいては小槻氏が管理するようになった。官厨家は各地に荘園を持ち、運営における食料・費用に充てており、中には小槻氏が開発領主のものもある。これらの荘園もまた小槻氏が掌握・知行し、事実上の所領と化していった。

  • 採銅所

朝廷に献上するための銅・鉛を採掘・精錬するために置かれた機関。摂津国能勢郡が主要産地で、小槻氏が管理し官務家の渡領として受け継がれた。

所領

職務の関係上、小槻氏の所領(官務家領)には私領・主殿寮関係領・太政官関係領の3種がある。私領のうち雄琴荘苗鹿荘は代表的なもので、雄琴神社那波加神社法光寺といった小槻氏の氏社・氏寺が残っている。その他の2種の所領は、任じられた職に付属する土地を私領化したものであるが、純粋な私領に比べてその割合が高い。それは小槻氏に限らず言えることで、下級官僚氏族の支柱は自己の務める職の諸権益であったことを示している[13]

江戸幕府による公家統制の結果、壬生家の家禄は山城国下嵯峨の100石となった。

関連寺社

落別王を祀る。

今雄宿禰を祀る。

脚注

  1. ^ 『日本書紀』
  2. ^ 『新撰姓氏録』
  3. ^ 『古事記』垂仁段
  4. ^ これらに対し『日本三代実録』(国史大系本)を始めとして他の文献の中には、別人の異母皇子・息速別命(いきはやわけのみこと)を祖とすると記している。真偽は定かでなく落別王と同一人物という可能性もあるが、栗田寛の解釈では「息速別命」と記してあるのは後世の文献であることから、転写の際の誤写であろうとしている(『新撰姓氏録考証』巻五)。
  5. ^ 『古事記』垂仁段
  6. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年、993頁、小槻山の項
  7. ^ 『日本三代実録』貞観15年12月壬辰朔条
  8. ^ 息速別命子孫にも阿保氏がいるが、別の一族である。これは脚注4で述べた混同の一因ともなっている。
  9. ^ 姓を朝臣から格下の宿禰に落とした理由は定かでなく、当平と糸平が今雄の実子ではなかったのではないかとする説もある(請田正幸「平安初期の算道出身官人」(田名網宏編『古代国家の支配と構造』)342-343頁)。
  10. ^ 大夫史とは五位の左大史のこと。五位以上の官吏の称である「大夫」を取った名称である。正六位上が相当位階の左大史が五位となるのは画期的なことであったが、昇殿を許されることはなかった。大夫史の世襲は貞行の孫祐俊の代には安定の域に達し、祐俊は三十年もの間左大史を務め従四位上の位にまで昇っている。なお、四位に叙せられる者まで出た結果、画期性が薄れこの大夫史の称は廃れていくこととなる。
  11. ^ 『玉葉』
  12. ^ 『壬生家譜』東大史料編纂所蔵。実際には胤業は毛野氏族の壬生氏(壬生公)の後裔と考えられる(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年、625頁)。
  13. ^ 橋本義彦「官務家小槻氏の成立とその性格」(『平安貴族社会の研究』)340頁

関連項目

参考文献

  • 橋本義彦「官務家小槻氏の成立とその性格」、「太政官厨家について」(『平安貴族社会の研究』(吉川弘文館、1976年)ISBN 4-642-02067-5
  • 曽我良成「官務家成立の歴史的背景」(大石直正・柳原敏昭編『展望日本歴史9 中世社会の成立』(東京堂出版、2001年)ISBN 4-490-30559-1
  • 請田正幸「平安初期の算道出身官人」(田名網宏編『古代国家の支配と構造』(東京堂出版、1986年))
  • 遠藤珠紀「官務家・局務家の分立と官司請負制-中世前期における朝廷運営の変質-」(『史学雑誌』111-3、2002年)
  • 飯倉晴武「大永七年壬生・大宮両家和睦状の成立と大宮家の没落」(小川信編『中世古文書の世界』(吉川弘文館、1991年) ISBN 4-642-02635-5
  • 西村慎太郎『近世朝廷社会と地下官人』((吉川弘文館、2008年) ISBN 978-4-642-03433-3

外部リンク