トム・ワトソン

プロゴルファー

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トム・ワトソン(Tom Watson、1949年9月4日 - )は、アメリカ合衆国プロゴルファーである。フルネームはトーマス・スタージス・ワトソン(Thomas Sturges Watson)。

トム・ワトソン
Tom Watson
基本情報
生誕 (1949-09-04) 1949年9月4日(76歳)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカミズーリ州カンザスシティ
成績
優勝回数 メジャー:8勝
米国男子:39勝
初優勝 1974年ウェスタンオープン
賞金王 1977年-1980年・1984年
賞金ランク最高位 米国男子:1位(5度)
2009年2月25日現在
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プロフィール

ミズーリ州カンザスシティ出身。保険代理店を営んでいたレイモンド・ワトソンと妻サラの間に生まれた3兄弟の次男。スタンフォード大学ではコミュニケーション、経済学を経て心理学を専攻し、1970年には全米アマチュア選手権5位の資格でマスターズに出場。1971年12月のクオリファイ・テストに5位で合格、翌1972年プロに転向して賞金ランキング78位、1973年ブルース・エドワーズをキャディに採用して賞金ランキング35位となり、翌年のシード権を得ると、1974年夏にはツアーキャディの帯同が認められていなかったウェスタン・オープンでPGAツアー初勝利を挙げるなどして、賞金ランキング10位に躍進。1975年のバイロン・ネルソンゴルフクラシックで、エドワーズはキャディとして優勝を初体験。

メジャー大会での勝利の要約は以下の通り。

全英オープン初挑戦は1975年難関コースのカーヌスティ(7065ヤード、パー72)での第104回大会であり、キャディには地元のアルフィー・ファイルズを採用して臨んだ。72ホール目に15フィートのバーディパットを決めて、ともに25歳のジャック・ニュートンと9アンダーで首位に並び、7月13日に18ホールのプレイオフを行い、71打対72打の1打差でメジャー初優勝して、米国中で有名になった(ツアー3勝目)。勝敗を分けたのは最終18番ホールで、ワトソンがパー、ニュートンは4mのパットを決められずボギーでの決着だった。米国育ちだが、その後シニアツアーも含めて現在までリンクスコースで、特に’本物’の深いラフのある英国のリンクスで無類の強さを誇る(全英オープン5勝、全英シニアオープン3勝で、全英タイトルのうち7勝はスコットランド開催)。1975年のワトソンはメジャー4大会すべてでトップ10入りした。翌1976年のロイヤルバークデールでの全英オープンでは、ブルース・エドワーズが初めて全英オープンのキャディを務めたが、54ホール終了時点に1打差で予選落ちしたため、全英オープンにはファイルズを起用するようになった。

メジャー初勝利から2年後の1977年4月の第41回マスターズでは、プレイヤー専属のキャディを帯同することが認められていなかったが(1983年まで)、2日目に5アンダーで首位に浮上し、最終日は帝王ジャック・ニクラスとの一騎打ちを2打差の12アンダーで制してメジャー2勝目を挙げると(ツアー6勝目)、7月のターンベリーでの第106回全英オープンではファイルズをキャディに従え、歴史的なニクラスとの真昼の決闘(後述)を1打差の12アンダーで制し(ツアー8勝目)、年間メジャー2冠を獲得した。

1980年のミュアフィールド(パー71)での第109回全英オープンでは、第3ラウンド終了時点で2位に4打差の11アンダーで首位に立つと、最終日は強い北風の中、アウト34イン35にまとめて2位に4打差の通算13アンダーで逃げ切って、3度目の全英オープン優勝(ツアー24勝目)。1981年の第45回マスターズでは、上記の理由でエドワーズがキャディを務められなかったが、第3ラウンド終了時点で7アンダーで首位に浮上すると、最終日は71で堅実に廻り、2位ニクラスとジョニー・ミラーに2打差の通算8アンダーで逃げ切って4年ぶり2度目の優勝を飾る(ツアー26勝目)。

1982年の第82回全米オープンは、ワトソンが大学時代に度々プレイしていたペブルビーチで開催された。予選は72-72のパーで首位から4打差。3日目は68で通算4アンダーで、ビル・ロジャースと並んで首位タイ。最終日は3番ホールから5連続バーディの42歳ニクラスとの一騎打ちとなった。ワトソンは16番ホールをティーショットのミスでボギーとした後、カーメル湾に突き出ている難関中の難関の17番ホール(長いパー3、209ヤード、2段グリーン)を、ホールアウトしたニクラスと4アンダーで並んだ状態で臨んだ。ティーショットはドローボールで攻めたが、海風に流され、ボールはグリーン左のバンカーとバンカーの間の深いラフに捕まり、ピンまでの距離は5m。ボールはラフにほぼ埋もれた状態で傾斜に静止という悪条件のライの上に、この日ピンはグリーン左でエッジからカップまでの距離が短く、しかもグリーン上は下りでカップに寄せるのは至難の業、この時点でニクラスが優位となった。しかし、ワトソンは「寄せるなんて考えていない。カップに入れるぞ」とキャディのブルース・エドワーズに宣言して、素振りを2回した後、極端なオープンスタンスでサンドウェッジを一閃すると、ボールはふわりと上がり、成功確率1000回に1回と評されるチップインバーディとなった。続いて難関の18番ホール(パー5)でも3オンすると、難しい下りのスライスラインを1パットで決めてバーディをとり、2位ニクラスに2打差の6アンダーで全米オープン初優勝を果たした(メジャー6勝目、ツアー31勝目)。最終日17番ホールでのチップショットに関して、ワトソンは「あれは練習ラウンドで何時間も練習したショットである」とコメントした。続くトゥルーンでの第111回全英オープンでは、好天の最終日に首位と3打差の5位スタートで倉本昌弘と廻り、1イーグル(11番ホール、3番アイアンでの第2打がピンそば1m)、1バーディ(4番ホール)、1ボギー(15番ホール)以外はパーをセーブする我慢のゴルフで上位陣が崩れるのを待って、2位に1打差の4アンダーで制覇して、メジャー大会2連勝を4度目の全英タイトルで飾った(ツアー32勝目)。

1983年ロイヤルバークデールでの第112回全英オープンは、予選ラウンド終了後の深夜、囚人解放運動グループによる6番ホールのグリーンの破壊工作という競技妨害を目的とした全英オープン初の不祥事があった大会だが、翌第3ラウンド終了時点でワトソンが8アンダーで単独首位に浮上すると、最終日はアウトでスコアを2つ落として首位を譲ったが、インの11、13、16番ホールでの3バーディで再び首位に立ち、2位に1打差の通算9アンダーで大会2連覇を達成した(ツアー33勝目)。その後、全英オープンを連覇した選手は、23年後の2006年にロイヤルリバプールでタイガー・ウッズがティーショットに2番アイアンを多用して連覇するまで現れなかった(この大会でウッズがドライバーを用いたのは初日の16番ホールのみ。ウッズはハンク・ヘイニーをコーチに迎え2005年2006年に全英2連覇)。メジャー通算8勝を挙げて“新帝王ワトソン”と呼ばれたが、1983年の全英オープンを最後にメジャーの優勝から遠ざかる。

1984年の3連覇を狙った全英オープンでは、セベ・バレステロスに最終18番ホールで劇的バーディを決められ、2打差の2位に終わったが、PGAツアーでは3勝した。しかし、以後はイップスと呼ばれる症状によるショートパットの不調に苦しめられるようになり、1987年ナビスコ選手権で3シーズンぶりに優勝した後は、さらに9シーズン後の1996年メモリアル・トーナメントまで優勝がなかった。それに続く1998年のマスターカード・コロニアルで優勝したのが、現時点でのPGAツアー最後の優勝である。通算39勝は同ツアー歴代10位タイ。

全米プロゴルフ選手権では、アーノルド・パーマーと同様に1度も優勝経験が無く、「キャリア・グランドスラム」の一歩手前の3冠王にとどまっている。1978年のオークモント(パー71)での全米プロゴルフ選手権では初日から首位を守り、大雨の最終日は前半を2位に4打差をつけて折り返したが、後半失速してこの日73を叩く間に、7打差スタートのプロ7年目のジョン・マハフィーと、5打差の2位スタートのジェリー・ペイトに8アンダーで並ばれ、全米プロ選手権史上初の3人でのプレイオフとなり、プレイオフ2ホール目にマハフィーに2.5mのバーディパットを決められ、優勝を逃した。なお、シニアツアー最古のメジャー大会である全米シニアプロゴルフ選手権では2勝を挙げている。

日本とのつながりも深く、「ダンロップフェニックストーナメント」で1980年1997年の2度優勝している。当大会が開催される宮崎の「フェニックスカントリークラブ」には、彼の名前を冠した「トム・ワトソンゴルフコース」がある。

1988年世界ゴルフ殿堂入り。1993年にはライダーカップのアメリカチームキャプテンを務めた。現在は米国シニアツアー(チャンピオンズツアー)で活躍している。同ツアーでは2003年チャンピオンズツアー賞金王/チャールズ・シュワブカップチャンピオン/チャンピオンズツアー年度最優秀選手、2005年チャールズ・シュワブカップチャンピオンに輝いている。

長年にわたってトムのキャディーを務めてきたブルース・エドワーズを2004年4月8日筋萎縮性側索硬化症(ALS)で失い、「勝つことがすべて」だったワトソンの信条も「一日一日を全力で生きること。ささいなことでイライラしないこと」に変わった。元々チャリティーに積極的だったトムだが2002年暮れにエドワーズの病気を知ってからは一層熱心に取り組むようになり、現在も積極的な慈善活動を続けている。2003年には、ゴルフを通じて社会貢献した選手に贈られる「ペイン・スチュワート賞」を受賞した。

2009年の全英オープンでは初日から好調で、最終日単独首位に立つも、プレーオフの結果惜敗の2位(優勝はスチュワート・シンク)。59歳のトムが優勝すれば大会史上最年長優勝の記録を142年ぶりにぬりかえる[1]だけでなく、メジャー最年長優勝[2]やツアー最年長優勝[3]の記録も更新することから、観客も大きな声援を送った。トムもそれにこたえるように終始堂々とプレーし、周囲に大きな感動を与えた[4]。また現地コース際でリポートしていた青木功が大会終了後、往年の盟友・戦友であるトムが優勝できなかったことを大いに残念に思い涙した映像がメディアで放送された。

2011年7月15日の全英オープン2日目の6番ホール(この日はピンまで160ヤード)では、ティーショットで4番アイアンを振り抜くと、打球はピン手前2.5mに落ち、ワンバウンドでツアー5回目のホールインワンを達成。最年長記録は、73年大会初日に8番ホールで決めたジーン・サラゼンの71歳。

トムとターンベリー・エイルサコース

トムのゴルフキャリアを語る上で欠かせないのが全英オープンの開催コースであるターンベリー・エイルサ(Ailsa、アイルサとも発音する)コースであろう。左に白亜の灯台を見て海沿いを進む9番ホールなどを有し、全英オープン開催コースの中で最も風光明媚なリンクスコースのひとつである。

27歳で臨んだ1977年7月6日~9日開催の第106回全英オープンでは最終日にニクラスとの真昼の決闘を1打差で制して優勝した。予選1日目のワトソンとニクラスは-2で、首位ジョン・シュローダーと2打差の3位タイ。好天の2日目にはマーク・ヘイズが全英オープン最小スコアを43年ぶりに2打短縮する63で廻った。ワトソンとニクラスはパープレイで廻り、首位ロジャー・モルトビーと1打差の2位タイ。本選はワトソンとニクラスが最終組で廻った。3日目には雷雨とクライド湾に吹く強風による一時中断があったが、ワトソンはアウト33イン32、ニクラスはアウト31イン34で廻り、第3ラウンド終了時点でワトソンとニクラスが-7(203)で首位に並ぶと(この時点で3位ベン・クレンショウに3打差)、最終ラウンドはワトソンとニクラスの'2人だけの大会'の様相を呈し、大会終了時点では2位ニクラスと3位ヒューバート・グリーンとの差は10打差に広がり、いかにこの2人が卓抜していたかがわかる。最終日の詳細は以下の通り(以下、ワトソン:W、ニクラス:N)。2番ホールでは、Nバーディ、Wボギーで、Nが2打リード。4番ホールでは、Nがバーディで-9となり、3打差。5、7、8番ホールでWがバーディをとり、両者-9で並ぶ。9番ホールで、Wがボギーで、Nが1打リード。12番ホールでNがロングパットを決めてバーディをとり、Nが-10で2打リード。13番ミドルホールでは、Wがバーディで1打差に迫る。15番ショートホールでは、Wがグリーン左エッジからの約13mのパットを鮮やかに決めてバーディ、両者が-10で並ぶ。17番ロングホールでは、Wが2オン2パットでバーディ、Nは3オンしたが、1.5mのバーディパットを決められずパーで、Wが1打リード。決闘のクライマックスである18番ホールの第1打は、両者ドライバーで攻めた。Wが完璧だったのに対し、Nはフェアウェイ右側のハリエニシダが生い茂る深いラフにつかまった。第2打は、Nが7番アイアンでピンから10m弱のグリーン上へと運ぶ奇跡のリカバリー、Wも7番アイアンでピタリとピンそば60cmに運んだ。Nは1パットで沈めてバーディをとり、Wにプレッシャーをかけたが、Wも1パットでバーディ、通算-12で逃げ切った。試合後、ニクラスは「非常にいいラウンドだったが、もっと上手くプレイした人がいた」とコメントした。

36歳で臨んだ1986年の同コース開催の第115回全英オープンではワトソンは35位であった。グレッグ・ノーマンが強風の吹いた2日目に全英オープン最小スコアタイの63で廻り、4日間通算では280のイーブンパーで、2位に5打差をつけてメジャー初優勝した。ノーマンは86年のメジャー4大会すべてで54ホール終了時点で首位に立ち、最終日に最終組で廻っており、ノーマンスラム(サタデースラム)と呼ばれているが、優勝は全英オープンのみ。

44歳で臨んだ1994年の同コース開催の第123回全英オープンは、ブルース・エドワーズがターンベリーに初めてキャディで随行した。初日は手堅く68で廻り、2日目は65で首位、3日目は69で首位と1打差の2位。最終日は7番ホールでバーディをとり単独首位に立ったが、8、9番ホールで連続ダブルボギーを叩いて優勝争いから後退、最終日のスコアは74、通算4アンダーで11位。この年ワトソンはメジャーの4大会すべてでトップ15位入りを果たしたが、マスターズ(13位)、全米オープン(6位、オークモント)、全英オープンの3大会で最終日のスコアは74であった。この年2月のペブルビーチでの大会で最終日に74を叩いて優勝を逃して以来、呪われた1年であった。

53歳で臨んだ2003年の同コース開催の第1回全英シニアオープンでは、72ホール目にボギーを叩いたワトソンと、ダブルボギーのカール・メイソンが17アンダーで首位に並び、プレイオフを行い、2ホール目の決着でワトソンが優勝した。ワトソンは、真昼の決闘のスコアを5つ縮めた。

そして59歳で迎えた2009年7月の第138回全英オープンもこの地で開催された(7204ヤード、パー70)。この9ヵ月前にワトソンは左股関節の人工関節置換手術を受け、芝の抜けがよくなるようヘッドをグラインダで削ったアイアンとターンベリーのクラブハウスで直前に購入したシューズで臨み、初日からショット・パットが冴えた。4日間のティーショットのフェアウェイキープ率は69.6%で4位、ドライバーショットの平均飛距離は295ヤードでレギュラーツアーの選手に劣らず、さらに神がかり的なロングパットやパーセーブを連発した。好天の初日はミゲル・ヒメネスがアウト31イン33の6アンダーで首位、ワトソンはアウト33イン32で、首位と1打差の2位タイに久保谷健一ベン・カーティスと並んだ。2日目は強い海風が吹いてプレイヤーたちを悩ませ、ワトソンも前半は4連続を含む5ボギー、2バーディで苦しんだが、後半は16番で約20m、18番ホールで約18mのバーディパットを決めるなどして3バーディ、この日はパープレイで凌ぎ、片山晋呉の出場辞退による繰り上げで全英オープンに初出場して2日間60台で廻ったスティーブ・マリノとともに5アンダーで首位タイ。3日目のワトソンは14番ホールで6mのパットを沈めてパー、16番では約12mのバーディパットを決め、17番では2オンして、あわやイーグルかというバーディ、18番はパーで上がり、通算4アンダーで単独首位に躍り出て、「バーディ・ボギーの数は計画通りに進行している、明日19日はその計画を完成できるかもしれない」とコメントした。71ホール目のバーディで1打リードして迎えた72ホール目までメジャー史上最年長優勝という計画実現は目前であった。優勝を決めるパーパット(18番ホールの4打目)はショートして右前方に10cmほどそれて、痛恨のボギー。50度目のメジャー挑戦・12度目の全英挑戦、23歳年下のスチュワート・シンクが最終日ワトソンから3打差の6位で発進し、最終ホールで4.5mのバーディパットを決めるなど終盤は上位陣でただ一人好調を維持して69で周り、2アンダー(4日間で278打)でワトソンと並んだ。4つのホール(5、6、17、18H)を使用するプレイオフではシンクがボギーなしで2バーディを挙げたが、一方の59歳ワトソンは72ホールにわたり大西洋の海風を伴う難コースと戦って「疲労で脚が動かなくなった(ワトソン談)」状態で、気温も下がった夕陽の決闘ではミスショットを連発し、ボギー-パー-ダブルボギー-ボギーで6打差をつけられて敗れた。プレイオフの勝敗を分けたのは17番ホールで、シンクは2オン2パットでバーディだったのに対し、ワトソンのドライバーショットはフェアウェイ左のラフに捕まり、1打では脱出できず、4オン3パットのダブルボギーであった。しかし、76ホールを戦い抜きトム・ワトソン健在をアピールするとともに世界中のゴルフファンに勇気と感動を与えた。プレイオフ直後にワトソンは「この試合で自分がいつどのクラブで打ったかなんて、2度と思い出さないぞ」と笑ったが、ワトソン自身による分析では、72ホール目の18番ホールにおいて、グリーン奥のラフからグリーンまでは打ち上げの第3打をウェッジではなくパターで打ってカップを2m以上オーバーしたり、第4打のパーパットがショートしたのは敗因ではなく、フェアウェイからピンまで180ヤードの2打目をフォローの風の中'アドレナリン'が出た状態で8番アイアンで打ってグリーン奥のラフにこぼれたショットが問題であり、2打目を9番アイアンで打つべきだったと述懐している。このトーナメントでは、4日間72ホールで2番ハイブリッド(ロフト18度)を25回使用した。

62歳で臨んだ2012年の同コース開催(7205ヤード、パー70)の第10回全英シニアオープンでは、ワトソンは通算1アンダーで10位タイ。優勝はフレッド・カプルスで、最終日に単独2位から6バーディ、3ボギーの67で廻って、2位に2打差の通算9アンダーで初の'全英'タイトル。

メジャー大会優勝

メジャー通算8勝は、単独の歴代6位記録。全米プロゴルフ選手権のみ優勝していない。
男子メジャー選手権優勝記録
順位 優勝回数 選手名
1位 18勝   ジャック・ニクラス
2位 15勝   タイガー・ウッズ *
3位 11勝   ウォルター・ヘーゲン
4位 9勝   ベン・ホーガン |   ゲーリー・プレーヤー
6位 8勝   トム・ワトソン *
7位 7勝   ハリー・バードン|  ボビー・ジョーンズ |  ジーン・サラゼン |   サム・スニード |  アーノルド・パーマー
* は現役選手

脚注

  1. ^ 従来の記録は1867年の大会に優勝したトム・モリス・シニアの46歳3ヵ月。
  2. ^ 従来の記録は1968年の全米プロゴルフ選手権に優勝したジュリアス・ボロスの48歳4ヵ月。
  3. ^ 従来の記録は1965年のグレーター・グリーンズボロオープンに優勝したサム・スニードの52歳10ヵ月。
  4. ^ 日本では同大会の模様がテレビ朝日系列で毎年生中継されるが、この年の放送時間はプレーオフで決着した大会の終了まで1時間以上延長された。

関連項目

外部リンク