六浦藩
金沢藩(かなざわはん)のちに六浦藩(むつらはん/むつうらはん)は、武蔵国に享保17年(1722年)から明治4年(1871年)まで存在した藩。米倉忠仰を初代の藩主とし、以降も米倉家が代々藩主を務めた。藩庁は六浦陣屋(現在の神奈川県横浜市金沢区六浦)に置かれた。石高(表高)は1万2000石。現在の横浜市域に存在した唯一の藩である[1]。
金沢藩/六浦藩 | |
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![]() 米倉家の家紋「隅切り角に唐花」 | |
立藩年 | 享保17年(1722年) |
初代藩主 | 米倉忠仰 |
廃藩年 | 明治4年(1871年) |
最終藩主 | 米倉昌言 |
国 | 武蔵国 |
居城 | 六浦陣屋(金沢陣屋) |
米倉家 | |
石高 | 1万2000石 |
種類 | 譜代大名 |
格式 | 無城(陣屋) |
極位極官 | 従五位下 |
大名としての米倉家の歴史は、徳川綱吉時代の元禄9年(1690年)3月に米倉昌尹が若年寄となったことで、昌尹が1万石に加増されたことに始まる。その後1万5000石に加増されるとともに、下野国都賀郡皆川(現在の栃木市)の皆川陣屋に藩庁を置き、皆川藩が成立した。昌尹が死去すると、後を継いだ米倉昌明が弟の米倉忠直に3000石を与えたため、以降1万2000石を領することとなった。享保17年(1722年)、昌明の2代ののちの米倉忠仰が陣屋を金沢に移した(転封ではなく、陣屋移転)ことで、金沢藩が成立した。明治維新に際しては、加賀国の金沢藩との混同(そのためしばしば武州金沢藩や武蔵金沢藩と表記される。)を避けるために、六浦藩を正式な名称とした。明治4年(1871年)、廃藩置県により廃藩となり六浦県に、同年中には神奈川県の一部となった。
藩史
編集前史:皆川藩時代
編集金沢藩の藩主を代々つとめた米倉家は、戦国時代に武田家に仕え、武田家滅亡後は徳川家康に仕えた[2]。貞享元年(1684年)7月に家督を相続した米倉昌尹(当初は昌忠)は、当初は600石に過ぎない旗本であった[2]。しかし5代将軍・徳川綱吉によって、たびたび加増を受け、元禄9年(1690年)3月に若年寄への昇進に伴い、1万石に加増され大名に列した[2]。加増の理由には、元禄8年(1689年)に大久保・四谷、翌9年に中野の犬小屋普請の惣奉行を担当したことが挙げられる[3]。元禄12年(1693年)1月、1万5千石に加増され、下野国皆川に陣屋をおくが、同年7月12日に昌尹は死去した[2][4][5]。
同年9月に昌尹の子・米倉昌明が皆川藩主になり、弟の米倉忠直(米倉昌仲)に3000石を分知したため、皆川藩は1万2000石となった[2][6]。昌明ののちには、その子米倉昌照が継いだが、昌照には男男子がいなかったため、府中藩主・柳沢吉保の子、米倉忠仰を養子に迎えた[7]。正徳2年5月23日に昌照が没すると、同年7月に忠仰が家督を相続した[7]。
金沢藩成立
編集享保7年(1722年)7月、忠仰は陣屋を武蔵国金沢へ移転するように願い出て、翌8年に幕府から許可されて金沢藩が成立した[注釈 1][9]。7年8月には、のちの支配の基本政策ともなる「領内条目」を領内に向け発布した[10]。藩主初めての金沢入りは、同年3月15日ごろだったとされる[11]。皆川藩時代は、定府大名であったが、以後は参勤交代を行うようになる[11]。金沢移転の理由はよくわかっていないが、江戸に近かったことが理由の一つと推定されている[12]。
忠仰は享保20年(1735年)4月8日に没し、同5月に息子の米倉里矩が3歳で家督を相続した[7]。しかし忠仰が危篤となった際に、里矩の年齢を9歳と詐称していたため、家臣2人に処分が下されている[7]。里矩は寛永2年(1749年)3月6日に亡くなり、忠直(分知を受け、3000石の旗本となっていた)の養子・米倉昌倫の子米倉昌晴が相続した[7]。
昌晴は、大番頭や奏者番、日光祭礼奉行などをつとめ、安永6年(1777年)4月からは昌尹以来の若年寄となっている[13]。しかし、昌晴の治世では、これらの勤役や若年寄就任に伴う常盤橋への江戸屋敷の引っ越しなどで多額の出費がかさんだとされる[14]。資金難や天明の大飢饉などが背景に、宝暦7年(1757年)には、5年間の年貢増徴や家臣の俸禄2割削減が申し渡しられている[15][16]。天明4年(1784年)4月23日、田沼意次の子で若年寄の田沼意知が切りつけられる事件が発生すると、処置が悪かったとして昌晴は7日間の謹慎処分を受けている[13]。翌年(1785年)12月20日に死去した[13]。
幕末と廃藩へ
編集昌寿の治世である、弘化3年(1846年)閏5月27日から6月7日にかけて、アメリカのジェームズ・ビドル艦隊が通商を求め浦賀に来航した[17]。そのうち6月6日から9日まで、金沢藩は浦賀に援兵を派遣した[18]。つづく嘉永6年(1853年)のマシュー・ペリー来航の際は、資料が乏しく金沢藩の動向が不明であるが、数名ほど領内の乙艫浜に警護へ繰り出したとある[19]。翌年の再来航(日米和親条約が結ばれることとなる)の際、房総半島の要衝に警備の大名が配備されることとなったが、六浦藩は金沢の警備を担当した[20]。
万延元年(1860年)6月、昌寿が隠居し、その子米倉昌言があとを継いだ[13]。翌2年(1861年)から倹約政策をはじめているが、長州征討の出費などもあり効果はなかったとされる[21]。昌言は田安門番や日光祭礼奉行、大坂加番、大番頭を歴任した[13]。第一次長州征討では、400人で参戦する予定であり(参戦の前に長州藩が降伏)[22]、第2次長州征討でも参戦している。また、浦賀の近隣に位置していたため、横須賀製鉄所や浦賀の警備も担当している[13][23]。新政府軍の東征に際し、その応対として旧幕府は横須賀製鉄所の防衛を、昌言に任せたとされるが、実際にこれが実行に移されたかは疑わしいとされている[24]。慶応4年(1868年)3月13日には、東征軍を率いた橋本実梁から横浜取締役を命じられたものの、こちらは4月21日にすぐ辞任されている[25][26]。
明治2年(1869年)6月の版籍奉還に際して、加賀国金沢藩(加賀藩)との混同を避けるために藩名を六浦藩と改め、昌言は六浦藩知事となった[13]。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県によって、六浦藩は廃藩となり、六浦県となった。
歴代藩主
編集米倉家
編集譜代大名、石高:1万2000石
代 | 氏名 | 肖像 | 院号 | 受領名[27] | 在職期間[27] | 享年[27] | 出自 |
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1 | 米倉忠仰 よねくら ただすけ |
丹後守→主計頭 | 享保7年(1722年)7月 - 享保20年(1735年)4月8日 | 30 | 柳沢吉保の子 米倉昌照の養子 | ||
2 | 米倉里矩 よねくら さとのり |
(無官) | 享保20年(1735年)5月 - 寛延2年(1749年)3月6日 | 17 | 忠仰の子 | ||
3 | 米倉昌晴 よねくら まさはる |
丹後守 | 寛延2年(1749年)3月 - 天明5年(1785年)12月20日 | 58 | 分家旗本の米倉昌倫の子 | ||
4 | 米倉昌賢 よねくら まさかた |
長門守 | 天明6年(1786年)2月 - 寛政10年(1798年)6月23日 | 40 | 昌晴の子 | ||
5 | 米倉昌由 よねくら まさよし |
丹後守→主計頭 | 寛政10年(1798年)6月 - 享和3年(1803年)6月 | 40 | 分家旗本米倉昌盈の子 | ||
6 | 米倉昌後 よねくら まさのち |
丹後守 | 享和3年(1803年)6月 - 文化9年(1812年)4月18日 | 29 | 唐津藩主水野忠鼎の子 | ||
7 | 米倉昌寿 よねくら まさなが |
丹後守 | 文化9年(1812年)6月 - 万延元年(1860年)6月 | 71 | 福知山藩主朽木昌綱の子 | ||
8 | 米倉昌言 よねくら まさこと |
下野守→丹後守[注釈 2] | 万延元年(1860年)6月 - 明治4年(1871年)7月 | 73 | 昌寿の子 |
所領
編集金沢藩の表高は、1万2000石であった。一方で、天保9年(1838年)時点では、その実高は1万6446石であった[28]。
旧高旧領取調帳をもとにした旧高旧領取調帳データベースによれば、金沢藩の領地は以下のとおりである[29]。
陣屋
編集金沢藩の藩庁である六浦陣屋は、横浜市金沢区六浦に位置する[31]。「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、もともとは寺院があったが、それらの寺院を別の場所に移し、その跡に陣屋を構えたとある[32]。陣屋跡には今(参考文献は1975年)でも、藩主である米倉家の子孫が住んでいる[31]。
文化
編集藩校
編集藩校の設立は幕末までなかった[33]。一方で、寺小屋は藩内に複数あった事がわかっている[34]。明治維新の直前に、藩主・藩士の帰国に伴って、慶応4年(1871年)3月に藩校明允館と分館が設立された[注釈 5][33]。明允館では漢学、分校では算術や書道、さらに藩内に置かれた厳兵館では諸武芸が教えられていた[33]。朱子学を宗とし、文武両道の兼修を原則としていた[23]。少なくとも、明治2年(1869年)4月までは、明允館の存在が確認されており[34]、六浦藩廃藩に伴い廃校になったとされる[36]。
脚注
編集注釈
編集- ^ あくまでも陣屋を領土内へ移転させ、名称が変わっただけにすぎず、「転封」とは異なるものである[8]。
- ^ 明治維新後には、従三位に任ぜられ、子爵を授けられる[27]。
- ^ 「神奈川県史」では、六浦村を六浦平分村、六浦社家分村、六浦寺分村の3村とし、宿村新田と寺町村新田も村として数えているため、10村となっている[30]。
- ^ 「神奈川県史」では、長持村新田も村として数えているため、10村となっている[30]。
- ^ 横浜市教育委員会による「横浜市教育史」によれば、「日本教育史資料」にあるように従来は慶応4年3月に設立したとされていたが、角田武徳の履歴書の記述(慶応元年から明治2年4月まで明允館で学んだという内容)を考慮すると慶応元年(1868年)にはすでに存在していたと推定されているとある[35]。
出典
編集- ^ 佃 1975 p,144
- ^ a b c d e 工藤 2008 p,1181
- ^ 佃 1975 p,145
- ^ 佃 1975 p,146
- ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,827,829
- ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,829
- ^ a b c d e 工藤 2008 p,1182
- ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,826
- ^ 工藤 2004 p,120,198
- ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,832,833
- ^ a b 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,830
- ^ 内田 1986 p,160
- ^ a b c d e f g 工藤 2008 p,1183
- ^ 内田 1986 p,165
- ^ 内田 1986 p,163-165
- ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,834
- ^ 小林 2024 p,69,70
- ^ 小林 2024 p,70
- ^ 小林 2024 p,70
- ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,1095
- ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,835,836
- ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,836
- ^ a b 大石 2006 p,442
- ^ 神奈川県県民部県史編集室 1980 p,53
- ^ 佃 1975 p,147
- ^ 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,1250
- ^ a b c d 工藤 2008 p,1181-1183
- ^ 藩史総覧 p,143
- ^ “database(kyud) 旧高旧領取調帳データベース”. 国立歴史民俗博物館 (1990年4月). 2025年6月29日閲覧。
- ^ a b 神奈川県県民部県史編集室 1983a p,828
- ^ a b 佃 1975 p,140
- ^ 横浜市教育委員会 1976 p,118
- ^ a b c 笠井 1969 p,364
- ^ a b 内田 1987 p,18
- ^ 横浜市教育委員会 1976 p,89,90,118,119
- ^ 横浜市教育委員会 1976 p,35
参考文献
編集- 笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究 上』吉川弘文館、1969年 。
- 佃実夫『横浜歴史散歩 : 文明開化のふるさと』創元社、1975年 。
- 横浜市教育委員会『横浜市教育史 上巻』横浜市教育委員会、1976年3月 。
- 秋永実 ほか116名『藩史総覧』新人物往来社、1977年12月10日 。
- 神奈川県県民部県史編集室『神奈川県史 通史編 4 (近代・現代 1 政治・行政 1)』神奈川県、1980年3月 。
- 神奈川県県民部県史編集室『神奈川県史 通史編 3 (近世 2)』神奈川県、1983年3月 。
- 内田四方蔵『史話・私の横浜地図』横浜歴史研究普及会〈よこれき双書〉、1986年3月 。
- 内田四方蔵『金沢の100年 : 六浦県から海の公園まで』横浜市金沢図書館、1987年3月 。
- 木村礎、藤野保、村上直『第2巻 関東編』雄山閣出版株式会社〈藩史大事典〉、1989年11月。ISBN 4639007671。
- 工藤寛正『国別 藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年9月30日。ISBN 4-490-10651-3。
- 大石学『近世藩制・藩校大図鑑』吉川弘文館、2006年3月10日。ISBN 4-642-01431-4。
- 工藤寛正『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年1月20日。ISBN 978-4-490-10725-8。
- 横浜開港資料館・横浜幕末維新史研究会『幕末の開港都市・横浜 国際貿易港のルーツを探る』戎光祥出版〈戎光祥近代史論集 5〉、2024年6月10日。
- 小林紀子『横浜開港前夜 武州金沢藩の海防―ビッドル、ペリー来航時を中心に』。
関連項目
編集先代 (武蔵国) |
行政区の変遷 1722年 - 1871年 (金沢藩→六浦藩→六浦県) |
次代 神奈川県 |