福井藩
福井城(現在は福井県庁
立藩年 1600年
初代藩主 結城秀康
廃藩年 1871年
最終藩主 松平茂昭
越前国
居城 福井城

津山松平家越前松平家
石高 68万石
種類 親藩大名
格式 国持大名
藩主 松平忠直

福井松平家(越前松平家)
石高 50万石→52.5万石→45万石→47.5万石→25万石→30万石→32万石
種類 親藩大名
藩主 松平忠昌松平慶永
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福井藩(ふくいはん)は、越前国慶長5年(1600年)から明治4年(1871年)まで存在した。藩庁は福井城福井市)。徳川家康の次男結城秀康が初代藩主をつとめ、以降も越前松平家福井松平家)が代々藩主をつとめる親藩大名であった。徳川将軍家の兄筋の本家ということもあって、「制外の家」扱いを受けることが多かった。石高は数度変更され、幕末時点では32万石となった。藩庁は福井城に置かれた。福井藩成立時の福井は北庄という地名であったために、忠直以前を北庄藩(きたのしょうはん)と呼ぶこともあり、3代目藩主の松平忠昌入封以降、北庄は福居のち福井に改められた。領国の名を取って越前藩(えちぜんはん)と呼ばれることもある。

福井藩の歴史は、徳川家康の次男・結城秀康関ヶ原の戦い後の恩賞として、越前国68万石を与えられたことに始まる。2代目の松平忠直の治世下では、重臣らの対立によって越前騒動が起こった。忠直は真田幸村を討ち取るなど大坂の陣で功績をあげる一方で、待遇に不満を持ち、参勤を怠けたり不行が目立つようになり、肥後へと配流された。改易同然の処分を受け、一旦は松平光長が後を継ぐも、越後高田藩主で忠直の弟の松平忠昌と領土交換となり、忠昌が福井藩50万石の藩主となった。忠昌の没後は、この松平光通が福井藩を継承し、その庶兄松平昌勝松岡藩5万石、庶弟松平昌親に吉江藩2.5万石が分割された。光通の時代ころから財政の悪化が目立ち、藩札が発行された。光通は後継者に悩み自害すると、遺言により昌親がその遺領を継承し、福井藩は吉江藩を吸収した。一方で、光通の子であった松平直堅も独自に1万石の定府大名となり、子孫が糸魚川藩の藩主となっている。昌親はすぐに昌勝の子・松平綱昌に家督を譲るも、乱心を理由に改易され、所領半減(貞享の半知)の上、再び昌親が継承した。こののち、昌勝の子、名君として称えられた松平吉邦が後を継ぎ、その徳政のために幕府領約10万石を預かった。つづいて松岡藩主であった松平宗昌が福井藩主につき、松岡藩を吸収して30万石となった。次代の松平宗矩の代で結城秀康の血は途絶え、以降は一橋徳川家徳川将軍家からの養子が続き、その華美な生活もあって藩の財政は傾くばかりであった。

幕末に福井藩を継いだ松平慶永(春嶽)は、熊本藩より招聘した横井小楠橋本左内由利公正などを登用して藩財政を好転させるとともに、外政的にも一橋派の有力大名となっていた。安政の大獄によって、隠居謹慎を命じられ、藩主の座は支藩・糸魚川藩主の松平茂昭に譲った。しかし、慶永はのちに謹慎が解かれると、政治総裁職につき幕政改革へ取り組んだほか、明治維新後も議定として新政府にも参画した。版籍奉還により、茂昭は福井藩知事となり、廃藩置県によって福井藩は廃藩となった。

藩史

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成立・結城秀康

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北庄は、水上交通と陸上交通が交わる土地として、織田信長が目を付け、柴田勝家にその土地へ築城を命じたことから、越前国支配の拠点となった[1]。柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで、豊臣秀吉に敗れると、追撃戦の最中に北庄城は落城し、勝家も自害した[2]。この後、北庄には6名の城主が入ったが、いずれも短期で入れ替わり、関ヶ原の戦い直前には青木一矩が入っていた[2]

 
初代藩主・結城秀康

初代の福井(当時は北庄)藩主となった、結城秀康(幼名・於義丸)は江戸幕府の初代征夷大将軍徳川家康の次男であった[3]小牧・長久手の戦い後に徳川家康と豊臣秀吉が和睦すると、於義丸は豊臣秀吉の養子(事実上の人質)となり、秀吉の元で元服して「秀」の字を与えられ、秀康と名乗り、河内国に1万石の領土を与えられた[4]。天正18年(1590年)の小田原征伐後、豊臣秀吉は名門結城氏結城晴朝に養子を懇願され、秀康を養子とし、すぐに秀康は結城氏の家督をつぎ、5万石の知行が安堵された(のちの検地により、10.1万石に修正)[5]

関ヶ原の戦いにおいて、結城秀康は徳川家康の所領である関東の留守を任され、伊達政宗最上義光ら奥州の東軍に組した諸将とともに、上杉景勝を包囲しその南下を阻止した[6]。その恩賞として秀康は、越前国68万石を与えられ、北庄藩、のちの福井藩が成立し、その初代藩主となった[6]。秀康の所領については、越前一国だけでなく、信濃国若狭国の領土も加えて75万石であったという説もある[7][8]。どちらにしても、当時としては2番目の規模の大藩であった[注釈 1][7]。秀康の越前国への入封は、加賀藩前田氏の抑えとしての目的があったとされる[9][8]

慶長6年(1601年)7月、秀康は北庄城に入城した[8]。北庄入部後は、知行割を行い55万5千石を給地にあてて、1万石を超す家臣も11家創出し、支城制を採用した[10][8]。秀康は北庄城と城下町の復旧にも努め、6年間かけ慶長11年(1606年)に完成した[11]。しかしその後まもなく、慶長12年(1607年)閏4月8日に、秀康は北庄城にて死去した[12][8]。初代藩主・結城秀康は将軍徳川秀忠の兄であったため、福井藩越前松平家は他の大名とは異なる待遇を受ける「制外の家」として御三家に準ずる待遇を受けることとなる[13][8]

越前騒動・松平忠直(1)

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結城秀康の跡を継いだのは、長男の松平忠直であった[14][15]。将軍・徳川秀忠の「忠」の字を与えられ、慶長16年(1611年)には秀忠の三女にあたる勝姫を正室に迎えている[14][15]

当時の福井藩では、結城秀康からの信任が厚かった本多富正と、巧みな政治手腕を持ち、忠直からの信任が厚く、藩の実権を握っていた今村盛次が対立していた[16]。そこに、本多側に組する久世但馬と今村の庇護を受けた岡部自休両者の領内において百姓殺害事件がおこり、犯人の逮捕をめぐって対立した結果、北庄藩を2分する越前騒動へとつながった[16]。今村の讒言を信じた忠直は、一族郎党ともども邸内に立てこもった久世に藩兵を繰り出して、合戦同様の騒乱となるなか、誅殺した[17][18]

慶長17年(1612年)、本多富正と今村盛次は、大御所家康と将軍秀忠によって江戸に召喚され、本多に理がある裁決が下された[17]。今村派の者は改易・配流処分となり[18]、幕府は新たに付家老として本多重次の嫡男本多成重を派遣した[17]。越前騒動は、幕府が迅速に介入して処分がなされたり、新たな付家老を派遣したりと、幕府権力体制の確立と親藩への統制強化がうかがえる事件であった[17]。また、忠直からすれば、大きな勢力となっていた秀康時代の家臣の多くが追放されたことで、本多富正を中心とする家臣団が形成されるとともに[18]、自身の権力強化につながったとされる[19]

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、忠直は1万5000の軍を率いて参戦した[19]。特に夏の陣では、5月6日の八尾・若江の戦いで静観するままであったのを家康にとがめられた忠直は、翌7日に抜け駆けをして真田幸村はじめとする首級3750をあげるとともに、大坂城一番乗りを果たした[18]。家康は「勲功第一」と称賛したものの、官位の昇格にとどまり、加増はなく忠直にとっては不満が残る恩賞となった[20]。特に忠直の弟、松平忠昌は姉崎1万石から、下妻3万石へ、元和4年(1618年)には高田藩25万石へと栄転している[19]

悪君・忠直(2)

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元和4年(1618年)ごろから、忠直は異常な行動が目立つようになっていったとされる[21]徳川義直徳川頼宣といった年少の叔父(家康の子)に、官位や官職、席次が劣るようになり、その対抗意識も異常な行動の一因とされる[22]。大名の基本的な義務である参勤交代を怠るようになり、また地元福井においても様々な不行を働いたとされる[23]。「徳川実記」の記述では、「このころ越前宰相忠直卿は強暴の振る舞い超過し、酒と色とにふけり、あけてもくれても近習小姓等を手討にし」とある[24]。また、正妻である勝姫の殺害をも企図していたとされる。「西巌公年譜」の記述によれば、勝姫の身代わりを志願した女官が忠直に惨殺されたという[25]。本多成重に行動を諫められた忠直は、それに怒って、逆に本多の居城を攻めかかろうとした[25]

将軍秀忠もついには、忠直の配流を決断した[25]。忠直の母・清涼院にその旨を託し、元和9年(1623年)3月22日、清涼院は北庄に到着し、忠直に豊後国への配流を伝えた[26]。忠直の配流後、幕府から弟の忠昌にその所領を継承するよう命じているが、これは忠昌が固辞したようである[26][27]。家督は息子の仙千代(のちの松平光長)が継承し、忠直の代わりに江戸に滞在していた仙千代が越前に帰国した[26]

藩主の交代・忠昌

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福井の語源となったとされる福井城内の「福の井」

忠直の跡を継いだ仙千代が福井藩主に数えられるかは諸説ある。「徳川実記」の記述には、「仙千代丸に祖父中納言秀康卿以来の旧領七十五万石給ひ、越前の国北庄の城主たらしめられ」とある[26]

ところが新たに将軍となった徳川家光は、幼少の仙千代には要所を預けられないとして、寛永元年(1624年)4月15日に忠直の弟で、越後国高田藩を治めていた松平忠昌に越前50万石余りを与え、仙千代は高田25万石に移封された[28]。北庄藩の領地は以下のように分割され、結城秀康系の5大名家(津山・福井・雲州・結城・明石)が成立した[29]

  • 福井藩:越前福井50万石が秀康次男松平忠昌に与えられる。
  • 丸岡藩:越前丸岡4万6千石が附家老の本多成重に与えられ独立する。
  • 大野藩:越前大野5万石が秀康三男松平直政(雲州松平家の祖)に与えられる。
  • 勝山藩:越前勝山3万石が秀康五男松平直基(結城松平家の祖)に与えられる。
  • 木本藩:越前大野郡内の木本2万5千石が秀康六男松平直良(明石松平家の祖)に与えられる。
  • 越前敦賀郡2.2万石は小浜藩京極氏に与えられ、11.3万石に加増。

忠昌は北庄入部とともに、「北」の字が「負ける」「逃げる」といった負の意味を持つために、地名を「福井」と改めた。しかし当時の史料には「福居(庄町)」の文字がみられ、現在の「福井」に定着したのは元禄年間(1688年 - 1704)以降のこととされている[30]

領土交換により、福井藩の家臣団も再編成が行われた。仙千代配下の家臣もその一部が仙千代について高田藩に赴き、一部(105騎)が忠昌家臣団に編入された[31]。「尚武の気風」を重視する忠昌は、武芸者も新規に登用しており、「福井藩武芸十二法」の基礎をつくりあげた[31][27]。また、同年(1624年)8月に、12か条の条目や代官の服務規程など藩法を発布している[32]。寛永14年(1637年)、忠昌は2.5万石の加増を受け、福井藩は52.5万石となった[27][33]

荒れる後継問題・光通・昌親

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松平忠昌には、長子で側室の子・千菊丸(のちの松平昌勝)、正室道姫の子・万千代丸(のちの松平光通)、側室の子・福松(のちの松平昌親)がいた。千菊丸は長子であったものの、母が側室であったため庶子として扱われていた[34]正保2年(1645年8月1日、忠昌が死去すると、同年に万千代丸が福井藩を継承するとともに、幕府の命令によって千菊丸に松岡藩5万石、福松に吉井藩2.5万石を内分知した(福井藩の石高は45万石へ)[34][27]慶安元年(1648年)、万千代丸は元服し、将軍徳川家光の一字を拝領し、「光通」と名乗った[34]

松平光通は人材登用や、忠昌以来進められていた藩法の整備に尽力した[35]。福井藩歴代藩主の中でも特に英明とされている[36]。しかし、万治2年(1659年)と寛文9年(1669年)の2回、福井の城下町は大火に襲われ、福井城天守も焼失した[37]。光通以前からも、福井城下町の整備や大坂の陣の戦費、公儀などで出費が多かったうえに、光通時代には明暦の大火によって焼失した江戸藩邸や、福井の城下町の再興のために巨額を投じる必要があった[38]。財政政策として、寛文元年(1661年)に全国的にも最初期の事例[注釈 2]である藩札の発行を行った[38]。また藩士から実質的な強制徴収である「借米」を行っていたり、福井藩が管理していた幕領勝山3.5万石の年貢を13年間にわたって借用した[40]。これらの経済政策を行ったものの、藩財政の回復には至らなかった[41]

明暦元年(1655年)4月、高田藩主(元福井藩主)松平光長の娘・国姫を光通は正室に迎えた[42][39]。国姫との間には、男子に恵まれない一方で、側室との間に生まれた権蔵(のちの松平直堅)は、光通から認知されず対面も許されなかった[43]。権蔵をめぐって勝姫と光通の間に確執が生じ始め、寛文11年(1671年3月28日、勝姫は自害した[43]延宝元年(1673年)6月、この権蔵は勝山藩主・松平直良(結城秀康の子)の江戸屋敷へ出奔し、ついには幕府にまで事が知られることとなった[44]。なお、この権蔵はのちに廩米1万石を与えられ、子孫は糸魚川藩主となっている[39]

福井城下での火災や、勝姫の自殺、権蔵の出奔など様々な事件が重なり、その心労からか光通は、延宝2年3月24日に自害した[36]。一説によれば、村正刀を用いて自害したともある[45]。光通は生前、福井藩主を末弟で吉井藩主の松平昌親(福松)に継がせるよう書置きを残しており、幕府もこれを認め同年5月に松平昌親が福井藩主となり、吉井藩2.5万石は福井藩に吸収された[45]。この際、事前に兄の松平昌勝(松岡藩主、千菊丸)の長子・松平綱昌を養子に迎えることで妥協を図っている[45]。昌親は2年間福井藩主をつとめると、延宝4年(1676年)7月、養子の綱昌に藩主の座を譲り渡し、昌親はその後見役をつとめることとなった[45]

貞享の半知・綱昌・吉品

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延宝8年(1680年)や天和元年(1681年)と、2度にわたり福井藩では大凶荒に見まわれ多くの餓死者が発生した[46]。この天和元年以降、綱昌は公務を果たさないようになった[47]。またこの年の3月には、江戸藩邸にて突然家臣に切腹を命じるといった事件が発生した[46]。そして、貞享3年(1686年)閏3月6日、将軍徳川綱吉によって綱昌は所領没収の措置を受けることとなった[48]

この領土没収の原因は定かではない。福井藩の歴史書・国事叢記によると、大法に抵触するよろしからず病気(精神病か)の影響によっての所領召し上げとある[47]徳川実記によれば、綱昌の「失心」が原因とされている[47]。一方で、幕府高官の隠密が集めた情報をもとにした「土芥寇讎記」によれば、後見人となること実権を握ろうとした昌親の意のままにならず、綱昌と不和になり、綱昌を乱心者として幕府に訴え出て藩主の座から引きずり下ろしたとされている[49]

 
藩主の別邸であった「お泉水」(現・養浩館庭園)。失業者対策事業として、吉品時代に大改修が行われた[50]

綱昌の所領没収後、福井藩25万石を新たに前藩主・松平昌親に与えるという例外的措置を取った[51]。この所領半減は「貞享の半知」と呼ばれ、差分の領土は幕府領となった[51]。昌親は再び福井藩主につくと名を昌明と改め、宝永元年(1704年)には綱吉の「吉」の字が与えられ、吉品と名を改めている[51]。領地半減により、家臣は大幅(4割)に召し放ちとなり、残留した家臣も原則として知行が半減となった[50][52]。さらに実質的な強制徴収である「借米」も常習化するようになり、家臣たちは困窮を窮めるようになった[53]

半知後の動揺に対する対策として、昌明は藩法を再編し、元禄4年(1687年)には「御用所式目」として完成を見た[53]。福井藩の信用を背景に、京都や大坂、近隣諸国で流通していた藩札は、半知の影響で貞享4年(1689年)に幕命によって流通が停止された[54]。元禄16年(1703年)に、ついに家格が復し、江戸城拝賀式では御三家の大名と列座して、将軍綱吉の一字が与えられ吉品と改名した[50]

元禄14年(1701年)、昌明は兄昌勝の子・松平昌邦(のちの松平吉邦)を養子に迎え、宝永7年(1710年)7月に吉品が隠居し、昌邦が福井藩主となった[55]

名君の時代・吉邦 - 宗矩

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宗邦の治世は大きく評価されており、「有徳の君と他国迄も取沙汰」されていたといわれている[55]。名君と評価され、その事績は「名君言行録」に逸話が残っている[46]。正徳元年(1711年)の初入国に際して、家臣に施政の方針を示すとともに、「信賞必罰」の履行を明言化している[56]

宗邦の徳政は幕府にも伝わり評価され、享保5年(1720年)に越前国内の幕府領17万石のうち10.5万石を預所とし[57]、享保6年(1721年)には、将軍吉宗から褒詞をたまわっている[58]。晩年には、家臣の系譜をまとめた「諸士先祖之記」の編纂や越前国内の城跡の調査を命じている[59]

享保6年(1721年)、宗邦が急逝すると、支藩・松岡藩主の松平昌平に白羽の矢がたった[60]。同年12月11日、昌平が千次郎を養子にとって福井藩主を継承し、松岡藩は吸収され福井藩は30万石となり、昌平はのちに将軍徳川吉宗から一字与えられ宗昌を名乗った[60][58]

しかし宗昌もわずか3年の藩政ののちに、享保9年(1724年4月27日に死去し、千次郎(結城秀康の子・松平直基の曾孫)が藩主となった[61]。享保11年12月に千次郎は元服し、吉宗から一字与えらえ宗矩と名乗った[61][58]

宗矩の治世では享保15年(1730年)の三国での大火や、翌年冬の大雪、翌17年の大凶作による全国的な米価高などの災害が起こり、多数の飢人や駆け落ち人が発生した[62][63]。また日光東照宮などの修復のために、御用金や藩士の動員といった負担がかかり、藩士に対しては借米を領民に対しては御用金をかけ、なんとか費用を捻出していた[64]。飢饉を訴える窮民は、城下が蓑傘をかぶって福井城下に集まり群行した(綴虫騒動もしくは蓑虫騒動[63]

宗矩は吉邦の娘・勝姫を正室に迎え、忠昌以来の血統を絶やさないことを目指したが、勝姫は子をなすことなく死去してしまった[65]。家門の存続のためにも家臣らは宗矩に再婚を進めたが、耳を貸すことはなく、前将軍となっていた吉宗に将軍家から養子を貰うことを請願した[65]。この願いは聞き入れられ、吉宗の子で一橋徳川家徳川宗尹の嫡子於義丸を養子にすることが決まった[66]。宗矩は寛永2年(1749年)に死去し[66]、福井藩において結城秀康以来の血統は途絶えることとなった。

傾く財政・重昌 - 斉善

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宗矩の死去後、於義丸が藩主につくと、家臣らは実父徳川宗尹の後見を要請し、重臣間での意見の対立が起こった際は宗尹の裁断を仰ぐよう指示され、福井藩に対して一橋徳川家が干渉できるようになった[67]。藩主が幼少であるため、一旦福井藩預所は幕府直轄となった[67]。宝暦5年(1755年)に於義丸は元服し、将軍徳川家重から一字を与えられ重昌と名乗ったが[68]、宝暦8年(1758年)に病没し、一橋徳川家の嫡子となっていた重昌の弟、仙之助が後を継いだ[69]

仙之助は同10年(1760年)に元服すると、同様に家重から一字を拝領し重富と名乗り、同13年(1763年)には幕府領8.3万石余を福井藩預所として管理するようになった[69]。一橋家からの養子は福井藩の家格を上げると同時に、藩主は奢侈を好むようになり更なる財政悪化を招くこととなった[70]。「借米」も恒常化しており、宝暦11年(1761年)11月にはついに、禄の五割の上納を求める「半減」を初めて行っている[71]。明和5年(1768年)3月には、領内町方に1万5千両の御用金を課したことをきっかけに、8日間にわたって延べ8万5千人が福井城下で打ちこわしを行う騒動に発展した[72]。この一揆は福井藩史上最大とされており、最終的には福井藩が一揆勢の要求を呑んで終結した[72]。藩内からの御用金の調達が困難となったため、重富の実弟・徳川治済一橋徳川家の当主)を介して幕府が大坂の町人に借金を要求することもあった[73]。その後も、金銭的にたびたび一橋徳川家や幕府の協力を得ることがあった[74]。しかし、天明の大飢饉など、多くの大災害に見舞われ財政が好転することはなかった[72]

寛政11年(1799年)9月、重富が隠居して、その子・松平治好が後を継いだ[75][72]。治好は俳諧で当時の大名たちと比べて傑出した才能を持ち、日頃から芸事に精進するなど、奢侈な生活を好み、福井藩の財政はさらに窮乏した[75]。一方で、藩医浅野道有の勧めにより、文化6年(1809年)医学所救世館を設立したほか、文政2年(1819年)に学問所正義堂を設立した[76]

文化14年(1817年)9月、治好の嫡男・松平斉承と将軍・徳川家斉の娘・浅姫の縁組が申し渡され、翌年の文政元年(1818年)5月に福井藩は坂井郡41村2万石の加増が申し渡された[77]

文政8年(1825年)12月1日、治好が死去し、翌9年(1826年)1月に斉承が継承した[78][76]。斉承もまた奢侈を好み、江戸藩邸や福井城本丸御殿の増改築を命じたため、倹約政策も実施はしていたものの、効果は上がらなかった[76]。斉承は天保6年(1835年)閏7月2日に死去し、徳川家斉の24男(流産を含めないと22男)・松平斉善が後を継いだ[78][76]。斉善の時代には、その出自のために、幕府からの借金を受けることが多かった[78]。やはり根本的な財政改善策をうつことができず、天保の大飢饉をはじめとする災害もおき、藩財政は窮乏をつづけた[76]

藩政改革・慶永(1)

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  • 本節では、先に慶永以降大政奉還まで、藩政改革を中心とする主に福井藩「内」の事項を解説し、次の節では時間を戻して、慶永時代の主に幕府政治といった福井藩「外」での福井藩にまつわる事項を解説する。そのため、本節と次節で時系列が前後する。
 
松平慶永(春嶽)

天保9年(1838年)7月27日に、斉善が死去し、同年9月4日に将軍・徳川家慶の命によって、田安徳川家の当主徳川斉匡の8男・錦之丞(のちの松平慶永、春嶽)が斉善の養子となることで、10月20日に跡を継いで福井藩主となった[79]。同年12月11日に錦之丞は元服して、家慶の一字を拝領し慶永と名乗った[80]

天保14年(1843年)5月に初入国の許しを得ると、藩政改革を成功させていた水戸藩主・徳川斉昭から藩主としての「心得九か条」を授かってから、福井へ赴いた[80]側用人中根雪江側向頭取浅井政昭などの側近が、慶永の成長を支えていった[80]

弘化元年(1844年)ごろから、慶永は藩政改革に乗り出した[81]。当時の福井藩の借金は95万8454両と、およそ福井藩15年分の歳入に匹敵するほどであった[81]。従来の専売制への依存から脱却するために、産業振興策が模索され始めた[82]。のちに橋本左内は、積極的貿易策を掲げ、海外交易の利を藩内で唱えた[82]

嘉永2年(1849年)春、朱子学吉田東篁の門下生たち(本多飛騨・松平主馬・本多修理)を新たに家老に抜擢した[83]

三寺三作が「藩校を再開すべき」と建白すると、浅井政昭は三作に遊学を命じ、嘉永2年10月に熊本の横井小楠家塾に入学した[84]。この来訪を機に、横井小楠も福井藩に興味を持ち、嘉永4年に横井小楠は福井藩へ訪れた[84]。安政2年(1855年)6月に、吉田東篁の門下生であった鈴木主税を中心に藩校明道館が創設された[85]。安政3年(1856年)2月、鈴木主税は後継者に橋本左内を指名して、のちに明道館の事実上の運営責任者となった[85]

安政4年(1857年)8月、橋本左内は侍読兼御用掛りに採用され、江戸に赴いて慶永のブレーンとして、慶永の身近で活躍するようになった[86]。また福井藩の指導者たちへの横井小楠の助言を求めるために、同年の春に村田氏寿が熊本藩に派遣され、翌5年(1858年)3月に教育顧問としての横井小楠の福井藩派遣が決まった[86]

安政6年(1859年)、将軍徳川家定の後継を巡って、安政の大獄とよばれる弾圧が起こり、7月5日に松平慶永は隠居謹慎処分となり、支藩・糸魚川藩の松平直廉(茂昭)が福井藩主となった[87]。また後継問題にかかわった橋本左内も同年10月に処刑された[82]。(家定の後継者争いと安政の大獄については、次の節で詳説する。)

万延元年(1860年)、横井小楠は藩の首脳らと、藩政の基本政策を協議し、「国是三論」をまとめた[82]。国是三論の中でも提唱されている富国論の概要は「国際貿易を始めようとしているなかで、藩が生産資金を融通して商品を生産し、海外交易によって確実に成果をあげる」というものであった[88]。この理論を実行に移したのが、由利公正であった[89]。安政6年にすでに、生産資金として藩札5万両を発行しており、藩営貿易の拠点として物産総会所が開設された[89]。物産総会所に産物が集荷されると、横浜長崎の藩営商社を通じて海外へ輸出された[89]

幕府の混乱

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京都市 福井藩邸跡

嘉永6年(1853年)6月3日、江戸湾に黒船4船が姿を現し、日本に開国を要求した[90]。多くの大名が開国はやむを得ないと考える中、慶永は攘夷論を唱え幕府へ武装強化を求めている[91]。この混乱の中で、将軍家慶が死去し、徳川家定が将軍となったが、生来病弱であり嫡子が不在だったため、将軍後継者が政治問題化した[91]

幕政改革を求める大名は、一橋徳川家徳川慶喜を後継者に推す「一橋派」を形成し、従来路線の維持を求める大名は、紀伊徳川家徳川慶福を推す「南紀派」を形成した[91]。幕政改革を求める慶永は、島津斉彬らとともに一橋派の中心として活躍した[91]

後継者争いの中で、慶永は海外事情にも精通していた橋本左内を腹心に抜擢した[92]。橋本左内や島津斉彬の腹心であった西郷隆盛らは熱心に朝廷工作を行い、一橋派に有利な内勅が下るように奔走した[92]

安政5年(1858年)4月、老中首座堀田正睦は、朝廷の説得のためにも一橋派の協力を求め、慶永を大老とするよう将軍家定に進言したが、家定はこれを拒否したうえで南紀派の首領井伊直弼を大老に据えた[87]。井伊直弼は強引に慶福を将軍後継とし、同年7月6日に家定が死去すると、慶福は家茂と改名し将軍となった[87]。これに先立ち、井伊直弼は一橋派の大名に弾圧を行い、同年7月5日に慶永は隠居・謹慎処分となり、即日に慶永は謹慎生活を始めた[87]

政治総裁職

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慶永が謹慎処分となり、幕府は福井藩の支藩・糸魚川藩の藩主であった松平直廉を福井藩主に任命して、将軍家茂の一字を拝領し名を茂昭とした[87]

井伊直弼は将軍後継問題にとどまらず、孝明天皇の諸大名と協議せよという勅命を無視して通商条約の調印をも強行、これに反対した攘夷派の公家や志士の弾圧にも着手した[93]。橋本左内の弾圧の対象となり、軽輩の身分で将軍後継問題に関与したとして斬首刑に処された[93]

万延元年(1860年)3月3日、井伊直弼は江戸城への登城中に暗殺された(桜田門外の変[94]。幕府は朝廷との融和策に乗り出したが、幕府の権力は低下し、逆に朝廷の威信や雄藩の勢力が上昇した[94]。文久2年(1862年)3月、島津斉彬の弟島津久光は精兵1000を引き連れ上洛し、幕府の人事に介入するための勅使の派遣を要請した[95]。同年5月、島津久光は勅使とともに江戸城に入り、7月に徳川慶喜は将軍後見職、慶永は政治総裁職(大老と同等の役職)[注釈 3]についた[95]

慶永のブレーンには横井小楠が付き、「国是七条」を執筆し幕政改革を求めた[95]。文久3年(1863年)3月、将軍家茂が上洛し、慶永も京都に赴いたが、京都には尊王攘夷派の公家や長州藩らが攘夷を主張するなど、混沌を窮めており、公武合体策は頓挫した[96]。慶永は辞表を提出して帰国したため、政治総裁職を解任され逼塞を命じられた[96]

横井小楠をはじめとする福井藩内の幕政改革派は、これに反発し、攘夷派を京都から排除しようと画策し、慶永が藩兵4000を率いて上洛する策を立てた[97]。ところが、中根雪江が帰国すると、上洛は時期尚早として強く反対した[97]。藩主茂昭に参勤が迫る中、上洛の是非をめぐった対立が激化し、中根雪江は蟄居処分となったが、上洛計画に対する反対運動の激化や協力を約束した大名たちの動揺もあり、最終的に慶永が上洛の中止を決定した[97]。上洛賛成派の家老や、由利公正は蟄居処分となり、横井小楠は熊本に帰国した[97]

四侯会議

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元治元年(1864年)、長州藩追討の勅令が下され、第一次長州征討が始まった[98]。この総督には、慶永を起用する予定であったが、病気を理由に固辞されたため、総督に前尾張藩主・徳川慶勝、副総督に福井藩主・茂昭が任命された[98]。福井藩は約3700の兵力で参戦し、茂昭は九州11藩5万の兵力を指揮する予定であった[98]。しかし、九州諸藩の指揮は低く、小倉城への終結がままならないまま、長州藩が降伏して終結した[99]

慶応2年(1866年)6月、幕府によって第2次長州征討が断行された[100]。しかし、同年7月20日に将軍家茂が死去し、12月5日に慶喜が将軍となったが、幕府に協力的であった孝明天皇も崩御した[101]。長州征討を終わらせるための長州藩主処分や兵庫の開港などといった問題の解決のために、慶永、島津久光、元宇和島藩主・伊達宗城、元土佐藩主・山内豊信の4人(幕末の四賢侯)を京都に招集し、討議させた(四侯会議[102]。しかし、兵庫開港問題を優先する慶喜と、長州藩の扱いを優先する久光の間で意見が分かれ、決着がつかぬまま会議は解散した[103]。四侯会議後、慶喜が朝議を主導し、兵庫開港と長州藩主に対する寛大な処分の勅許が下された[104]

慶応3年(1867年)10月14日、慶喜は朝廷に大政奉還の建白書を提出し、翌日受理された[105]。大政奉還を受理した朝廷は慶永に上洛を命じ、11月8日に上洛を果たした[105]。12月9日に王政復古の大号令が下ると、制度の改変も行われ、明治政府の三職に関して福井藩からは議定には慶永が、参与には中根雪江、酒井十之丞毛受鹿之介が任命された[106]

明治新政府への関与と廃藩

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慶応4年(1868年)1月、徳川慶喜追討のための東征軍派遣を決定した。親藩大名である慶永は、徳川宗家の存続や内戦の阻止を目指して東征軍の派遣に反対したため、新政府内での立場が弱まり、福井藩出身の参与たちも相次いで辞職することとなった。5月22日、福井藩にも政党軍への参加を命じられた。福井藩は徳川宗家に対する冷遇もあって福井藩の態度は曖昧であったが、庄内藩の抵抗にあい戦線が膠着したため、福井藩へ出兵が督促されることとなる。茂昭の持病の脚気を理由に出陣の猶予を乞い、6月下旬に酒井孫四郎率いる1200の兵が出陣し、7月に入って茂昭名代の本多興之輔が出陣した。

明治2年(1869年)1月20日、薩長土肥の4藩が版籍奉還を上表すると、福井藩も同月28日に版籍奉還を上表した[107]。そのため6月にはすべての藩の版籍奉還が勅許され、茂昭は知藩事に任命された[107]

明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により、福井藩は廃藩となり、福井県、ついで足羽県となった[108]。知藩事の茂昭には、東京(江戸)への移住が命じられ、ウィリアム・グリフィスの日記によれば、福井の人々に見送られながら福井を去ったという[108]

翌年の寛永元年(1624年)4月、越後高田藩で別家25万9千石を与えられていた忠直の弟松平忠昌(福井松平家の祖)が50万石で福井藩の主な家臣(幕府に選ばれた百余名を主とする[注釈 4])、藩領を継承する[注釈 5][注釈 6]。7月の忠昌入部ののち、居城周辺の街・北ノ荘は福居(後に福井)と名を改められる。

吉品が就封の際、領地宛行状が国名の越前少将から、城地名の福井侍従となり[注釈 7]、忠昌が大坂の陣で使った片鎌槍の大名行列の際の使用を禁じられた。また、この時に藩邸の格式も下がり、江戸城の詰間が将軍家の親族が詰める大廊下から、外様国持大名と同じ大広間へ異動した。ただし、この間もこれ以降も歴代藩主は当代将軍の偏諱を拝領する「特別な家」であり続けた。官位も10代宗矩から再び左近衛権少将に戻る。

その後11代重昌から江戸城の詰間が大廊下に戻る。

福井藩領は明治4年(1871年)、廃藩置県により福井県、ついで足羽県となり、さらに敦賀県を経て石川県に併合されるが、のち旧越前および若狭が福井県として分立した際にその中心部となった。

歴代藩主

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津山松平家

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親藩、石高:68万石

氏名 肖像 院号[110] 受領名[110] 在職期間[110] 享年 出自
1 結城秀康[注釈 8]
ゆうき ひでやす
  浄光院 三河守 慶長5年(1600年)11月 - 慶長12年(1607年)閏4月8日 34 徳川幕府初代征夷大将軍徳川家康の次子
2 松平忠直[注釈 9]
まつだいら ただなお
  西巌院 越前守 慶長12年(1607年)閏4月27日-元和9年(1623年)2月22日 先代の子
(3)[注釈 10][注釈 11] 松平光長
みつなが
- 先代の子、高田藩25万石へ転封

福井松平家

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親藩、石高:50万石→52.5万石→45万石→47.5万石→25万石→30万石→32万石

氏名 肖像 院号 受領名 在職期間 享年 出自
1 松平忠昌[注釈 12]
まつだいら ただまさ
  隆芳院 伊予守 寛永元年(1624年)4月15日-正保2年(1645年)8月1日 結城秀康の次子、高田藩25万石より転封
2 松平光通
みつみち
  大安院 越前守 正保2年(1645年)10月19日-延宝2年(1674年)3月24日 先代の次子
3 松平昌親
まさちか
  探源院 兵部大輔 延宝2年(1674年)5月6日-延宝4年(1676年)7月21日 松平忠昌の5男、元吉江藩2.5万石の藩主
4 松平綱昌
つなまさ
清浄院 越前守 延宝4年(1676年)7月21日-貞享3年(1686年)3月6日 松平忠昌の長子・松平昌勝の長子
5 松平昌親/吉品
まさちか/よしのり
  探源院 兵部大輔 貞享3年(1686年)3月6日-宝永7年(1710年)7月5日 3代目・昌親が再任
6 松平吉邦
よしくに
昇安院 伊予守 宝永7年(1710年)7月5日-享保6年(1721年)12月4日 松平昌勝の6男
7 松平宗昌
むねまさ
豊仙院 中務大輔 享保6年(1721年)12月11日-享保9年(1724年)4月27日 松平昌勝の3男、松岡藩5万石の元藩主
8 松平宗矩
むねのり
徳正院 兵部大輔 享保9年(1724年)5月11日-寛延2年(1749年)10月21日 松平知清白河藩主・松平直矩の子)の次男
9 松平重昌
しげまさ
源隆院 越前守 寛永2年(1749年)12月7日-宝暦8年(1758年)3月18日 一橋徳川家当主・徳川宗尹の長男
10 松平重富
しげとみ
隆徳院 越前守 宝暦8年(1758年)3月21日-寛政11年(1799年)9月18日 先代の弟
11 松平治好
はるよし
威徳院 越前院 寛政11年(1799年)9月18日 - 文政8年(1825年)12月1日 先代の子
12 松平斉承
なりつぐ
天梁院 越前守 文政9年(1825年)1月23日 - 天保6年(1835年)閏7月2日 先代の子
13 松平斉善
なりさわ
諦観院 越前守 天保6年(1835年)閏7月11日 - 天保9年(1838年)7月27日 11代征夷大将軍・徳川家斉の子
14 松平慶永
よしなが
  越前守 天保9年(1838年)10月20日 - 安政5年(1858年)7月5日 田安徳川家当主・徳川斉匡の子
15 松平茂昭
もちあき
  越前守 安政5年(1858年)7月5日 - 明治4年(1871年)7月15日 糸魚川藩主・松平直春の子、元糸魚川藩主・松平直廉

格式

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「制外の家」

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初代藩主・結城秀康は、2代目の将軍・徳川秀忠の兄であり、大名の中でも特別扱いを受け、その後の越前松平家は「制外の家」として扱われた[13]。綱昌時代の福井藩改易以前は、元日の将軍拝謁の際に、御三家当主の末座に座るほか、総下座(江戸城の門番が下座して大名を送迎する)の待遇を受けたり、徳川将軍から偏諱を賜っていた[115]。しかし、改易を受け、しばらくこの厚遇はなくなり、綱昌領を新たに継承した昌明が偏諱を賜ったのは、藩主就任から18年後であった[115]

支藩・分家

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松岡藩

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福井藩主・松平忠昌の庶長子(松平光通の兄)、松平昌勝が松平光通の藩主就任に伴って松岡5万石を与えられ成立した。2代藩主宗昌の福井藩主への就任に伴い、その所領は福井藩へ吸収された。

  1. 松平昌勝
  2. 松平宗昌 →福井藩の藩主となり、松岡藩は廃藩

吉江藩

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松岡藩の成立と同時に、松平忠昌の5男、松平昌親に吉江2.5万石を与えられ成立した。松平昌親が福井藩主に就任すると、その所領は福井藩へ吸収された。

  1. 松平昌親 →福井藩の藩主となり、吉江藩は廃藩

糸魚川藩

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光通の子・権蔵は光通正室の国姫所生ではなく嗣子とはならなかった。延宝元年(1673年)に江戸へ出奔し、延宝3年(1675年)将軍・徳川家綱に謁見し従五位下、備中守に叙任、賄料1万俵江戸定府(領地を持たない)の諸侯に列した。享保2年(1717年)に、3代目の直之に糸魚川1万石の領土が与えられ、以降も幕府の中堅の要職に就くことが多くあった。

  1. 直堅
  2. 直知
  3. 直之 →以降、糸魚川藩1万石の大名に

家臣団

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国老

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本多富正重次の甥)-昌長-長員長教-副紹-副充=副久-副昌-富恭副元常陸府中藩主・松平頼説の子、頼功の次男)

高知席

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家老を輩出する藩内最高の家格の高知席は17家[117]

  • 本多飛騨家(本多成重の五男重方が初代)
  • 本多修理家(本多富正の次男正房が初代。本多敬義等。)
  • 本多源四郎家(修理家分家)
  • 酒井外記家(酒井重成が初代)
  • 酒井孫四郎家
  • 狛山城家(狛孝澄が初代。北狛(北狛は間違いで狛家二家のうちこちらが南狛とする説あり[118])。墓所は福井市木田の通安寺。)
狛家は、戦国時代には大和国で6万石を有する大名だったが、天正13年(1585年)の豊臣秀長の大和入国で領地を召し上げられた狛実秀が慶長7年(1602年)に越前に移ったと伝えられる[118]。実秀の子が福井の狛家初代の狛孝澄(1581-1659)で、松平忠昌の家臣となり、のちに家老となった[118][119]。その孫の狛貞澄が跡を継いだが、その嗣子の狛政貞が廃嫡となって分家したため、庶子の狛澄孝が跡を継ぎ、以降、跡継ぎは名に「孝」の通字を持った[118]。なお、京都帝大工学部教授で明治精錬社長の阿部正義(1860-1909)は狛山城の出[120][121]
  • 狛帯刀家(山城家狛貞澄の長男狛政貞が廃嫡となり1600石で分家。南狛(北狛説あり[118])。墓所同上)
貞澄の末子・澄翁が政貞の家督を継ぎ、以降跡継ぎは名に「澄」の通字を持ち、政貞の通称のひとつだった帯刀を通称とした[118]
  • 国老(本多家)
  • 高知席
  • 高家
  • 寄合席
  • 定座番外席
  • 番士 役番外 大番など
  • 新番・新番格
  • 医師・絵師など
  • 与力
  • 小役人
  • 一統目見席
  • 小算・坊主・下代
  • 諸組(足軽)

1852年(嘉永5年)時点で、荒子・中間等の小者973人を除く家臣団総数は2700名(士802、卒1898)[124]

 
松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型

所領

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石高の変遷

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所領

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福井藩
親藩
32万石
福井藩の位置

上記のほか、南条郡12村、今立郡18村、丹生郡14村、大野郡13村、坂井郡69村の幕府領を預かったが、「旧高旧領取調帳」では第1次府県統合後の状況になっているため、下記以外の変遷の詳細は不明である。

明治維新後、南条郡3村(旧西尾藩領1村、旗本領1村、福井藩預所管轄の旧幕府領1村)、大野郡11村(福井藩預所管轄の旧幕府領)が加わった。

福井城

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城下町・福井

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江戸屋敷

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経済・産業

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藩札

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福井藩の藩札の発行は、

越前和紙

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福井藩内では、鳥子紙檀紙・「越前奉書」として評価される奉書などの和紙が漉きあげられた[125]。とくに今立郡の五箇、大滝村・岩本村・不老(おいず)村・新在家(しんざいけ)村・定友村は紙漉き屋が集中しており、「和漢三才図会」では「紙の王と呼ぶにふさわしい紙」の産地と評されている[126]。大滝村の三田村家は、福井藩の筆頭紙屋であり、唯一幕府に用紙を納入する家でもあった[125]

越前和紙は、福井藩札や明治政府が発行した太政官札にも使用された[125]

その他産業

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福井藩における特産品は、前述の和紙のほかにも、絹や布、笏谷石、越前打刃物などがある[127]。戦国末期から北庄では絹織物の生産が盛んで、贈答品として重用された[127]。しかし、絹織物の生産は18世紀ころには低迷している[127]。福井城下付近に位置する足羽山(愛宕山)からは、青緑色で加工が容易な凝灰岩である「北庄切石」(笏谷石)が採掘され多用された[127]。笏谷石は三国湊から北前船につまれ、全国へ流通した[128]

福井藩の国老をつとめた本多家領の中心・府中(越前市武生)では、越前打刃物が盛んであった[129]。とくにその一種越前鎌は全国に波及していた[129]

文化

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藩校

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脚注

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注釈

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  1. ^ 薩摩藩が表高72.9万石となるのは、琉球侵攻後に、琉球の石高も算入された際である。そのため、前田利長109万石、結城秀康68万石、島津家久61.9万石、伊達政宗61.5万石と続く[7]
  2. ^ 日本最初の藩札とされる場合もある[39]。この以前に別の藩が藩札を発行したという記録はあるが、実際に発行されたかは定かではない。
  3. ^ 政治総裁職は大老と同じ役職である。大老は一般に譜代大名がつく役職であり、親藩大名であった慶永には不適当ということで改名されたものである[95]
  4. ^ 忠昌の北ノ荘入部に際し、松平光長旧臣に対して越前への同行、北ノ荘への出仕、他家への退転は自由に選択させ、約500名の家臣のうちの幕府により選抜された105名を中心とする家臣が忠昌に出仕し、その他の家臣は光長に随って越後高田藩臣となったり、同時に分家された大野藩などの諸家に仕えた[109]。また、老臣5人のうち、本多飛騨守は大名になり、小栗美作守・岡島壱岐守・本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断り、幕府による選抜の中心となった附家老の本多伊豆守は忠昌に出仕した[109]
  5. ^ 忠直の嫡男松平光長には越後高田26万石が与えられ、高田藩を立藩した。
  6. ^ 松平光長を福井藩3代と数える説もあり、光長が一旦継承したと読むことも可能な史料もあるが、継承の件自体が後世、幕府により否定されているので公式とはならず、逆に「忠直 - 忠昌 - 以降」が幕府の公式見解である。
  7. ^ このとき、福井藩の領主の家格が越前国主より福井城主へ降格した。
  8. ^ 秀康時代の主な家臣
    • 今村盛次→久世騒動で改易。子孫は忠昌に越後高田で召出される
    • 江口石見→忠直の時蟄居。子孫は忠昌に召出される。
    • 落合美作→久世騒動の際、忠直の勘気を蒙って和泉国堺に蟄居。後に徳川頼宣に仕える。
    • 久世但馬→久世騒動で成敗される。
    • 清水孝正(敦賀城代)→久世騒動で改易。伊達家預け。
    • 林定正(勝山城代)→久世騒動で改易。最上家預け。
    • 多賀谷泰経→断絶。子孫は松平直基に召出される。
    • 土屋昌春→秀康に殉死。
    • 永見吉望(貞武)→秀康に殉死。
    • 山川朝貞→断絶。
    • 吉田修理→断絶。
    • 本多富正府中城代)→附家老。幕命により、以降数代にわたり藩政を指揮する。
  9. ^ 忠直時代の主な家臣
    • 荻田長繁→越後出身。光長の越後入国に従い、糸魚川城代となる。
    • 小栗正重大野城代。光長の越後入国に従い、高田城代となる。
    • 本多富正 →附家老。忠直配流後も幕命により忠昌に仕え、以降も福井藩を指揮する。
    • 本多成重丸岡城代)→附家老。寛永元年(1624年)諸侯に成る。
  10. ^ これを歴代に数えるかは学説・見解が分かれているが、現在のところは幕府の公式見解に則り「含めない」が一般的である。「貞享年中之書上ニハ継中納言之遺跡与申儀無之、賜越前国与計認有之候間此度も継遺跡と申儀ハ相除可被指出候事」[111]とあって、寛政12年(1800年)に福井松平家に対して幕府は同系図の修正を命じ、福井松平家では越前家の代数より光長を排除する作為を系図に加えている。つまり公式には「歴代に含めない」のではあるが、「光長は明らかに父の遺跡を継いだといわねばならない」、「細川忠利は『越前御国替に罷り成り』(寛永元年五月晦日付披露状『細川家史料』)といい、久保田藩の重臣梅津政景も『越前ノ若子様ハ越後へ廿五万石ニ而御国替の由』(『梅津政景日記』寛永元年六月五日条)といっており、当時の大名などもそのように認識していたのである」という見解も存在するが[112]、幕府の公式見解とは違っている。
  11. ^ 津山松平氏家譜 元和9年(1623年)2月10日条に、光長が「家督を承け祖父以来のノ遺跡一円領知スヘキノ旨を命セラル」[113]とあり、同年7月幕府国目付が北荘へ来着し、台命を伝達した奉書中に忠直仕置等万事不相届故を以て越前国仙千代丸ニ被仰付」[114]とあるが、その後幕府から再度使者が派遣され、光長の相続は取り消しとなっている。
  12. ^ 忠昌時代の主な家臣
    • 笹治大膳→忠昌の時に加増される。
    • 永見吉次→高田より随従。
    • 本多富正→附家老。幕命により藩政を指導する。
    • 片山良庵→松代時代に召し抱えられた軍学者。

出典

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  1. ^ 舟澤 2010 p,1
  2. ^ a b 舟澤 2010 p,2
  3. ^ 舟澤 2010 p,12
  4. ^ 舟澤 2010 p,13
  5. ^ 舟澤 2010 p,15
  6. ^ a b 舟澤 2010 p,16
  7. ^ a b c 舟澤 2010 p,20
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  9. ^ 舟澤 2010 p,21
  10. ^ 舟澤 2010 p,22
  11. ^ 舟澤 2010 p,18,19
  12. ^ 舟澤 2010 p,19
  13. ^ a b 舟澤 2010 p,18
  14. ^ a b 舟澤 2010 p,44
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参考文献

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  • 舟澤茂樹『福井藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2010年11月20日。ISBN 978-4-7684-7123-4 
  • 中山良昭『徳川一族大全』廣済堂出版、2015年10月10日。ISBN 978-4-331-80313-4 

関連項目

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外部リンク

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先代
越前国
行政区の変遷
1624年 - 1871年 (福井藩→第1次福井県)
次代
福井県(第1次)