貞辰親王(さだときしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族清和天皇の第七皇子。

貞辰親王
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 貞観16年(874年
薨去 延長7年4月21日929年6月1日
別名 院宮
官位 四品
父母 父:清和天皇、母:藤原佳珠子
兄弟 陽成天皇、貞固親王、貞元親王貞保親王、貞平親王、貞純親王、孟子内親王、包子内親王、敦子内親王貞辰親王識子内親王貞数親王貞真親王、貞頼親王、源長猷、源長淵、源長監、源長頼、源載子
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経歴

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清和朝末の貞観17年(875年)に親王宣下を受ける。

元慶8年(884年陽成天皇退位にあたって、清和天皇の数多くの皇子の中で、貞辰は時の権力者である摂政藤原基経の唯一の外孫(母は藤原基経の娘である女御藤原佳珠子)であることから、有力な皇嗣候補の一人だった。しかし、陽成上皇と皇太后藤原高子の影響を排除するために、基経は身内と異なる成人の時康親王(光孝天皇)を擁立したため、貞辰親王は皇嗣になれなかった[1]

基経は光孝天皇の次に貞辰親王を擁立して自らは摂政に就任することを目論んでいたとみられ、光孝天皇も基経の意図を汲んで、即位後に全ての皇子女を臣籍降下させ、皇太子も立てなかった[2][3]仁和3年(887年即位後わずか3年で光孝天皇は病に伏し、再び皇嗣を選定する必要が生じる。ここで、光孝天皇の第七皇子・源定省(宇多天皇)が擁立され、貞辰親王が立てられることはなかった。基経は14歳の貞辰親王を元服させた上で皇嗣に擁立することも不可能ではなかったが、陽成上皇と皇太后・高子の存在が基経を躊躇させ、やむなく定省を擁立したとも考えられる[4]

元服後、四品に叙せられる。醍醐朝末の延長7年(929年)4月21日薨去享年56。最終位階は四品。

異伝

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東京都墨田区向島にある牛嶋神社(牛御前王子権現社)と葛飾区王子白髭神社(王子神社)の祭神となっている。王子白髭神社社伝によると、貞辰が東国を巡行中の天慶元年(938年)にこの地で没したために祭られたという。

官歴

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系譜

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脚注

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  1. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 313.
  2. ^ 倉本一宏『藤原氏-権力中枢の一族』(中央公論新社中公新書2484)p.176)
  3. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 317-318.
  4. ^ 瀧浪貞子 2017, p. 318.
  5. ^ 『日本三代実録』
  6. ^ 『日本紀略』

参考文献

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  • 武田祐吉佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年
  • 瀧浪貞子『藤原良房・基経 藤氏のはじめて摂政・関白したまう』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2017年。ISBN 9784623079407