千葉県

日本の都道府県

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千葉県(ちばけん)は、日本関東地方の南東側、東京都の東方に位置する。県庁所在地は千葉市都道府県人口都道府県人口密度都道府県昼間人口はいずれも全国6位、面積は全国28位(南関東1都3県では最大)である。

ちばけん ウィキデータを編集
千葉県
日本の旗 日本
地方 関東地方
団体コード 12000-6
ISO 3166-2:JP JP-12
面積 5,156.48km2
(境界未定部分あり)
総人口 6,276,574[編集]
推計人口、2025年9月1日)
人口密度 1,217人/km2
隣接都道府県 東京都埼玉県茨城県
神奈川県(海を挟んで隣接)
県の木 マキ
1966年9月29日指定)
県の花 菜の花
1954年4月NHKを通じ一般公募)
県の鳥 ホオジロ
1965年5月10日指定)
他のシンボル 県魚:タイ1989年2月23日指定)
県章:1909年12月28日制定
県民歌:1964年12月
県民の日:6月15日
千葉県庁
知事 熊谷俊人
法人番号 4000020120006 ウィキデータを編集
所在地 260-8667
千葉県千葉市中央区市場町1番1号
千葉県庁
千葉県庁
外部リンク http://www.pref.chiba.lg.jp/ 千葉県公式サイト
千葉県の位置
特記事項

千葉県行政区画図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

千葉県の市町村
千葉県旗
千葉県旗

千葉県旗
ウィキポータル 日本の都道府県/千葉県
ウィキプロジェクト

概要

千葉県は、関東地方の南東部に位置する県で、房総三国、すなわち律令制以来の上総国安房国下総国から成り立つ。但し、下総国のうち、猿島郡結城郡豊田郡の三郡と相馬郡・葛飾郡二郡中の一部は、茨城県に、葛飾郡の一部は、それぞれ、東京都と埼玉県に編入されている。1873年(明治6年)6月15日に、北部の印旛県と南部の木更津県が合併し、千葉県が成立した。その後、1875年5月7日新治県利根川以南の領域を編入、同時に旧印旛県の利根川以北の領域を茨城県に移して現在の県域がほぼ完成した。

三方を海に囲まれ、県土の大部分が房総半島に含まれる。起伏の少ない県であり、関東平野の一部である北部は、海岸(東京湾太平洋)や河川(利根川江戸川など)沿いの低地と下総台地とからなる。南部側は丘陵地帯だが、標高329mの鋸山鹿野山など、観光地化されているところも多い。最高峰は標高408mの愛宕山であり、全都道府県のうち最高峰(点)が最も低い。

平地の割合が大きく、可住地面積が広いことや、東京都に隣接しており首都圏の一角をなすことなどから、古くから住宅開発が進んでいる。人口は県北西部で特に稠密である一方、東部や中南部では多くの地域で人口の減少が進んでおり、一部の市町は過疎地域に指定されている。浦安市から富津市までの東京湾沿岸には広大な埋立地が広がり、京葉工業地域の中枢として市原市の石油化学コンビナートや千葉市と君津市の製鉄所などが立地している。一方、地勢を生かした農漁業も盛んに行われており、農業産出額、漁業総生産量とも全国で有数である。

地理

 
愛宕山(408.2m)
 
富山(350m)
 
伊予ヶ岳(349.5m)
 
鋸山(329.4m)
 
房総半島

千葉県の県庁所在地である千葉市を中心にコンパスで円を書くと南西諸島以外の日本列島は半径1000km圏内に殆ど収まる位置にある。千葉県の大きな地理的特性としては、広義的には関東平野に含まれるが、その大部分は、東と南を太平洋、西は東京湾と三方を海に囲まれた(房総半島になっていることである。また、500m以上の山が無い事も特長である。地理的条件は、常に半島であることが重要視され、袋小路的な閉鎖性が、近代に高まった陸上交通中心の見地から問題とみなされることも多いと同時に、外洋に面していることから古来から開放的で外来文化が渡来しやすいという良い側面もあった。また、隣接する都県とは利根川、江戸川、東京湾、太平洋によって画され、古くは外敵の進入を防ぐ役割や覇者の起死回生の地としての役割を担ってきた。野田市と香取市の一部地区を除き橋(トンネルも含む)を渡らずに東京都を含む他県に行くことは不可能である。

千葉県の北半分は、大半が関東平野で、最も高い愛宕山でも海抜408m、平均海抜は約43mで都道府県の中で一番標高が低い県となっている。ちなみに、10m海面が上昇すると千葉県は本州沖合いに浮かぶ島のひとつになるという試算が国土地理院によって示されている[1]。 実際、数千年前までは、もっと現在より水位が高く、現在の千葉県の多くの低地が海面下で、南部の古東京湾と北部の香取海によって本州と分断されていた。

房総半島の東京湾側は内房(うちぼう)、太平洋側は外房(そとぼう)と呼ばれ、内房では近年埋め立てが進み、浦安市などでは面積が増えた。そのため県の面積が一時愛知県を上回っていたが、中部国際空港の建設に伴い再び愛知県の方が広くなっている。

気候

房総半島南部は太平洋を接し、黒潮海流の影響で気候は温暖で、夏には多くの海水浴場が開設され、冬には避寒地として多くの観光客たちが訪れる。一方、成田、佐倉などの下総台地の内陸地域は冬季の最低気温が零下となる。時には-5度~8度まで下がることもあり千葉県の中では寒さが厳しく、佐倉では1984年には-12.7度まで下がっている。銚子などの北東部沿岸地域は、夏は涼しく冬は暖かい海洋性気候で、ほとんど雪が積もることがない。首都圏が南岸低気圧による大雪に見舞われるときも、千葉県北東部や南部は雨であることが多い。

千葉の気候(気象庁・気象統計情報より)
  下総台地 東葛地域 京葉地域
北東部 南部
佐倉 香取 成田 我孫子 船橋 千葉 横芝光 銚子 市原市
牛久
木更津 茂原 勝浦
君津市
坂畑
鴨川   館山
平均
気温
()
最暖月 25.6
(8月)
25.9
(8月)
26.4
(8月)
25.6
(8月)
24.9
(8月)
25.9
(8月)
26.0
(8月)
25.3
(8月)
24.8
(8月)
25.8
(8月)
26.1
(8月)
最寒月 3.3
(1月)
3.7
(1月)
5.4
(1月)
4.3
(1月)
 6.3
(1月)
4.0
(1月)
4.9
(1月)
 6.4
(1月)
3.4
(1月)
6.0
(1月) 
6.2
(1月)
降水量
(mm)
最多月 200.8
(9月)
207.9
(9月)
189.0
(9月)
188.6
(9月)
226.5
(9月)
237.7
(9月)
217.0
(9月)
249.5
(9月)
257.4
(9月)
217.4
(9月)
222.1
(9月)
最少月 38.8
(12月)
34.1
(12月)
40.0
(12月)
41.0
(12月)
70.3
(12月)
47.7
(12月)
44.7
(12月)
73.0
(12月)
65.0
(12月)
59.0
(12月)
66.6
(12月)

地質

第三紀層および白亜紀堆積層。

地形

平野・丘陵

東京湾沿いは埋立地が多く、浦賀水道の対岸に三浦半島がある。太平洋沿いは九十九里浜が面し、九十九里平野が広がる。半島南部には房総丘陵、半島中央部には上総丘陵上総台地 、半島北部には下総台地があり、これらの台地や丘陵には縄文期侵食によってできた谷底平野谷津田)がみられる。一方で半島の北部から中部にかけて下総台地を囲む形で西に江戸川低地東京湾岸低地、北に利根川下流低地、東に九十九里沖積低地が分布する。

河川

千葉県の川一覧も参照

利根川夷隅川栗山川小櫃川養老川一宮川小糸川南白亀川村田川作田川木戸川塩田川

湖・沼

手賀沼印旛沼大利根用水両総用水成田用水東総用水利根運河利根川河口堰黒部川水門北千葉導水路房総導水路行徳可動堰江戸川水閘門(江戸川水門)

海・海岸

浦賀水道館山湾)、東京湾太平洋鹿島灘

自然公園

国定公園
水郷筑波国定公園南房総国定公園
県立自然公園
県立養老渓谷奥清澄自然公園県立九十九里自然公園県立印旛手賀自然公園県立高宕山自然公園県立嶺岡山系自然公園県立富山自然公園県立大利根自然公園県立笠森鶴舞自然公園

県史

県名の由来

県名の起こりは、廃藩置県後、間もなくに行われたの統合の際に千葉郡千葉町県庁が置かれたため、この地名が採用された。又、千葉地名がいつの頃に発生したのかは定かではないが、律令制以前の国造名(千葉国造)、律令制以来の名(千葉郡)に見られる。千葉地名の由来については、諸説あるが、一説によると「数多くの葉が繁茂する」の意で、(1)実り豊かな豊穣の地を示しているとも(2)たくさんの草木が生い茂る原野だったからとも(3)土地と子孫の繁栄を願っての地名だとも説かれる。なお、日本書紀古事記の両書には、応神天皇大和から近江に向かう途中、山城の宇治野の丘で遠く葛野一帯をのぞんでの国見歌で現れる「千葉の」は数多くの葉の意味で、葛の葉が良く繁栄したことから葛の枕詞として用いられたのだと、契沖以来考えられており、古代人が千葉地名に託した願いを知る上での重要な資料のひとつといわれている。(和歌については、以下を参照)

和歌
千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ
(訳)
千葉の葛野を眺めると、数多くの富み栄える民の家々も見える。国の中でもっとも繁栄したところにも見える

現存の文書中、千葉という地名がもっとも古くにみえるのは、『万葉集』20巻の千葉郡出身の防人大田部足人の詠んだの一首だといわれている。(和歌については、以下を参照)

和歌
千葉の野の 児手柏の 含まれど あやにかなしみ 置きて高来ぬ
(訳)
千葉の児手柏の葉がまだ開ききっていないように、若くあどけない彼女(娘)が何とも痛々しくて、手も触れずに遠くはるばるとやってきた

先史時代

地殻変動により隆起して半島が形成された。上総の山稜地帯はその名残である。

今から約12万年前は、関東平野のほとんどは海面下で、現在の千葉県は房総半島南部の山脈と銚子周辺の高台が小島として水面上に出ていたのみと考えられる。約2万年前のヴュルム氷期になると、海岸線の大幅な後退と周辺山脈の活発な火山活動などに伴い海面は、現在より、80-100mも低くなり、東京湾は盆地(陸地)となっていたとされる。台地から流れ出た水は、最終的に古東京川(現東京湾沖にあった)と呼ばれる大河を形成し、古太平洋へと注いでいたという。富津沖の中ノ瀬は、当時の川中島であり、観音崎から急に水深が深くなっているのは、古東京川の流れがえぐったためではないかと考えられている。

縄文時代がはじまる約1万年前から気温が上昇し、氷河が溶けると海水面は再び上昇し、現在よりも5-10mほど高くなり、関東平野には古東京湾古鬼怒湾(後の香取海)の2つの湾が形成され、島状になっていたとされる。

房総に来た最初の住人は、約3万数千年前の旧石器時代の人々だと言われている。旧石器時代の人々は、ナウマンゾウオオツノシカなどを食料にした狩猟生活が営まれていた。そのため、狩猟に使用するための石器などを使用した道具が進化した。石器は、黒曜石サヌカイトを使用したものが著名で、千葉県最初の旧石器時代の黒曜石は、市川市国府台にある立川ローム層から発見された。千葉県には、石器の原料となる産地が乏しく、甲信地方中央高地神奈川県箱根山伊豆神津島などから運ばれたと考えられている。現在の学術調査から旧石器時代の遺跡は、300数十箇所ほど発見されている。また、印西市(旧・印旛村)では、日本初のナウマンゾウの全身骨格が発見され、成田市(旧・下総町)では、ナウマンゾウの頭骨が発見されている(共に国立科学博物館収蔵)。

縄文から古墳時代まで

 
大賀ハス(古代ハス)

縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。縄文時代の貝塚は日本各地に約2300ヶ所[2]を数え、関東地方には、約1000ヶ所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600ヶ所が密集しており、千葉県の東京湾域、利根川流域の台地には644ヶ所[2]ほどの遺跡が見られる。千葉市にある加曽利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地には、加曽利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の堆積状態を観察することが出来る。また、縄文遺跡の落合遺跡東京大学検見川総合運動場)から発掘されたハスの実は発芽に成功し、大賀ハス(古代ハス)と呼ばれ、世界中に株分けされた。

県内では、成田市の荒海貝塚から縄文から弥生時代へ移り変わるころの籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。農耕社会にはいると、『ムラ』の形態が変化し、これまでの採集経済にかわり、生産経済が展開されていく。この過程の中で環濠集落が出現するが、千葉県では1979年から行われた佐倉市六崎大崎台遺跡の発掘で発見されている。遺跡は台地にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が営まれていたと推測されている。環濠集落は、政治的施設や生産工房を府置した政治的軍事的な「城塞集落」で、佐賀県吉野ヶ里遺跡は、前者の数十倍の規模があり、陸橋門柱柵列物見櫓が見つかっている。また、環濠内には弥生墳丘墓祭祀施設も備わっていたことがわかっている。

弥生時代末期になると六崎大崎台遺跡の環濠は消滅し、ムラの景観が一変する。台地の北に大型住居を伴ったムラがつくられ、南には墳墓を有する大型の方形周溝墓が作られた。こうした変化は、墓がムラの共通空間として認識されるようになったこと示唆している。ムラの首長のあり方が変化し、地方豪族が誕生、社会変動の過程で新たな墓が出現するようになり、古墳時代に至る。

関東では、関西より、百年遅れて2世紀から3世紀頃まで、弥生時代となる。房総の古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流の影響が見られることから俗に「黒潮文化」と呼ばれ、地域の文化や風習(例:漁法建築様式等)などにその影響が見られる。

 
香取神宮

古墳時代房総半島は、「捄国」(古くは捄=麻がよく育ったことに由来、「総」は後世の当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、神代の時代に古代豪族の忌部氏の祖である天富命阿波徳島県)から黒潮にのって渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地が捄国で、忌部(斎部)の一部の居住地には、阿波の名をとって安房としたのが起源だとされる。これら房総三国を一括する語が「吾妻」である。記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。安房国造の任命に際しては、出雲国造紀国造とともに特別の任官方式がとられ、忌部氏の氏神とされる安房大神(安房神社)は、8世紀前半までは、東国では鹿島神につぐ扱いで、香取神を上まわっていたとされる。

また、『常陸国風土記』によれば、阿波忌部氏に続き、多氏神八井耳命の末裔の肥後国造の一族)が上総国に上陸、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として鹿島神宮を建立したとされる。なお、香取神宮もこの際に出雲の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが起源だとされている。因みに平安期から近代にかけて「神宮」の称号で呼ばれていたのは、伊勢神宮鹿島神宮香取神宮の三社のみである。

県内にある古墳時代初期の遺跡としては、市原市の神戸4号墳・5号墳をはじめ、各地で前方後円墳が出現する直前の首長墓が確認されている。また、市原市稲荷台1号古墳から出土した「王賜銘」鉄剣からは房総における大和王権の影響力が見られる。その勢力下にいつ頃入ったのかは明確ではないが、現在の研究では、前方後円墳が盛んに築造されるようになった5世紀の半ばとする考えが通説で、国造制によって県域には、十一の国造がおかれたとされる。

県域は香取海周辺に集中する古墳郡の分布からもわかるように古来より、海上交通を通じて発達し、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、1990年時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されている。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では、74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。

なお、遺跡の多くは、山(標高20m-30m程度の高台)側に多く分布している。これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」と成っていたためで、この影響は、平安から鎌倉期まで続いたとされる。この影響は、日本武尊に関する説話など各地の伝承や伝説などにも見受けられる。

ファイル:Kofun101.JPG
竜角寺古墳群第101号古墳(復元古墳)
 
岩屋古墳

6世紀後半になると畿内では、前方後円墳は、姿を消し、古墳は小型化する。7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、7世紀はじめまで前方後円墳が築造されていた。千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町及び成田市にある龍角寺古墳群(古墳総数は111-124基)がある。遺跡は、印旛沼の東岸(印波国造影響域と推定されている)にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されている。龍角寺古墳群は6世紀に始まったとされ、7世紀末までの二百年間、複数の古墳と寺院が築造されたもので、東国における墳墓(古墳から寺院)形態の変化を知る上でも重要な遺跡として全国的にも著名である。浅間山古墳(竜角寺111号墳)の副葬品は七世紀中葉までにおよび、墳丘長が78mで、全国的に見ても最後の大型前方後円墳のひとつといわれる。この直後に造られたのが岩屋古墳(竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期の方墳としては、日本最大である。

飛鳥から平安時代まで

そして、岩屋古墳の北北西約1kmの場所には龍角寺跡がある。この寺院は、東日本最古(創建は640年代から7世紀の第3四半期頃と推定)の寺院として知られ、現在は重要文化財となっているが、一時国宝となった時期もある。調査によると山田寺式の瓦が葺かれ、三重塔金堂が東西に並んだ法起寺式の伽藍配置だったことがわかっており、同地の有力者が大和王権の豪族と結び仏教を広めようとしたのではないかと考えられている。また、寺院の北西には、龍角寺の瓦を生産した窯跡があり、『加刀利』などの文字が描かれたが出土している。その文字瓦には『朝布』『赤加賀』『玉作』などの文字や絵模様が描かれた1800点程の種類がある。このことは、7世紀代の文字資料が少ないこともあり、旧来の「遅れた東国」というイメージが強かったが、関東での文字の使用が奈良時代以前にさかのぼることを証明する貴重な資料のひとつと言われている。

大化の改新後、珠国[3]畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となり、さらに718年上総国から安房国が分離し三国となった。なお、一時、安房国は再び上総国に編入されたが、757年に再び分裂された。地理的には北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、東海道の正式なルートが相模国から安房国へ渡る舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためで、日本書紀には日本武尊の武勇伝でも上総国に上陸する場面が見られる。日本国内にあった六十八の各国は国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国、下総国とも大国、安房国は中国延喜式には記されている。また、上総国は大国の中でも親王国司を務める3つの親王任国の一つとなっており、平高望良兼菅原孝標がそうであったように国府の実質的長官は上総介が握っていた。

安房・上総・下総の各国には、駅が設置され、駅馬と伝馬が配備されていた。この3国が属した東海道は中路[4]とされた。安房国には駅馬[5]が白浜・川上各5頭が配備、上総国には駅馬が大前・藤潴(ふじぬま)・島穴・天羽の各郡に5頭、伝馬[6]は海上・望陀・周淮・天羽の各郡に5頭、下総国には駅馬が井上10頭、浮嶋・河輪各5頭、茜津・於賦(おう)各10頭、伝馬が葛飾郡10頭、千葉・相馬の各郡5頭が配備されていた。(『延喜式』)

大宝元年(701)には、国には国司が政務をとる国庁と国府が設置された。上総国の国府は市原市、下総の国府は市川市国府台の地に、安房国府は安房郡三芳村府中に置かれた。安房国府の遺構は見つかっていない。郡には郡家が設置された。上総国海上郡家が市原市西野遺跡、下総国埴生郡家が栄町大原遺跡など発見されているが、その他の郡家跡は明確でない。また、田祖・正税を納める倉庫である郡家の正倉は、孫子市日秀西遺跡が下総国相馬郡のものと想定されている。他方、国分寺(金光明四天王寺護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)については、上総は市原市、下総は市川市国分に所在し、安房はまだ不明である。

東国の武士の勇猛さ知れ渡っており、九州筑紫の防衛をする防人東国出身の兵士が、充てられた。その上総・下総国出身の防人の歌が万葉集巻20に出ている。防人は難波津に集結し、海路で筑紫に向かった。難波までは食料自弁であった。筑紫では空き地が与えられ稲や雑穀を栽培し食料とした。

 
平将門

平安時代中期、都では、藤原氏が隆盛に向かう頃、県域では、中央から派遣された国司などの(任期期間が過ぎた)役人が土着し、在地領主や富豪農民などの新興勢力が誕生しはじめる。特に高望王の子孫である桓武平氏系の氏族が勢いをふるったが、平安時代の平将門、ついで平忠常が反乱を起こし、房総三国は、一時「亡国」と言われるほど荒廃した(この時、朱雀天皇によって、平将門の乱平定のため、僧寛朝が派遣され、祈祷をおこなったことが、後の成田山新勝寺の起源となる)。

鎌倉から戦国時代まで

 
猪鼻城址-下総国
 
本佐倉城址-下総国
 
大多喜城址-上総国
 
館山城址-安房国

この荒廃の中で台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫の千葉氏上総氏も含む)である。千葉氏は下総国千葉荘を本拠とした豪族で、坂東八平氏関東八屋形の一つに数えられる名門氏族として総州で栄えたといわれている。千葉氏系の氏族としては、相馬氏武石氏大須賀氏国分氏東氏葛西氏椎名氏臼井氏原氏遠藤氏円城寺氏高城氏などの諸流がよく知られている。このうち、相馬氏と遠藤氏、高城氏は明治維新まで存続する。

しかし、千葉氏も平安期までは、俗に言う私営田領主(地方領主)で、国司が交代するたびに荘園の認定を得なければならなかった。そのため、平氏政権の影響が地方にも及ぶ頃には、下総国司だった藤原親通によって官物未進(租税滞納)を理由に相馬御厨立花荘(東荘)が没収されるなど困難な状況に追い込まれていた。千葉氏は、これらの荘園の回復のため、長期間奔走するが、懸命の努力にもかかわらず、源義朝を経て、藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張し介入してきた常陸佐竹義宗に奪われるなど平家方の親通が土着する過程で、被害を受ける在地領主の一人にしか過ぎなかった。そのような困難な状況を打開する転機となったのが平安時代末期の鎌倉幕府創設への貢献だった。

1180年石橋山の戦いに破れ、安房国へと落ち延びた源頼朝を、千葉氏をはじめとする総州の諸侯(安西氏和田氏葛西氏など)が支援がしたことによって、わずか1ヶ月で関東武士の恭順と結束を固め、鎌倉幕府を築くための原動力となったことは著名である。この功績によって千葉氏当主だった千葉常胤は、鎌倉幕府の重臣となり、鎌倉時代から室町時代にかけて、総州の支配者としての確固たる地位を築くと共に、奥羽(後の奥州千葉氏)・九州(後の九州千葉氏)にも所領が与えられ、一族の一部が移住、勢力が拡大する。

一方の上総氏は、頼朝の政権獲得の過程で、当主広常が謀殺され、領地も没収されてしまったため、以後の歴史書系図で不当に扱われてきたという経緯がある。

鎌倉時代前期には、千葉氏(上総の千葉常秀を除き)は、畠山氏三浦氏のように北条氏とは争わず、千葉常胤の嫡男太郎胤正が千葉宗家(千葉介家)、次郎師常下総国相馬郡、三男胤盛武石郷、四郎胤信が大須賀保、五郎胤通国分郷、六郎胤頼東庄を本拠とし、世に千葉六党と称され最盛期を迎える。鎌倉時代中期の蒙古来襲の際には、千葉氏も九州に所領を持っていたことから当主の頼胤宗胤がそれぞれ、文永の役弘安の役に参加している。

しかし、同時期から千葉介の継承をめぐり、千田胤貞千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり、1333年に鎌倉幕府を打倒すると対立は表面化、それぞれ、足利尊氏新田義貞双方に属し、1336年に胤貞が没するまで争いが繰り広げられた。また、1365年の氏胤没前後からは、貞治・応安の総論の展開による下総での国内問題や千葉家の筆頭家老の座を巡る原氏円城寺氏の争いなど、千葉宗家千葉六党家臣(同族)間の対立や内紛が後も絶えずに起こる。

さらに室町時代になると関東では、鎌倉公方室町幕府との対立が激化、関東管領上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった争いが相次ぎ、長い戦乱が続いた。現在の県域も巻き込まれ、荒廃した。この一連の戦いは、関東管領・鎌倉公方(古河公方)をはじめ、関東の諸氏の勢力が衰えさせた。千葉氏も例外ではなく、1455年享徳の乱の際には、一族の重鎮である馬加康胤を擁した重臣原胤房によって千葉宗家が滅ぼされるなど、戦国時代には大きく勢力が衰退していた。この状況に乗じ、戦国時代になると小田原北条氏が関東各地を次々と支配下に置き台頭してきた。千葉氏は、北条氏に従属し、安房を本拠とする里見氏詳細は国府台合戦を参照)や上杉氏詳細は北条征伐を参照)との争いに巻き込まれていく。

上総国では、上総武田氏が台頭、古河公方の分家筋である足利義明小弓公方として擁立し勢力の拡大を目指した。

安房国では、1440年結城合戦に破れ、安房に上陸した里見義実が領主だった安西氏を追放し台頭する。里見氏は、戦国時代になると北条氏と房総の覇権を争うことになる。(里見氏の結城合戦後の詳細は不明で諸説有)

安土桃山から江戸時代まで

 
佐倉城藩城址(現佐倉城址公園・国立歴史民俗博物館
 
鴻の台とね川風景
 
徳川家康
 
成田山新勝寺
 
東京湾での漁業の図

1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉小田原の役で北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、小田原の役の際の軍事行動が私的な戦闘行為とみなされて安房一国に削減された。

北条氏滅亡後に徳川家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五カ国から下総・上総を含む関八州に移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。上総・下総には、常陸佐竹氏と安房里見氏を警戒して、本多忠勝をはじめとする徳川家の譜代家臣団が配置されるも里見家は存続し、引き続き安房を領有する。だが、江戸時代はじめに起きた大久保長安事件の余波を受けて改易、その後断絶することになる。

江戸幕府が開かれると、徳川家康鷹狩りなどのため船橋御茶屋東金などに御殿を建造し、御成街道も整備された。江戸に近いことから大きな大名家は置かれず、小大名領と旗本領・天領に細かく分割された。房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦老中としてアメリカとの交渉役をつとめた。また、下総関宿藩も著名である。この藩は佐倉藩に次ぐ規模で、幕末には、藩主の久世広周が同じく老中を務め、公武合体政策などを推し進めた。ちなみに下総国には、他に小栗原藩高岡藩小見川藩多古藩生実藩が、上総国には鶴牧藩請西藩飯野藩一宮藩佐貫藩久留里藩大多喜藩が、安房国には勝山藩船形藩館山藩がそれぞれ置かれた。また、明治維新徳川家達静岡藩移封に伴い、静岡藩に編入された駿河遠江両国にあった藩が代替地として与えられたこの地に移封して成立した藩があり、廃藩置県まで続いていく。

 
八代目市川團十郎/菊次郎(歌川国芳)

江戸前期には、房総最大の百姓一揆が佐倉藩で起こったが、この時に一揆の指導にあたった佐倉惣五郎は、重税に苦しむ百姓を救おうとした『伝説的義民』として、芝居歌舞伎の演目に描かれ、庶民の尊敬を集めた。しかし、小規模な領主が多かったこの地域では例外を除き、殆どの地域の場合、このような大きな一揆がおきるのは稀で、多くの場合、税率も平均的な天領並か少し高いくらいで恵まれた地域であった。

江戸時代を通じて県域各地は、幕政改革の影響を強く受け、印旛沼治水工事や椿海干拓などの大規模な土木事業や新田開発が盛んに行われた。また、風土や立地に恵められていたことから薬草農産物などの栽培所が設置され、試験栽培などが行われた。有名な話としては、飢饉[7]対策のため、サツマイモ栽培を関東で広めるために、下総国の幕張村(現千葉市花見川区)、上総国の九十九里浜の不動堂村(現九十九里町)において試験栽培が実施され、1735年関東地方でも栽培が可能であることを確認。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけをつくったことは有名である。なお、下総薬園台(現船橋市)では、朝鮮人参黄蓮の栽培も試みられている。

また、房総は江戸に近く、軍馬の養成に適した平地が多かったことから旧官牧地を利用した3つの幕府直轄牧(小金牧佐倉牧嶺岡牧)が設置されていた。その牧の風景や様子は、旅人には珍しかったようで、房総名所江戸名所の一つに数えられ、松尾芭蕉小林一茶歌川広重などの作品や紀行文にも登場する。なお、嶺岡牧では、徳川吉宗時代にインド産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪(バター)などが日本ではじめて生産[8]された。

江戸時代中期になると江戸で人気を馳せた歌舞伎役者市川團十郎成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居が打ったことなどから成田参詣と呼ばれる個人参詣運動が盛んになり、江戸から成田を結ぶ佐倉街道は人々で賑わい、街道や水運なども整備され、宿場町間の宿が形成された。

下総国武蔵国との境界の変化
近世初期(1683年(貞享3年)、また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)、下総国葛飾郡の一部、すなわち隅田川から利根川までの地域(現在の墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区等)[9]を武蔵国に編入、境界を改め武蔵国葛飾郡とした。

明治から第二次大戦まで

 
明治天皇行幸之図
 
陸軍工兵学校正門 (現・松戸中央公園正門)
 
鉄道連隊
 
宮内庁下総御料牧場跡(現・三里塚記念公園)
 
大正時代の中山競馬場

慶応4年(1868)4月江戸城無血開城に伴い県域では、下総西部から下野地方の一帯では、3月から4月にかけて、結城城の争奪戦が行われ、4月には旧幕府歩兵奉行大鳥圭介の部隊2000人が市川・結城・宇都宮、さらに会津へと転戦していった。一方、上総西部に旧幕府撒兵隊が徳川義軍府と称して入り込み、周辺各地から物資や武器、兵員を徴発し、4月下旬には下総西部まで進軍した。海上では旧幕府海軍副総裁榎本武揚が軍艦7隻を率いて館山湾に入り一部は上陸した。しかし市川・船橋戦争と呼ばれる戦闘が生じたのみで戊辰戦争に巻き込まれずに明治を迎える。

1868年明治元年)9月、明治と改元される。すでに政体書によって決まっていた府藩県三治の地方制度は、6月頃から関東地方で実施され始めた。幕末期の房総地方には、17藩が所在し、その間転封が命じられ、1868年明治元年)末には23藩の多数にのぼり、1871年明治4年)7月の廃藩置県が実施されると26県という多数の県が並立することとなった。しかし、同年11月の全国的な県の廃合で新治県木更津県印旛県の3県に統合された。ついで、1873年6月15日、印旛県と木更津県の合併により千葉県が誕生、県庁が千葉町(千葉市街地)に開設された。千葉県権令は柴原和が就任した。1875年5月7日に新治県の茨城県編入に伴い、千葉県であった結城郡猿島郡岡田郡豊田郡4郡と葛飾・相馬両郡の一部を茨城県に譲渡して、香取郡匝瑳郡海上郡を旧新治県から編入した。更に1899年4月1日に香取郡の利根川以北が茨城県に編入されている。これにより、現在の県域がほぼ確定した。

明治初年の1869年には、明治政府によって、東京在住の旧士族出身者をはじめとする失業者の救済のために旧幕府牧の開墾事業が計画され、初富二和三咲豊四季五香六実七栄八街九美上十倉十余一十余二十余三などの村が新しく作られた。

また、東京に近かったことから、1873年明治6年)に明治天皇が習志野原へ御幸以来、首都防衛を名目に習志野をはじめ、千葉市川松戸佐倉四街道茂原木更津富津館山のような多くの軍事拠点(軍郷)が造られた。太平洋戦争の際には、風船爆弾によるアメリカ本土空襲の為の前線基地も置かれた。なお、や各市町村もこのような軍事拠点を造ることが、重要な産業基盤につながると捉え、競って誘致を推進した。その中でも千葉市には、千葉連隊区司令官をはじめ、多くの軍学校や軍営施設が造られたことから軍都千葉と呼ばれた。

近代になると官主導のもと近代産業の育成が行われたが、千葉県では地下資源に恵まれなかったことから、近代工業が育たず、開発から大きく取り残される形となった。だが、江戸時代以降の醤油・みりんといった醸造業は近代に入っても発展を続け、1928年には戦前の労働争議でも最大規模の野田醤油労働争議が発生した。他の発達産業としては、従来の農業・水産・林業に加え、銚子の缶詰産業や旧幕府牧馬跡などを利用した酪農が有名である。1875年に旧佐倉牧の跡地(現・成田市)に下総牧羊場(後の宮内庁下総御料牧場)が設置されると、酪農に関する研究も盛んに行われ、県の主要産業の一つとなった。しかし、御料牧場は、1969年新東京国際空港の建設計画に伴い、栃木県高根沢町に移転することになる。

1904年に勃発した日露戦争では、習志野騎兵連隊の活躍は有名で、沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使して活躍、秋山好古少将と共に千葉県の知名度を高めた。また、映画「戦場に架ける橋」のモデルとなった鉄道連隊もよく知られており、県内では現在の東武野田線久留里線小湊鉄道などのインフラ整備に貢献している。

 
鈴木貫太郎(第42代内閣総理大臣)

大正・昭和初期にかけて鉄道をはじめとする交通機関が発達すると東京湾沿線沿いや銚子一宮などの九十九里浜沿岸、南房総には、避暑地観光地が整備された。また、谷津遊園中山競馬場などの娯楽施設が造られ、観光産業[10]が盛んとなった。

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まると千葉県も重要な食料生産拠点として、食糧増産が各地でおこなわれ、肥料の不足や徴兵による人手不足の中で、厳しい供出割当が組まれた。大戦末期になると航空機燃料のための松根油の生産も北総地域を中心に盛んに行われた。一方、工業方面では、東京に近い市川市船橋市津田沼町千葉市にかけて軍需工場が次々と移転、地域の中小企業も合併が進められ、その多くは、陸海軍関係の下請け工場として再編成された。1942年には、東京湾の埋め立工事が進められ、日立航空機千葉工場が建設された。さらに大戦末期には、大網・茂原・興津・鴨川などに大規模な地下工場も造られ、千葉県の工業化比率は大きく進んだ。新たに東京大学第二工学部(現在の東京大学生産技術研究所千葉実験所)が千葉市に新設されると造兵研究の拠点ともなった。

1944年(昭和19年)、サイパン島グアム島テニアンが占領され、日本本土への空襲が本格化すると、房総半島B-29爆撃機の進入ルートとなり、現在の成田市から習志野市の上空では激しい航空戦がおこなわれるようになった。しかし、県内の被害は軽微で、空母硫黄島から飛来した航空機(F6FヘルキャットF4UコルセアP51ムスタングなど)が軍関係施設や港湾施設、工場や学校集落に対して機銃掃射を加えたり、爆撃隊が帰還途中に不要爆弾破棄のため、投下するようなことはあったが、千葉空襲銚子空襲以外に本格的な空襲が実施されることはなかった。

大戦末期になると本土決戦の可能性が高まり、連合国軍の上陸の可能性が最も高い場所として、日本軍と連合国軍両者[11]。とも同じく九十九里浜を挙げており、日本軍及び大政翼賛会は住民志願者を募り、国民義勇軍防衛隊を組織、竹槍による軍事教練や陣地構築が実施されたが、日本の降伏により県内では地上戦は行われずに終戦を迎えた。ちなみに、この時、東条英機首相にかわり、下総関宿藩士出身の鈴木貫太郎海軍大将が内閣を組織、終戦工作に奔走し、終戦内閣と呼ばれた。

大戦後から現在まで

1945年9月3日敗戦に伴い、米軍が富津・館山に上陸県内各地に展開し、武装解除と日本軍施設及び一部の公共施設が進駐軍に接収された。同年十月に千葉市に進駐、千葉県庁本館二階に占領政策のため本部が設置された。翌年の1946年7月には千葉軍政部に改称、1949年11月まで、GHQの軍政下におかれる。また、県内各地の特攻隊基地(震洋桜花回天海竜蛟竜S特攻部隊等)や館山海軍砲術学校陸軍習志野学校をはじめとする旧日本軍関係施設が進駐軍によって調査される。 ※日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。

県内各地で、食糧難から買出し者が集まり、闇市が自然に発生する。戦中から戦後にかけて東京方面などから多数の空襲被災者が千葉県(主に葛飾地域)に流入し、浮浪者が増加、都市部を中心に治安が一時、悪化する。また、住居不足が深刻化し、被災者用の住居建設や開拓農地開発営団 習志野事業部による習志野開拓下志津開墾などの救済事業が実施される。

 
成田国際空港
 
幕張新都心
 
東京湾アクアライン

1950年以降、東京湾沿岸の埋め立てをはじめ、県内各地での開発本格化する。東京湾沿いには、京葉工業地域が建設され、重化学工業が発展する。首都近郊県の責務からベッドタウンの開発が進み、いわゆる『千葉都民』が急増する。県内の主なニュータウンとしては、海浜ニュータウン成田ニュータウン千葉ニュータウンなどがある(千葉県のニュータウン一覧)。また、東京に近い好立地を活かして、湾岸沿いを中心に谷津遊園(1925-1982)、船橋ヘルスセンター(1955-1977)、マザー牧場(1960-)、東京ディズニーランド(1983-)などの大規模レジャー施設が数多く誕生した。

1978年には新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港、1989年には幕張メッセがオープン。周辺地域は大きな発展を遂げた。しかし、その反面戦前まであった房総らしい風景情緒など観光資源の数多くが失われてしまったという意見も若干ながらあり、『三番瀬埋め立て問題』が発生し、堂本暁子知事の時に臨海部の埋め立てが中止された。また、千葉県では、成田空港の存在と東京近郊の立地を生かし、『観光立県ちば推進ビジョン』を作成し、『花と海』をテーマにイメージアップを図ろうしているが、インパクトが無いという意見も依然存在する。 1997年には、東京湾アクアライン木更津-川崎間)が開通、半島の流動性が高まり、今後の発展のための布石となるかどうか注目されている。

経済発展の一方で、日本各地において、公害が発生し、社会的に大きな問題となった。千葉県も例外ではなく、1950年代以降の急激な開発による人口増加と未熟な行政政策[12]環境技術の未発達のため、生活排水工業排水農薬などが、県内各地の河川[13]などに流入、東京湾などでは、水質汚染が一時、深刻な問題となり、海洋資源にダメージを与えた。また、工場による工業用水の地下水を過剰汲み上げした事による地盤沈下が深刻化し、船橋市では昭和49年に「地盤沈下非常事態宣言」を発令する。マイカーブームによる排気ガスの増加や、工場などから排出される煙などによる、光化学スモッグゴミ焼却によるダイオキシン問題等の大気汚染などの環境問題も深刻化した。近年においては、印旛地域などを中心に産業廃棄物感染性医療廃棄物硫酸ピッチなどが田んぼや山林に埋められるなどの、不法投棄も問題になっている。このため、千葉県では、環境系のNPO市民団体を積極的に支援したり、平成20年に千葉県環境基本計画を制定するなど環境方面に力を入れる傾向が見られる。

また、県民の生活にも大きく影響を与えており、開発の中では、強いニーズ(東京近郊都市の住宅供給の義務・大規模工場や企業の誘致に伴う臨海部の埋め立て・飛行場開発・ゴルフ場開発など)や不動産高騰などによる、有効的な土地利用のあり方など、土地所有者・デベロッパー・行政などの意見や思惑の違いから不信感が生まれ、禍根を残す事も多く、県内で代表的な事例を挙げると成田国際空港建設による「三里塚闘争」などが挙げられる。近年では、周辺住民の意見も無視出来ず、市川などの都市部では日照権景観防災上の理由からマンション建設反対運動もいくつか起きている。

成長期の段階的な一斉開発・入植によって住民構成が、積層化されてしまい、人口に偏りが生じ、常盤平団地などに代表されるように地区において集団高齢化が進んだり、浦安市のように今後、少子高齢化のため、極端に小学校などの教育施設が余剰する一方で、福祉施設が不足するなどのケースもある。ちなみに最近の八千代市などのように東葉高速鉄道沿線の開通に伴い急速な都市開発が行われ発展期を迎えている地域も存在し、逆に教育施設の不足が問題となっているが、今後、先に述べた松戸や浦安のようになる可能性が指摘されている。

その他に、あまり表面上では見えないが、政令指定都市をはじめとした開発が盛んに行われた都市の郊外では、入植時期や入植経緯の異なる住民が同じ地域に同居する形となり、町内活動が活発でない地域や住民の家庭構成によっては、コミュニティが希薄化するなど、住民の意識間にズレや溝がある場合もある。以上のような現象は、地方分権の体制が比較的維持されていた戦前の千葉県には、あまり見られなかった社会形態である。(但し、このような状況は、一部の人口密集圏周辺に共通する。)

地域ごとの問題も数多くあり、具体例としては、浦安市市川市船橋市鎌ケ谷市[14]などの東葛地区でよく話題となる道路問題が挙げられる。

これは、

  • 高度成長期の急激な民間開発の速度と行政側の道路整備能力の違い・当時の法政上の理由から、中規模開発の規制が困難で、狭い農道をそのまま、舗装した道が多くつくられたこと。
  • ハウスメーカーなどによる住宅地のブロック開発(旗竿敷地の開発)に伴い、行き止まりの道が多くあること。
  • 鉄道踏切箇所が多いこと。(特に踏切の影響については、北総地域でも沿岸部の鉄道が比較的に発達している地区で目立つ)
  • 古い集落(敷地割)の存在と古くからの歩車共存の概念の影響をうけたこと。
  • 都会田舎の混在に伴う車の保有率の高さ。(郊外型のショッピングセンターの存在など都市部に住んでいても車の必要性が高いこと)[15]

などに起因し、生じた問題であり、開発が殆ど終わった今日では、道路の拡張や都市計画道路の整備を進めようにも計画上の地点には既に建物があり、用地買収も困難なのが実情である。このため、緊急車両の通過が困難だったり、交通事故の危険性が高く、府県別事故率ランクでは、上位5位以内に入る。ちなみに交通渋滞が名物化している。また、これらの地域では、下水道整備などのライフラインの整備の遅延や住宅の密集化による防災上の問題もあわせて発生している場合が多い。(ただし、このような状況は、一部の人口密集圏周辺に共通する。)

ほかにも、地方の過疎化(印旛及び房総半島周辺)や都市部(東京湾沿いの臨海地域周辺)の高齢者増加に伴う福祉の問題、など今後、解決しなければいけない課題が山積であるが、これに加え、財政難も重なり、千葉県をはじめとする県内の各市町村では、解決策の糸口を『まちづくり』・『市民協働』という言葉に求める傾向がある。(ただし、このような傾向は、全国的に共通である。)

だが、新たに開拓された天然ガスなどの天然資源や近年、注目されているバイオ燃料の生産のための研究も行われるなど、新たなエネルギー産業の育成も試みられている。また、市民ベースだが、エコツアーアグリツーリズム、使用されなくなった農耕地を利用した市民農園クラインガルテンを設置など、地域風土(自然環境や農業・漁業等の地場産業)を活かした新たな体験型観光ビジネスモデルに関しての模索も行われている。そのほかにも従来の近郊農業に加え、農産物酪農林業などの分野に関する研究も行われており、新たなブランド品種の開発も試みられている。

年表

明治時代

大正時代

  • 1912年(大正元年):千葉県営鉄道大多喜線、大原-大多喜間開業(1927年廃線)。千葉県営鉄道久留里線、木更津-久留里間開業。陸軍歩兵学校が作草部(現・千葉市稲毛区作草部、天台)に設置される。
  • 1913年(大正2年):銚子遊覧鉄道の銚子-犬吠間が開業。1917年廃線。気球連隊が作草部町に移設される。
  • 1914年(大正3年):京成電気軌道(現・京成電鉄)の江戸川-市川新田(現・市川真間駅)間が開業。1926年、成田花咲町(仮駅)まで延伸。陸軍鉄道連隊の演習用路線を借用し、千葉県営鉄道八街線の三里塚-八街間が開業。1940年、廃線。
  • 1916年(大正5年):陸軍騎兵学校が薬園台に移設される。奈良原三次によって稲毛海岸に日本初の民間飛行場が開設される。
  • 1918年(大正7年):安房郡勝山村(現・安房郡鋸南町)など、県内数カ所で米騒動が起きる。陸軍鉄道連隊が2個隊になり第二連隊は津田沼に駐屯する。千葉県津田沼海岸に伊藤飛行機研究所が設立される。
  • 1920年(大正9年):第1回国勢調査が行われる。(人口133万6155人)成田鉄道が国有化される。
  • 1921年(大正10年):千葉市が千葉県で最初に市制施行する。この時点で、市でなかった県庁所在地はわずかに浦和、山口、宮崎、那覇だけであった。
  • 1923年(大正12年):野田醤油第一次争議が発生する。関東大震災により、県内各所において甚大な被害を受ける。銚子鉄道(現・銚子電鉄)銚子-外川間が開業。九十九里軌道(現・九十九里鉄道東金-片貝間が開業。1961年、廃線。
  • 1924年(大正13年):銚子漁港が建設を開始する。
  • 1925年(大正14年):小湊鐵道五井駅-里見駅間が開通する。
  • 1926年(大正15年):流山軽便鉄道(現・流鉄)馬橋-流山間が開業。

昭和時代

第二次大戦後

地域

 

県下には、36市7郡17町1村がある。自治体における町は「ちょう」ではなくすべて「まち」と読む。

地域区分

県庁の地域区分

県庁による地域区分には、4地域の分類と、県庁および県民センターの所管区域による6区分とがある。4地域区分、南地域は南房総県民センターの所管区域と同等であるが、西地域と東地域と中央地域は再編されて県庁直轄と3つの県民センター所管区域に分割されている。県の総人口は6,276,574人。人口は、2025年9月1日現在の推計人口である。

4地域区分


県庁・県民センターの所管区域
千葉・市原 1,248,308人
千葉市、市原市
葛南 1,708,217人
市川市、船橋市、習志野市、八千代市、浦安市
東葛飾 1,545,441人
松戸市、野田市、柏市、流山市、我孫子市、鎌ケ谷市
北総 717,298人
佐倉市、四街道市、白井市、印西市、成田市、八街市、富里市、印旛郡
なお、千葉ニュータウンが業務核都市に指定されている。
香取 96,694人
香取市、香取郡
海匝 144,695人
銚子市、旭市、匝瑳市
東上総 136,960人
茂原市、長生郡
山武 構文エラー: 予期しない演算子 < です。
東金市、山武市、山武郡
夷隅 61,805人
勝浦市、いすみ市、夷隅郡
南房総 318,581人
木更津市、君津市、富津市、袖ヶ浦市
安房 110,150人
館山市、鴨川市、南房総市、安房郡

県・市町村の変遷

明治以降
昭和以降
平成以降


・現在

  • 現在は36市17町1村。うち千葉市に6区。

県民

千葉県(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 3,366,624人
1975年(昭和50年) 4,149,147人
1980年(昭和55年) 4,735,424人
1985年(昭和60年) 5,148,163人
1990年(平成2年) 5,555,429人
1995年(平成7年) 5,797,782人
2000年(平成12年) 5,926,285人
2005年(平成17年) 6,056,462人
2010年(平成22年) 6,216,289人
2015年(平成27年) 6,222,666人
2020年(令和2年) 6,284,480人
総務省統計局 国勢調査より

住民構成

千葉県を都市部農村部に分けることがあるが、市部と郡部の区別とは違い、この場合は新住民が多数を占める地域を都市部、旧住民が多数を占める地域を農村部と呼ぶ。都市部は北西部、農村部は北東部と南部の範囲とほぼ一致する。性格は、新住民と旧住民との間では異なっている。

北部・北西部
県央地域、葛南地域、東葛飾、印旛地域を指す。東京都区部に近いため、宅地化が進んでいる。東京湾沿岸側の埋立地には、京葉工業地域千葉港などのがあり、東京ディズニーリゾートららぽーとTOKYO-BAY幕張新都心などを中心に、新たな街造りが展開されている。いわゆる「千葉都民」の多い地域で、中でも浦安市は、住民の平均年齢が最も低い市である。
内陸部側も同じく内陸工業団地の造成や宅地化が進み千葉ニュータウン成田ニュータウンなどの大規模ニュータウンが造成されている。また年間約3100万人が利用する成田国際空港が位置し国際交通の足場となっている。内陸部側は、北総又は印旛と呼ばれている(ただし「北総」には東京湾岸や東総地域など旧下総国地域全体を指す場合もある)。
狭義では、千葉市周辺を除いて、旧東葛飾郡現在の船橋や我孫子など)の範囲を指す事もある。東葛は千葉市との繋がりが浅く、全国紙の地方版も、千葉市周辺版東葛版に分けられている。
スポーツ界では、特に東葛は「サッカー王国」として有名である。アマ界を見ても、高校サッカーにおける激戦区の一つであり、船橋市立船橋高等学校習志野市立習志野高等学校などが全国制覇を複数回成し遂げているほか、強豪校が私立・公立ともに多い。
北東部
主に香取地域、海匝地域と東上総地域の一部の事を指す。概ね国道51号国道126号の沿線。香取神宮などの有名な神社仏閣が鎮座する。
鹿行鹿嶋市などの茨城県南東部)との交流関係が深いため、「ちばらき」と諷刺される事もある。かつては利根川の運河交通の要衝として栄えた佐原(香取市街地)などがある。香取市から鹿嶋市に至る利根川沿いから形成される「水郷」と呼ばれる観光地を抱える。東端には漁業と醤油産地として有名な銚子市があり、周辺は比較的温暖な気候の為、畑などでは、メロン、キャベツ、植木などが栽培されている。太平洋岸を南に向かって美しい海岸線の九十九里浜が走る。
成田空港以東の下総台地を構成する地域は、東総と呼ばれており、「香取干潟八万石」といわれる所で、水田地帯が広がる。
スポーツ界では、この地域出身のプロ野球選手が多く、千葉県立銚子商業高等学校銚子市立銚子高等学校横芝敬愛高等学校卒業生が目立つ。
南部
南房総(房総半島南部)は特に温暖な気候であり、県花である菜の花ポピーの栽培が行われている。漁業も盛んで、勝浦漁港は国内有数のの水揚げ港である。房総丘陵を構成する地域の半島南部は南総と呼ばれている。

人口

県内市町村人口。人口は2025年9月1日現在、世帯数は2010年3月1日現在[16]

市町村 総数(人) 世帯数(世帯) 特筆事項
1 千葉市 987,234 402,402 政令指定都市(1992年4月1日)
2 銚子市 52,334 26,527
3 市川市 502,309 218,098
4 船橋市 650,959 257,727 中核市(2003年4月1日)
5 館山市 42,267 20,431
6 木更津市 136,805 48,447
7 松戸市 500,866 210,447
8 野田市 151,576 57,250
9 茂原市 83,761 35,484
10 成田市 134,294 52,310
11 佐倉市 163,612 65,608
12 東金市 56,556 23,585
13 旭市 60,175 23,343
14 習志野市 176,060 67,996
15 柏市 437,811 158,131 中核市(2008年4月1日)
16 勝浦市 14,942 8,695
17 市原市 261,074 111,587
18 流山市 214,704 64,614
19 八千代市 205,909 72,919
20 我孫子市 130,487 53,529
21 鴨川市 29,577 14,320
22 鎌ケ谷市 109,997 41,518
23 君津市 78,001 33,905
24 富津市 38,762 17,357
25 浦安市 172,980 72,254
26 四街道市 94,901 32,710
27 袖ケ浦市 65,013 22,228
28 八街市 65,292 26,596
29 印西市 109,227 29,542
30 白井市 61,041 21,220
31 富里市 49,526 20,037
32 南房総市 32,214 15,935
33 匝瑳市 32,186 13,225
34 香取市 66,696 27,344
35 山武市 45,405 19,571
36 いすみ市 32,602 15,056
37 酒々井町 20,129 8,572
38 栄町 19,276 8,120
39 神崎町 5,495 2,212
40 多古町 12,529 5,313
41 東庄町 11,974 4,644
42 大網白里町 エラー 18,193
43 九十九里町 12,995 6,483
44 芝山町 6,464 2,510
45 横芝光町 20,603 8,124
46 一宮町 11,887 4,467
47 睦沢町 6,286 2,449
48 長生村 12,922 4,995
49 白子町 9,621 4,345
50 長柄町 6,081 2,676
51 長南町 6,402 2,908
52 大多喜町 7,916 3,651
53 御宿町 6,345 3,184
54 鋸南町 6,092 3,513

交通

鉄道

道路

  • 有料道路
  • 国道

空港

フェリー

言語

伝統的な方言(千葉弁)として、東総弁が東部で、房州弁が南部で話されているものの、高齢者では比較的保たれている一方、若年層では衰退する傾向にある。他県からの移住者が多い北西部や都市部では、主に首都圏方言が話されている。

県政

県政史

知事

会派構成

(2010年1月27日現在)

会派名 人数
自由民主党千葉県議会議員会 55
民主党千葉県議会議員会 20
公明党千葉県議会議員団 7
日本共産党千葉県議会議員団 4
市民ネット・社民・無所属 4
無所属 1
欠員 4

選挙区

選挙区名 定数 選挙区名 定数 選挙区名 定数 選挙区名 定数
東葛飾郡 1 千葉市若葉区 2 成田市 2 鴨川市 1
印旛郡 1 千葉市緑区 1 佐倉市 3 鎌ケ谷市 2
長生郡 2 千葉市美浜区 2 東金市 1 君津市 2
山武郡 3 銚子市 2 八日市場市 1 富津市 1
香取郡 3 市川市 6 旭市 1 浦安市 2
海上郡 1 船橋市 7 習志野市 2 四街道市 1
匝瑳郡 1 館山市 1 柏市 4 袖ケ浦市 1
夷隅郡 2 木更津市 2 勝浦市 1 八街市 1
安房郡 2 松戸市 7 市原市 4 印西市 1
千葉市中央区 3 野田市 2 流山市 2 白井市 1
千葉市花見川区 3 佐原市 1 八千代市 2 富里市 1
千葉市稲毛区 2 茂原市 2 我孫子市 2

財政

平成19年度

  • 財政力指数 0.76
    • Iグループ(財政力指数0.5以上)17自治体中3位

平成18年度

  • 財政力指数 0.70
    • Iグループ(財政力指数0.5以上)16自治体中4位
  • 一般会計歳出 1兆4256億円

平成17年度

  • 財政力指数 0.65
    • Iグループ(財政力指数0.5以上)10自治体中4位

平成16年度

  • 財政力指数 0.63
    • Iグループ(財政力指数0.5以上)8自治体中5位

[17]


  • 県章
    • 県章は、カタカナの(チ)と(ハ)を図案化したもの。(1909年12月28日制定)
  • 県旗
    • 県旗は、中央に県章を配し、地は希望と発展を表す空色、マークは菜の花の薄黄色で縁取ったもの。(1963年7月29日制定)
  • 県の歌
  • 県の花
    • 県の花は「なのはな」。1954年4月にNHKが一般に公募した。正式には決められてはいない。
  • 県の体操
    • 県の体操はなのはな体操と定められており、高齢者向けや児童向けがある。
  • 県のロゴ[18]
    • ひらがなの「ちば」を元にデザインしたロゴ。「縦書き」「横書き」があり、それぞれに「白地に色文字」「色地に白抜き文字」がある。また、ひらがなにローマ字(CHIBA)併記のものもある。2006年11月2日公表。

施設

県立文化会館

  • 千葉県文化会館(千葉市)
  • 千葉県東総文化会館 (旭市)
  • 千葉県南総文化ホール(館山市)
  • 青葉の森公園芸術文化ホール (千葉市)

県立図書館

県立博物館

※2004年4月1日から県立博物館・美術館の利用料金が有料になった。

県立美術館

スポーツ施設

  • 千葉県立総合スポーツセンター(千葉市)
  • 千葉県立東総運動場(旭市)
  • 千葉県立国際総合水泳場(習志野市)

県立公園

県民の森

千葉県インターネット放送局

「千葉県インターネット放送局」は千葉県が運営するインターネットテレビ放送である。知事定例記者会見、ウィークリー千葉県、県立病院紹介など7系統のチャネルを用意して県政の広報に務めている[19]

産業

産業史

農業

  • 東京都区部に近い場所として近郊農業が盛んで、農業産出額(2002年)は全国第二位。品目別産出額(2001年度)では大根里薯、さらに生産出荷量(2002年)が全国第一位。なお、二十世紀なし1888年松戸市のゴミ捨て場から発見された木が発祥とされている。南房総では暖かい気候を利用した花の栽培が盛んで、花の産出額(2001年度)は全国第二位。
  • 特産品としては落花生が全国的に有名である。千葉県の落花生栽培の先駆者として有名な金谷総蔵は、開墾したばかりの痩せた土地にも良く育つ作物を探していたところ、1878年県令から勧められ落花生の栽培を始める。その後栽培地域は干潟地方(匝瑳郡と海上郡にまたがる地域)から山武郡、香取郡、印旛郡など北総一帯へ瞬く間に広がり、千葉県を代表する作物となった。金谷総蔵の死後、その功績が認められ1906年農商務大臣、1968年農林大臣より表彰される。また、旭市鎌数の伊勢大神宮に「落花生の碑」が建てられている。ちなみに千葉県で最初に落花生が栽培されたのは、1876年の牧野万右衛門が最初といわれている。
  • 日本の酪農発祥の地とされる。徳川吉宗により、1728年にインド産といわれる白牛(はくぎゅう)が輸入され、現在の南房総市(旧丸山町)で乳製品作りが始まったのが起源とされている。生乳生産量では全国第三位(2000年)。

県内の農産物一覧

穀物・野菜類
果物類
畜産物類(全国第6位)
その他

水産業

  • 漁業総生産量(2002年)は全国第五位。銚子港は全国有数の漁港であり、館山、勝浦などでも盛んである。の水揚げが多い。
  • 東京内湾では海苔の養殖も盛ん。かつては遠浅の干潟が広がる千葉市など東京湾奥部でも養殖が盛んに行われていたが、沿岸の埋め立てに伴い、消滅した。現在は、木更津市や富津市、船橋市などの遠浅の海で養殖されている江戸前海苔は、最高級江戸前海苔として珍重されている。また、近年、香りや味の良いアサクサノリを復活させる試みが始まっている。

県内の水産物一覧

海産物類
川産物類

製造業・鉱業

  • 江戸時代から醤油みりんといった醸造業が盛んだった。
  • 現在は千葉港とその周辺埋め立て地を中心とした京葉工業地域の誕生によって、重化学工業が盛んとなった。県の工業の特色として、化学工業と食料品工業の比重が高いことがあげられる。
  • 茂原市周辺では豊富な天然ガスを利用した工業が盛ん。
  • 市原市では工業が盛んで、工場規模は県内でトップ。
  • 天然ガス鉱床(ガス田)から産出するヨウ素は世界でも有数の産出量で、日本が世界に輸出するほとんど唯一の鉱物資源である。千葉県の生産量は年間約5,700t(平成11年)で、全国の約87%を占めている。なおヨウ素の産出は世界の約35%を日本が占めているが、千葉県は世界一のヨウ素産出地でもある。

県内の工業製品一覧

県内に工場のある主要企業

県内に本社のある主要企業

観光業

マスメディア

新聞

県は産経新聞以外の全国紙東京新聞夕刊も配達するエリア。

全県新聞
地域限定新聞
  • 稲毛新聞(千葉市の希望者・各世帯に配布・本社千葉市)
  • 柏市民新聞(柏市の希望者・各世帯に配布・本社柏市)
  • 房日新聞(館山市・鴨川市・南房総市・鋸南町の希望者・各世帯に配布・本社館山市)
  • 新千葉新聞(本社木更津市)
  • 房総時事新聞(本社木更津市)
  • 日刊常総新聞(本社銚子市)
  • 大衆日報(本社銚子市)
  • 外房新聞(鴨川市・勝浦市の希望者・各世帯に配布・本社鴨川市)
  • 地域新聞(本社八千代市)

テレビ局

放送区域は関東広域圏に属する。千葉県域放送のチバテレビのほかに、NHK放送センター総合テレビ教育テレビ)と在京キー局5局(日本テレビテレビ朝日TBSテレビ東京フジテレビ)が県内全域で映る。またチバテレビのみならずNHK・キー局ともに県内東南部に中継局を置いている。

放送大学テレビ、東京メトロポリタンテレビジョン (TOKYO MX) は県北西部の一部が可聴範囲に入り、送信所のある東京タワーに向けてUHFアンテナを立てるか、CATVを通じて視聴している世帯も少なくない。MXは送信アンテナの位置が低いため、放送大学テレビと比べ可聴範囲が広くない。なお放送大学本部は千葉市美浜区にある県内に主たる事務所を置く放送局である。

また北西部の一部のUR賃貸住宅などではテレビ埼玉(テレ玉)に、東京湾岸地域ではテレビ神奈川 (tvk) にもアンテナを向けている世帯がある。ただし北西部ではNHK石岡中継局(アナログ)やテレビ東京宇都宮中継局(デジタル)と混信してしまう地域がある。

ラジオ局

AMラジオ(本県はニッポン放送の送信所はあるが、中継局を含めた中波の放送局がない。この事例は埼玉県群馬県奈良県も該当する)は、関東広域圏の局が受信できるが、受信状況には県内各地により差がある。また日本の制度外の放送波ではあるが、AFN東京の電波も一部地域で届いている。

FMラジオは、東京都のエフエム東京(TOKYO FM)、J-WAVE及び放送大学FMが、北部の広範囲と東京湾沿いの地域で受信できる他、神奈川県の横浜エフエム放送(Fm yokohama)、埼玉県のエフエムナックファイブ(NACK5)、山梨県のエフエム富士(FM FUJI)三ツ峠中継局が県内の一部で受信できる。

ケーブルテレビ

Category:千葉県のケーブルテレビ局を参照。

送信所がある放送局

上記の他、下記の放送局の親局送信所が千葉県内にある。

地域文化

文化財

有形文化財建造物

重要伝統的建造物群保存地区

国指定文化財

県指定文化財

主な観光地

北西部から南東部に向け記載

!Wikitravel-旅行ガイドブック・千葉版も参照
下総地区

東葛エリア

浦安市

市川市

船橋市

八千代市

野田市

松戸市

我孫子市

柏市

印旛エリア

佐倉市
成田市
印西市
印旛郡栄町

千葉エリア

千葉市

習志野市

海匝・香取エリア

銚子市

旭市

香取市

匝瑳市


上総地区

木更津・市原エリア

市原市

袖ヶ浦市

木更津市

君津市

富津市

長生・山武エリア

山武郡芝山町

東金市

茂原市

長生郡一宮町


安房地区

夷隅・安房エリア

勝浦市

安房郡鋸南町

夷隅郡大多喜町

いすみ市

鴨川市

南房総市

館山市

千葉県の祭り

千葉県を舞台にした作品

文芸作品

物語・風土記等
歌舞伎
読本
小説

絵画

富岳三十六景葛飾北斎
  • 登戸浦:千葉市
  • 上総ノ海路:市原市
富士三十六景歌川広重
  • 下総小金原:松戸市
  • 房州保田海岸:鋸南町
利根川名所百景
  • 塩焼き小屋周辺之図:市川市
江戸名所図会斎藤月岑長谷川雪旦
  • 国府台断岸之図:市川市
  • 勝間田の池附近の図:船橋市
江戸近郊八景之内
  • 行徳帰帆:市川市
名所江戸百景今昔対照
  • 堀江猫実:浦安市
  • 利根川ばらばら松:浦安市
  • 真間の紅葉手古那:市川市
  • 鴻の台利根川風景:市川市
諸国勝景(三代広重)
  • 下総利根川之図:市川市
成田名所図会
  • 野馬捕り之風景:松戸市
成田土産名所尽(三代広重)1890
  • 市川のわたし:市川市
  • 行徳新河岸市川:市川市
  • 船橋驛大神宮:船橋市
  • ならし野松原 旧小金原:船橋市
  • 大和田驛朝立之図:八千代市
  • うす井 印旛沼の景佐倉市
  • 佐くらの入口 かしま橋:佐倉市
大日本国郡名所
  • 佐倉(佐倉市)
六十余州名所図会
  • 下総銚子の浜外浦:銚子市
その他
  • 総房海陸勝景奇覧:(北齋)千葉県各地 1791-1804
  • 北条九代記鴻之台合戦(錦朝楼芳虎)市川市 1852
  • 下総舟橋大神宮:(二代広重)船橋市 1854
  • 下総国金椙御滝山不動堂之図(芳幾)作成年不明
  • 日本武将祖神関東三社眺望勝景(橋本貞秀)香取市周辺 1864
  • 従上総下総海辺富士遠望(国輝)千葉県各地 1868
  • 利根川東岸一覧:(貞秀)市川市・浦安市 1868
  • 大調練天覧之図:(曜斎国輝)船橋市 1874
  • 油絵・稲毛海岸(ジョルジュ・ビゴー)1882
  • 松戸驛舟橋行列之図(東洲勝月)1889

映画

ドラマ

漫画

アニメ・ゲーム

県内の主な産物・特産

工芸品

細工
織物・衣装等
人形
楽器
神祇品
木工品
焼き物
その他

食品

加工品
菓子類
地酒

日本酒メーカー一覧を参照の事

乳製品
農産物
海産物
畜産物
他の産物
郷土料理

ご当地駅弁

千葉駅の浜弁シリーズ
  • 潮干狩り弁当
  • やきはま弁當(1940年に登場した伝統駅弁)
  • 勝浦鰹のたたき漬け炙り盛り
  • やきはま丼(ハマグリ型の陶製容器に入っているのが特徴)
  • 大漁万祝
千葉駅菜の花トンカツ駅弁
  • トンかつ弁当
  • 菜の花弁当
  • JUMBOカツ弁当
千葉駅の幕の内の駅弁
  • 下總弁当
  • 若潮弁当
  • 大人の休日
  • 千葉万葉
千葉駅・季節の駅弁
  • 秋のきのこ御飯弁当
  • 海鮮寄せ鍋風炊込御飯弁当 (12月限定駅弁)
  • うなぎ弁当(土用の丑の日前後の期限限定駅弁)
千葉駅の他の駅弁
  • 万葉軒のやき肉弁当
  • 万葉御寿司
  • どんとちらしまつり寿し
  • 鰯乃押寿司
  • 鯛のもぐり御飯 花鯛
  • 南房総花摘み弁当
五井駅の駅弁
  • あさりめし
  • 房総ちらし
木更津駅の駅弁
  • こだわり横丁バーベQ弁当
  • 木更津簀立て
  • 漁り
安房鴨川駅の駅弁
  • 房総半島うにとさざえめし(外房線・安房鴨川駅の駅弁)
  • わかしお弁当
  • さんが焼
  • あわびちらし
  • 房総半島うにとさざえめし
  • 幕の内かもがわ
館山駅の駅弁
  • くじら弁当

その他

鑑賞用植物
  • 一粒丸(成田山御霊薬):成田市
画材・顔料

千葉県出身の人物

スポーツ

野球

サッカー

フットサル

プロレス

ラグビー

アメリカンフットボール

バスケット

相撲

ボクシング

陸上競技

姉妹提携都市

千葉県の環境

地下水

特筆事項

  • 行川アイランド(勝浦市)は2001年8月31日をもって閉園となった。現在、園内で飼育されていたキョンが野生化し、問題化している。
  • 2006年に、全国初の障害者差別をなくすための条例である「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」を制定した。
  • 2010年9月25日より千葉県においてゆめ半島千葉国体(第65回国民体育大会)が開催される。

注釈

  1. ^ 海面が10m上昇した場合の関東地方の想像図
  2. ^ a b 『平成18年埋蔵文化財包蔵地の実態調査』(文化庁調査)
  3. ^ 房総の海岸はアワビの産地であり、宮廷人の好む真珠がとれたのであろう。また、万葉集1738番に上総の美しい娘の名前が珠名であったという歌があるところから珠の国と言われたのか。わざわざ珠国と言い換える程でもない。
  4. ^ 官道は、大路山陽道のみ、中路・小路に区分されていた。
  5. ^ 官道には30里(約16キロ)ごとに駅家が置かれ、駅鈴を持った駅使と呼ばれる使者が駅馬を利用し、中央と地方との連絡を取っていた。
  6. ^ 諸国間で文書を逓送したり、国内を連絡する使者が利用した。
  7. ^ 『詳細については享保の大飢饉を参照
  8. ^ 嶺岡牧があった場所には2008年現在千葉県畜産総合研究センター嶺岡乳牛研究所があり、日本酪農発祥之地の記念碑が建っている。
  9. ^ 詳細については『葛飾郡』の事項を参照
  10. ^ 安房地方の旅行案内書一覧
  11. ^ コロネット作戦(Operation Coronet)』を参照
  12. ^ 当時は、建築基準法などにも公害防止のための基準などがなく、4大公害の発生に伴い1967年8月3日に公害対策基本法が制定された。
  13. ^ 特に汚れている県内の沼:手賀沼印旛沼
  14. ^ 船橋市においては、道路の整備率は、計画段階の4割以下で、都市計画道路も多くは、完成していない状況である。
  15. ^ 千葉県の道路事情が良くないのは、近代になってからの交通整備の経緯が大きく関係する。千葉県には、戦前から(鉄道連隊の存在や観光・物資輸送等の目的から)盛んに鉄道交通網が進められ、現在では鉄道県と称されるほど多くの鉄道路線が存在し、交通手段の中心を担っている。しかし、これは逆に道路交通より、鉄道交通を優先して発展してきたことを意味しており、1950年代以降から始まった開発では、鉄道会社や公団を中心に駅前開発が進められ、都会が生まれた。逆に農家が居住している地域は取り残され、道路交通が中心となっている。
  16. ^ 毎月常住人口調査月報インデックス/千葉県
  17. ^ 千葉県総合企画部報道広報課「千葉県のあらまし2 千葉県のシンボル」より。
  18. ^ あたらしい千葉県ロゴの作成について
  19. ^ 千葉県インターネット放送局

関連項目

参考文献

外部リンク

千葉県庁公式
官民の観光サイト
関連データベース
関連資料

先代
木更津県印旛県新治県
行政区の変遷
1873年 - 現在
1875年に現在の行政区が確定
次代
南関東州(未確定)